第21話

文字数 9,535文字

 五日後。月曜は敬老の日で祝日だったが、この週は祝日が二回あるというめずらしい週だった。
 金曜日、秋分の日。隔週で変わる休日ダイヤで、鈴掛行きの手ごろな時間の便がある狙い目の日。
 数日前に降った雨の跡は路面からあらかた消えていた。秋雨だという。大型の台風がひとつ南の海上から接近中だが、これは北上せず大陸のほうへと抜けていく軌道らしい。秋の台風シーズンでもあるという。
 鈴掛へ至る道沿いはこの日、普段より活気づいていた。「やな」と呼ばれる仕掛けを使う「やな漁」がこの地域の河川で解禁となり、やなを仕掛ける幼児向けの体験場や、獲れた川魚を提供する食事処がそれを目当ての客でにぎわう。『アユ』や『アマゴ』と書かれた旗が時折、車道から見えるようになる。
 鈴掛でも、数少ないこうした食事処が朝からのれんを出していた。過ごしやすい好天で、河川敷をのぼってすぐの通りを、ツーリング中の自転車やバイクが何台も過ぎていく。
 だが通行人はほとんどいなかった。通りをはずれた坂ともなると、人はおろか今は車両の一台もない。この先には古寺と、あとはひたすら山道が、それを越えた先のほかの地域まで続いているだけだった。
 古寺の境内で風鈴が鳴っている。風鈴と聞くと夏を思うことが多いが、この寺では夏でなくとも四六時中鳴っている。喧騒から遠い田舎にはよく聞かれるように、この寺にも、この地域特有の変わった風習が根づいている。
 裏手の山から、草刈りの音が断続的にしていた。
 階段から山門を、少女がひとりでやってきてたった今くぐった。ちょっと立ち止まってあたりを見回し、自分のほかには大人の男女がひと組、本堂の前で、絵馬代わりの風鈴から下げる短冊に何か書きつけているきりと分かると、なんでもないふうを作りながら扉のあいている本堂へ近づき、座敷に上がりかけてなかをのぞく。
 住職はいなかった。だがその妻か娘か知らないだいぶ年配の女性が、扉側の座敷の机の前に、ちょこんと座って少女を見た。会計用の小机らしかった。
 「こんにちは」
 少女は話しかけた。もうおばあさんと呼んでいいだろう女性が「こんにちは」と笑顔を返す。
 「すみません、あの……」
 少女はすぐさま言った。
 「私、あっちのお墓に落とし物したかもしれないんですけど、ちょっとさがしててもいいですか?」
 女性は「あらぁ」と表情を変えた。
 「何を落としちゃったの?」
 「えっと、定期入れ」
 「あらぁ。見つかるかねぇ……落とし物は、あれば、掃除のとき拾うんだけどねぇ。定期入れは」
 「いいんです。だいじょぶです。どこで落としたか、よく分かってないんです。もしかしたらここかもって、思い出して来たから。前にお墓参りしに来たから。ほかのお墓に気をつけるので、ちょっとさがしてみてもいいですか?」
 「ええ、ええ。もちろん。あるといいわねぇ」
 「はい。ありがとうございます」
 少女はやわらかくうなずき、内心ほっとしながら座敷を下りた。線香の匂いがぷんと香った。
 まあよっぽどだめとは言わないだろうと踏んではいたものの、公然と墓地にとどまる許可が取れてよかった。今の女性は足腰に自信がないのか座布団を立ち上がる気配がいっこうなかったから、あとは話に聞いていた「住職の手伝い」という老人の男性に注意する。この草刈りの音も、その男性が立てているかもしれない。
 鐘撞き堂の横を過ぎながら、少女はスマートフォンを手に電話をかけた。
 「もしもし。だいじょうぶだったよ」
 コールがやみ、声をひそめる。
 「お寺にいたの、おばあさんだった。……知らない? でも、いいって言われたから、これから見てく。……うん、分かってる。……うん。任せて。絶対うまくやる。……ありがとう。あとでね」
 下で待つ光四郎との通話を切ると、風荷は目の前に広がる墓地を見据えた。
 ひとりの仕事。とても重要な仕事をする。
 失敗はしない。

 日曜日の電話の時点で、四人のあいだに、きょうの鈴掛行きについてはすでに話し合いがされていた。その際、葉月は当然行きたがったのを、泉が制して、自分たちより風荷が行くべきと主張した。
 「僕たち、あのめんどくさいおじいちゃんに顔を見られちゃってるでしょ? あの人、いつもあのへんでなんかしてるみたいだし、もしまたエンカウントしたら今度こそ怪しまれるよ。だったら、あの人にまだ知られてない風荷が行ったほうが仕事しやすいと思うの」
 人数が多いより少ないほうが目立たないし、風荷は知的な感じが好印象の女の子だから、あの老人も気を許しやすいのではないかという。
 それなら行くだけ行って、自分たちは寺の外で風荷が終わるのを待てばいいと葉月は主張し返した。が、なぜか泉はそれも否定して、
 「だったらその役は光四郎がやりなよ」
 と、自分と葉月を除外したうえで光四郎を指名した。確かに風荷ひとりにすべての重責を負わせるわけにはいかないから、助っ人として光四郎が彼女と一緒に行けばいいと言って、こちらはどうしても同行したかった葉月を困らせた。
 「でも、僕も行きたいよ。風荷の邪魔は絶対しないし、気をつけるから……」
 画面越しに葉月はけなげにうったえていたが、結局は泉に説き伏せられて渋々承知した。だが納得はいっていないようすだった。
 風荷も風荷で、ここにきて大役が自分に回ってきたことへの緊張は覚悟していたのでよしとしても、とりあえず鈴掛までは四人一緒に行くと思っていたから泉の提案を聞いたとき、ちょっとどきっとした。もしかして泉は、わざと光四郎とふたりきりで自分を行かせようとしている? そんな考えが彼女の頭をよぎった。だがあの通話のさなかそれを突然尋ねるというのは無理で、泉の真意は分からなかったが、じつはそれほど深い理由はないのかもしれない。葉月と泉と光四郎の三人はつい二週間前におとずれたばかりの鈴掛へ、決して気軽に行ける距離ではないし、全員が墓地に入らないならあえて四人そろって行き直す必要はないと思っただけかもしれない。頭の回る泉だから、現場に行くのはふたりで十分、あとのふたりは残って補足の調査をしたほうが合理的、くらいのことは考えたかもしれない。
 風荷はそのとき、そんなことをあれこれ思って戸惑いながらも、強いて反対はできなかった。一方、光四郎も「いいよ」とあっさり答えて反論も何もなかったので、葉月の希望もむなしく計画はそのまま進んでしまった。葉月としては大いに不本意だったはずだが、あのあと泉がうまくなだめたらしい。
 葉月と泉、特に葉月は今週、泉のアシストを受けながら自分が夢に見たトンネルの特定を頑張ってくれていた。だが風荷が学校で顔を合わすたび、その進捗が思わしくないことはすぐ分かった。
 「トンネルって、どれも似てる。古いやつになるほど、どんどん同じに見える」
 教室で葉月は困り顔に語った。
 「僕は夢で、あの人が通ったトンネルを走ったけど、それって内側からしか見てないってことだから。外側からの見た目を知らないから……」
 もっともだと風荷は思った。トンネルの内部を夢に見ただけで、現実にそれがどのトンネルか、何のヒントもなしに特定するのは至難の業だった。葉月が夢で体験したことが、現実の「彼女」の実体験とどれだけ近かったのか、その信ぴょう性も、葉月には悪いけれど、それが百パーセント完璧だったと言い切ることはできない。県内にある約130のトンネルだけでも、それらの画像や写真を見れば見るほど夢の記憶とごっちゃになる。これだったような気も、そうじゃなかったような気もしてくる。ほんとうにもどかしいと葉月はため息をついていた。
 「候補は何個かあるんだけど。……隧道(ずいどう)って言い方してるくらい昔のトンネル……」
 だが自信はないという。県内だけでこうだから、全国にあるトンネルすべてを考慮に入れたら、葉月の気力がもつかどうか。相当厳しいだろう。
 だからこそ、きょう、この墓地で風荷に任された仕事は重要だった。「彼女」に関して少しでも具体的な情報が欲しい。あの花火大会の夜、ここでの出来事が契機となって「彼女」は出現を開始した。手がかりはきっとここにある。それをどうしても手に入れなくてはならない。
 彼女は駅前のバス停で光四郎と待ち合わせ、ここへ来るまでの道のりを思った。メッセージをやりとりして時間や持ち物を決め、どういう流れで仕事をするか話し合った。学校では泉や葉月とも相談した。
 行きのバスは風荷がびっくりするくらいすいていて、普段バスに乗り慣れないせいか非常に揺れるように感じた。その揺れもまた慣れない種類の妙な揺れで、プラス、自分に任された役割に対する緊張もあいまってか、バスが山あいに入ってから、河川沿いのゆるやかな連続カーブで彼女は少し酔ってしまった。乗り物酔いはしないほうだと自分では思っていたから対策もしてこなかったのだが、光四郎は彼女の不調にどうしたわけかすぐ気づいたらしく、後方の席から前の席へと場所を替え、飲まないより飲んだほうがいいと思うと言ってタブレットの酔い止めを渡した。母親や妹がかなり酔うほうで、遠出のときは持ち歩く癖がついたのだという。
 「だいじょうぶ?」
 光四郎は時折、尋ねた。それ以外では車内ではほとんどしゃべらずにいてくれたので、風荷は気兼ねなく酔っていられたというか、酔いを隠さず窓にもたれていられた。おかげで到着のころにはだいぶ回復して、秋の気配を色濃くたたえている自然の景色の移ろいを、綺麗と思って眺める余裕もできた。
 それで光四郎は最初、もともとの予定を変更して、彼自身も墓地へ入りたがった。あの老人にふたたび顔を見られることへの警戒感はあるにしろ、それ以上に、風荷だけに墓碑の確認を任せるのが不安になったらしかった。
 「ひとりより、ふたりでやったほうが早いと思うし」
 彼は晴れた空を見上げ、
 「日差しもあるし。風荷、あんまり外にいないじゃん。少なくとも俺よりさ。……また具合悪くなるかもしれないから。あのじいちゃん来たら俺、隠れるし……」
 だが風荷はそれをことわって、ひとりで平気と強く言った。それでも心配する光四郎をバス停でしばらく説得し、彼は、何かあったら迷わず電話でヘルプを呼ぶこと、自分は階段下で待つ、という条件でようやく折れてくれた。
 ほんとうは、光四郎の言うようにふたりでやったほうが、風荷にはどんなにか気が楽だった。けれどそれでも、ひとりのほうがいいと思った。理由はちゃんとあった。
 光四郎がそばにいると、心臓がうるさくて集中できないから。それか余計なことまで尋ねたくなってしまうから。
 日曜日、四人での電話のあと光四郎は美春と会ったのか、風荷は知らないままでいる。そして尋ねないつもりでいる。それなのに、自分が明光第一の生徒ではないことが、彼女にはこの一週間、人知れずなんとも言えず歯がゆかった。だから、こんな大切な仕事のとき、自分を乱す光四郎が近くにいてはいけないのだった。
 何食わぬ顔で、風荷は墓石と墓石のあいだの通路を歩く。明るい日差しは、真夏のそれとはもうちがう。
 前回、泉が撮影した画像を頼りに、まずは肝試し中に撮影隊のメンバーがとどまっていた地点、つまり彼らによって供え物が荒らされたあたりから予定どおり始める。
 墓地に人の姿はまだなかった。が、しおれていない花の生けてある墓石が目立つ。出入りは決して少なくない。だれも来ない今のうちに、できるかぎりことを進めておきたい。
 風荷は肩掛けのバッグから手帳とペンを取り出した。スマートフォンで片っ端から撮影したほうが早いんじゃないかと泉や光四郎は言っていたけれど、SNSや写真撮影に熱を上げない彼女は、フォーカスや彩度をいちいち気にする暇を惜しむ。うまく撮れたか、その都度チェックする暇ももったいない。
 日記をつけたり勉強したり、日ごろ文字を書き慣れている彼女にとっては、このやり方が一番だった。撮影はあくまで補助。素早くメモを取ることには自信がある。
 ペンをくるりと回し、風荷は眼鏡の位置を直した。
 見るべきポイントは分かっている。俗名、そこから推定される性別、享年、そして没年月日。「彼女」に該当しうる候補者をピックアップする――……。
 もう一度あたりのひと気を確認し、耳をすませた。風鈴に交じり、草刈り機の音は山中から響いていた。
 帰りのバスの時刻がある。光四郎を待たせている。葉月と泉も、きっと結果を気にしている。
 のんびりしてはいられない。
 風荷は仕事に取りかかった。

 約一時間後。
 日差しのかたむきの具合で夜の長くなり始めていることが視覚に分かるころ、一日の草刈りを終えたその老人の男性は、汗をぬぐいつつ、山道を寺の裏手へと出られるほうから姿を現した。
 男性はそのとき、墓地を見透かした先の境内を、山門へとさっと抜けていく少女を目にした。スカートの裾をひるがえして少女は風のように門をくぐり、一瞬のうちに境内から消え去った。もう今ごろは階段を駆け下りているだろう。
 ひとりで来ていたようだった。このあたりの子だろうか?
 はて……。男性はちょっと不審げに首をかしげた。
 確かに彼岸の時季ではあるが……最近どうも、大人の付き添いなしにここに来る子供が多い……。
 少女の去ったほうへ男性は細めた目を向けていたが、はたらき疲れた頭にそれ以上は何を思うでもなかった。自分より高齢で体力に自信のない住職夫妻に代わり、それからいつものように墓地内の見回りを始めた。
 五分、十分ほどのち、男性は満足して本堂へ上がると、座布団に座ったままうたた寝していた住職の妻へあいさつをした。
 「や、どうも。……」
ふたりはしばし他愛ない世間話にふけり、お茶を飲み、やがて男性がうちへ帰るというとき、妻のほうがようやく思い出したというふうにふと、つぶやいた。
 「そういえば、さがしものは見つかったのかしら?」
 
 夕暮れが西の空を美しく染めている。
 駅前のバス停で、それより少し離れたロータリーに母親の迎えが来ているという風荷と別れたあと、光四郎は駐輪場から出した自転車にまたがり、生ぬるい夕風を立ちこぎで切っていた。大通りで信号にぶつかると、腰を下ろして行き交う車の数々をサドルからぼうっと眺めた。
 きょうはとてもあっという間の一日だったように彼は感じていた。スマートフォンのメッセージには、美春と妹と泉からそれぞれ新着があって、彼は信号待ちのあいだ泉のものだけ既読にした。
 『うまくいった?』
 『家着いたら教えて。電話しよ?』
 という結果報告待ち。うまくいったと具体的な返信をしかけ、長文が面倒になってやめる。だから電話しようと泉は書いてきたのだろう。
 信号が変わる数秒前、『いいよ』と返してスマートフォンをしまい、ペダルを踏みこんだ。空が色づいていく。それを綺麗だねと言って、風荷はバス停から見つめていた。だが光四郎はそのとき、午前中に送られてきた美春からのメッセージを既読にしたきりスルーしていて、しびれを切らした彼女が電話をかけてくるのではと心配していて、空よりもスマートフォンの画面を気にしてちゃんと見ていなかった。
 だが今なら彼は、風荷の言ったとおり綺麗な色だなと思う。風荷がそう言ったときよりさらにそのグラデーションは濃く、あざやかになっている。
 風荷はあの墓地で、ひとりで頑張ってくれた。頬を紅潮させて彼女が階段を下りてきたあと、ひとまずバス停まで戻り、屋根の下で、光四郎は彼女が取ったメモを見せてもらった。撮影隊がとどまったあたりだけでなく、すべての墓碑を確認して回っていたのだという。
 風荷いわく例の老人には会わなかった。運が良かった。光四郎は下で待っているあいだ、手に花をたずさえ階段をのぼっていく訪問者を山道のカーブの陰から見ていたが、その頻度が予想以上に多いのでネットで調べて、今が秋の彼岸のまっただなかであることを知った。彼らは風荷のいる墓地にも来て墓参りをしていったが、風荷はその際、目立たないよう気を払ったので問題なかった。やりたかったことは無事済んだ。彼女は境内をあとにする前、本堂へ寄って、なかに座っていたおばあさんに声をかけて「定期入れは見つからなかった」と説明してさらに礼まで言って去るつもりだったが、当の本人が居眠りしていたのでそれを幸い、急いで山門をくぐった。
 風荷の取ったメモの字は読みやすく簡潔だった。このなかのどれかが「彼女」だと、納得させるような字だった。光四郎は興奮を覚えながらその成果をじっと見つめていたが、ほどなく市内行きのバスが来たので、自分たちのほかはだれも乗らないそれに乗車した。
 突如聞こえてきた盛大な排気音に光四郎が振り向くと、白のカスタムセダンが、流れ星のような速さで車線を飛び越え直進してくるところだった。そのテールランプを見送りながら彼は自転車のスピードをゆるめ、わざと迂回路を選んでペダルをこぐ。寺の階段下で今が彼岸と知ったとき、「暑さ寒さも彼岸まで」という表現もついでに学んだ。それがほんとうなら、残暑ももう終わる。
 帰りのバスで、風荷は光四郎の隣に座るのをこばんだ。
 「私、たぶん汗くさいから」
 と言って顔を赤くして、彼女は通路をはさんだ反対側の席に座った。光四郎は「うん」とか「分かった」とか適当な返事をして別になんとも思わなかった。風荷のノートを借りて対面の椅子の通路側に腰を下ろし、あれこれ「彼女」のことを考えて、走行音もあったので風荷とは話さなかった。風荷も窓のほうに顔を向けていた。
 けれどしばらく経って、光四郎がふと見ると、風荷は頭を大きく通路側へもたげて、いつの間にか眠っていた。
 光四郎の目は釘付けになった。
 もし「彼女」の夢を見ていたら?
 真っ先に思ったことはそれだった。すると彼の脳裏に、夏休み中の妹にあったことが鮮明によみがえった。妹も、あのときちょうどこんなふうに、なにげなくソファーに寝ていた……。
 バスは揺れていた。気づくと光四郎は自分の席から通路越しに手を伸ばし、風荷を起こそうとしていた。だがその手が触れる直前、ためらって少し引っこめた。きっと彼女は疲れて眠っている。起こすのは悪いような気もして、彼は手を伸ばしたままの妙な体勢でちょっと逡巡したが、もしもの恐怖には勝てなかった。
 肩をつつくと、身じろぎして風荷は頭を上げた。一瞬、何が起きたのかと悩む顔で光四郎を見た。
 「ごめん」
 光四郎は言った。
 「でも、寝てたら……」
 それだけで風荷は光四郎の意図が分かったらしかった。カーブに差しかかって身体が振られ、「見てないよ」と彼女は言ったが、声が寝ぼけていた。じつは見ていたかもしれなかった。
 「ごめん。眠くて。……眠いの……」
 と、ずれた眼鏡を直そうとしていた。それを見た一瞬あと、バスがカーブを抜けると光四郎は立ち上がっていた。脳が勝手に彼に命じて、彼を立たせたようだった。風荷はやはり彼の意図を悟ったらしく、寝ぼけまなこに「いいよ」と言っていたが、彼は無視して風荷を窓際の席へ押しやると、自分は彼女のいた通路側に座った。
 そうなってから少しのあいだ、風荷は口数なく窓から外を眺め、起きていたようだったが、やがて彼は自分の左肩に彼女の重みを感じるようになった。だが彼としては、通路をはさんで座っているよりは、このほうがなぜか安心できた。根拠はなかったのだが、こうして並んで座っているほうが、もしも風荷があのときの妹のようになっても、まだ平気だと思えた。
 風荷はおそらく、残りの乗車時間の大半を、自分が光四郎にもたれかかって眠っていたことは覚えていない。目覚めたときはもうその体勢ではなくなっていたから。さらには、そうして眠っているとき、光四郎に眼鏡をはずされていたことも覚えていない。寝ぼけて自分ではずしたと思っている。だが彼は、頭を寄せかける彼女の眼鏡の留め具がちょうど鎖骨のあたりに当たって、それがけっこう痛かったので、ある時点で彼女をのぞきこむと眼鏡を抜き取ってしまっていた。
 光四郎が、「彼女」の力の影響で自分が以前とは別人になっているように実感したのは、その眼鏡をはずした瞬間だった。今までも何度かそう感じてはきたけれど、その変化を特に決定的と確信した瞬間だった。
 とても奇妙な感覚で、彼は風荷の眼鏡を手もとに見下ろし、手持ち無沙汰にもてあそんでいた。今までの自分の頭のなかには存在したことのなかったもの。妹の世話をするのとはまた異質のもの。大概がサッカーやゲームや流行りの動画で占められていた単純な自身の一部が丸ごと刷新されたような、自分がまだ小学生であることを時折、忘れてしまいそうになる……それか忘れたくなる。
 左肩へかかる風荷の重みを意識すると、その感覚も段階的に強くなっていった。そして胸の奥が少し気になる。ガスが抜けるように圧縮されている心地がする。
 右へ左へ、バスに揺られながら光四郎は無性に戸惑い、自分で自分に訊いてみた。
 あのさ。
 ……俺、風荷を気にしすぎてる?
 ……そう? そうじゃないかもしれない? これが普通? 普通じゃない?
 答えは出なかった。ただ、彼女を起こさないよう気をつけるだけだった。それから眼鏡を壊さないよう、慎重にいじるだけ。地味な委員長タイプの女子。真面目な優等生。だから、きょうの仕事は負担だっただろうな……と思った。
 駅前に着いてバスを降りる数分前、お母さんが来てるからと風荷は言った。
 「今度は遅刻じゃないね」
 光四郎は答えたが、そのとき彼は、もうあと少しで「じゃあ一緒に帰れないね」と言うところだった。そう答えるのは何かヘンだとギリギリの手前でふと思ったから、やめていた。
 けれどそれって?
 結局どういうことだろう?
 光四郎はペダルをこぐ足を止めた。
 「夢、見てた?」
 風荷が目覚めてすぐ彼は尋ねた。
 「ううん。見なかったよ」
 風荷は目をこすって、起き抜けのちょっとかすれた声で笑った。
 「すっごく寝ちゃった……」
 そのとき彼女は裸眼だった。眼鏡のない素顔……光四郎は思い出し、またも無性に困惑して地面を蹴る。
 「疲れたんだよ。ひとりでやったから」
 「でも私、光四郎くんがいてくれてよかった」
 「俺、下で待ってただけだよ」
 「ううん。……ちがうよ……」
 その夜、家に着いてベッドに寝ころびながら泉と長電話したあと、彼はそのまま眠りに落ちた。手の力が抜けて、床にスマートフォンがぶつかった音も記憶になく、まどろむのではなくほんとうに深く眠ってしまった。
 そして「彼女」の夢を見た。だが今回、「彼女」は美春ではなく風荷の姿をして現れて、彼に近づきチョーカーの発見を迫った。
 明け方その夢が終わったとき、彼の困惑はさらに大きくなっていた。きょう、どんな顔をして風荷に会えばいいのか。その気まずさ、もしくは後ろめたさは風荷のせいではなくて、むしろ夢のなかの彼自身のせいだった。その夢のなかで彼は今の美春のように大人びていたし、いろいろなことをすらすら言って、そして泉の気取った言い方を借りればかなり――性急だった。それか、親や親戚なんかの表現を使えば、マセていた。いつもの彼では全然なかった。まるで取りつかれていたかのように。
 それを「彼女」のせいとするなら?
 ……光四郎はひそかに思った。
 「彼女」は、とても情熱的な女性だったんじゃないだろうか。生きていたころ。
 少なくとも……葉月いわく、「愛した男」に対して。
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