第18話

文字数 11,855文字

【捜索】

 その週末の土曜日は各クラブチーム同士の交流試合があって、原則として全員参加というのが通例になっていたが、月曜に泉からメッセージをもらっていた光四郎は堂々とそれを休んで平気な顔をしていた。今ではなんとも思わなかった。サッカーに対する情熱がふたたび復活するのか、光四郎には分からなくなっている。
 待ち合わせは駅の近くだった。妹に見送られて光四郎は自宅のマンションを出た。学校が始まり多少なりとも気がまぎれるのか、休み中のころに比べれば妹の表情は明るい。だが体調はすぐれないままだった。
 自転車を走らせ、光四郎は駅前へ向かった。駅舎から直結で行ける古い商業施設ビルが目指す建物で、そこの地下のフリースペースの端にはすでに泉と葉月が来て、自分と、そして月曜に新たに仲間に加わったばかりという葉月のクラスメイトの女子を待っているらしい。名前は「風荷」というが、光四郎はもちろん初対面だった。
 ほかの小綺麗なビルとちがって、この施設は市内でもだいぶ古株の、四角い吹き抜けの中央にエスカレーターがあるような、ややくたびれたクリーム色とオレンジ色の床が特徴の、昔ながらのデザインをしたビルだった。そのぶん客入りは週末でも少ない。
 光四郎はめったに来ない場所だった。地下と言われたのでエスカレーターで一階から下りると、ドラッグストアと雑貨屋の隣には店舗がなく、その部分が丸々フリースペースになっていた。わざわざそこを休憩に選ぶような客もいないだろう、古ぼけた椅子やテーブルのセットが雑然と並んでいる一角から、泉が手を振った。
 「光四郎~。こっち」
 きょうは黒ではなく白いキャップをかぶり、グリーンの横縞の、ユニフォームみたいなシャツを着ている。そばには前回時とほぼ変わらない服装の葉月と、はじめて見る女子が座っていた。眼鏡をかけた凛とした目で、ややさぐるように光四郎を見ている。自分のクラスに数人いる地味な委員長タイプの女子を光四郎はとっさに思ったが、薄青に近いその繊細そうな肌色が、やつれているようで、なぜとなく心配な気にさせた。
 「よし。これでそろった」
 立っている光四郎を見上げ、そばの風荷を示して泉が言った。
 「この子がメッセージで話した、風荷。はーくんと同じクラスの子。僕らに協力したいって言ってくれた」
 「おはよ……こんにちは。風荷です」
 正午に近い時刻を思ってか、あいさつを変えた風荷が礼儀正しく光四郎と目を合わせた。
 「えっと……光四郎くん。明光第一の六年生で、葉月くんと同じ、あの撮影にいた」
 「うん。よろしく」
 光四郎は葉月にすすめられた椅子に座ると、
 「泉から聞いたけど、ライブ配信を見てたの?」
 「うん。友達と……」
 「そっか。えっと、どこまで聞いてる? 明光第一にだれか知り合いって、いる? あ、でも五年か。そしたら俺も、そんな知らないけど。うちの学校、人数多くて」
 「えっと、塾にはいるんだけど。でもあんまり仲良くないから」
 「ていうかまず、えっと――風荷も見てるんだよね、夢は」
 「うん。何度かは……」
 「どんな? 話せる? 人によってちがうじゃん、内容が。だからチョーカーが何かっていうのが、人によっていろいろあるわけだし。それは葉月とかから聞いてるんだっけ。だからもし――」
 「ちょっと、光四郎? そんな急がないで。そういうの性急って言うんだよ」
 あきれたように泉が割りこんだ。
 「風荷も困ってるでしょ。もっと最初から、ゆっくりさ。そうじゃなきゃ意味ないじゃん?」
 「なんの意味が?」
 「話し合いの意味だよ。せっかく四人そろったんだし?」
 じとりと泉を見た光四郎が黙る。きょうの約束は四人そろってのいわば捜索会議だったが、他校の光四郎を風荷に会わせるという紹介の機会も兼ねていた。時間を昼ごろにしたのは風荷の都合で、彼女はこのあと、このビルの近くにある塾に行く予定だった。
 「風荷は一個上の男子と話すって、慣れてないかもしれないんだから」
 光四郎の視線をものともせず、泉が頬杖をつく。葉月はそうでもないが、泉と光四郎は睡眠の足りていない顔色が目立ち、どちらも似たように不健康そうな、どぎついオーラを発している。ふたりの疲れと焦燥がどれほどか、風荷には想像がつかない。そしてどちらも身長があって、話し方も大人っぽく、中学生と言われても不自然に見えない。
 今、泉の言ったことは当たっていた。風荷は男子と話すこと自体がまず少なく、慣れなかった。きょうだいには年の離れた姉がひとり、やや過保護な両親に守られ、近所に住む同年代の男の子と遊ぶこともなく、そのせいか接し方が分からず、学校でも塾でもなんとなく異性を避ける傾向が定着している。受験の第一志望は中高一貫の女子校で、県下有数の名門だった。
 彼女は月曜にはじめて泉を前に話をしたときも、じつはとても緊張した。葉月や直弥は見知ったクラスメイトなのでまだよかったが、そもそも他学年とはめったにかかわりがないのに、ひとつ上の先輩というだけでも若干のハードルを感じた。特に泉は、彼女は一度か二度うわさに聞いたことがあったが、「六年生にオネエがいる」というその内容のとおり、立ち姿や物腰からしてもう普通の男子ではない異彩をはなっていて、なおさらおどろいたし身構えてしまった。おとなしい葉月が、泉と幼なじみというのは信じられなかった。
 そういう状態だったから、今も彼女は心境を決しておもてにしないよう努力はしているものの、他校の六年生の、それも初対面の男子と会って、かつ異性しかいない場に自分を置いて話すというのは、彼女からすると受験の面接よりも緊張することだった。ほとんど未知の体験だった。
 「そんなの、本人に訊かなきゃ分かんない。慣れてる慣れてないって、勝手に決めるほうがよくないと思うけど」
 光四郎が泉へ言い返す。火花を浴びたようにぱちんとまばたきし、泉も言う。
 「別に決めてないよ。僕は風荷を気遣ってるの。女子慣れしちゃってる陽キャのサッカー部には分かんないんだろうけど」
 「はあ? それ、俺のこと?」
 「ほかにだれがいんの?」
 火花が散ってスパークが起きる。風荷は居心地の悪さを悟られないよう苦心し始めたが、葉月は平静そのもの、わずかに目を丸くしたきり黙ってスパークが収まるのを待っている。
 風荷は椅子の上で背筋を伸ばし、そこを冷や汗がつたわないよう願いながら膝に置いた両手を重ね直した。そばで光四郎が、うんざり顔につぶやいた。
 「ああ、もう。お前、なんなの? 泉――ケンカ売ってんの?」
 「全然。僕は仲良くしたいよ? 光四郎。チームプレーなんだからさ」
 ついさっきにはじめて見たときの光四郎の姿は、実際、風荷をひるませていた。泉が今しがたサッカー部と揶揄したのでサッカーをやっているらしいが、それは外見の感じから深くうなずけた。つまり、自分のもっとも苦手なタイプに光四郎はかなり近い気がしたのだった。スポーツの得意な、異性ともたくさん話をする活発な男子。そんな男子は大抵、口が悪くて乱暴で、中高へ上がったらすぐヤンキーみたいになるし、すぐ見境のない行為に走る――あの撮影で、あんなことが起きたように。
 さらには、同じ塾に来ている明光第一の女子たちをはた目に見ているかぎり、明光第一の生徒はどことなく怖いというイメージがあったところ、そのイメージを裏づけるような雰囲気をここにやってきた光四郎がしているから、ますますうろたえてしまった。すらりと伸びた身体、とりあえずそこにかぶせただけのような大きなTシャツ、するどいまなざし……無造作に椅子に座るなり、始まった質問攻め。
 泉の割りこみは、だから内心ではありがたかった。かといって、こんな言い争いは困る。
 「私は平気。ふたりとも、ありがとう」
 重ねた両手をぎゅっと握り、落ち着いた口調で風荷は言った。そして泉と光四郎が互いから目を離したのを見計らい、まだ答えていなかった光四郎からの問いに話題を戻そうと、「聞いて……」と話し始めた。
 「私の夢は、葉月くんと泉くんに話して分かったけど、かなり不明瞭。たぶんこの四人のうちで一番、はっきりしてない。女の人は出てくるけど姿は見えないし、声はするけど聞き取りづらかった。みんなみたいに『チョーカーをさがせ』とか、『チョーカーはどこ』って言われたことは一度もないの。だから、最初に葉月くんからチョーカーをさがしてるって言われたときは、どういうことか分からなかった。ネックレスみたいなアクセサリーの一種、っていうのは知ってたんだけど、葉月くんに言われるまではその言葉どおりに考えたことがなかったの。私はチョーカーを……首飾りじゃなくて、敵みたいなものと思ってたから。すごく怖い敵。強い力を持っていて、みんなをおかしくする」
 光四郎がうなずいた。
 「やっぱ、そっか。俺のクラス……少なくとも俺の周りでも大体そう。訊くと、みんなけっこう、風荷と似たようなこと言ってる。悪夢を見ても、本気のホラーみたいな怖さじゃなくて、はっきりしてないんだけど、とにかく怖かったっていう気持ちだけは残ってる、とか」
 「そう。はっきりしてないから、余計に話がややこしくなるの。何をしたら正解かってのが、まとまらない」
 泉があとを継いだ。
 「チョーカーをさがすっていう考えを持ってる子は、かなり少数なんだと思う。なんでか分かんないけど……どうしてみんな、それぞれ夢の中身がちがうのかな。なんていうか、夢の重さにだいぶ差があるよね。だって、夢を飛び越えて幻覚まで見ちゃったり、夢のせいで死んじゃった子もいるくらいなのにさ。なんでだろ? あの人のシュミが出てるとか?」
 「体質? 夢を見やすい子と、見やすくない子。恐怖を感じやすい子と、そうじゃない子……」
 風荷がつぶやいた。三人の視線が彼女に集まる。
 「それか、その女の人に自分がどれだけ近いか。たとえば撮影に参加した葉月くんや光四郎くん、それに入院中の光四郎くんのクラスメイト、動画を撮影して亡くなった子、そういう子たちはあの人の力の影響を一番強く受けてる。だって、あのときお墓にいたんだから。それから、その撮影隊のメンバーに近い子たちも影響を受けやすい。仲が良かったり、よく話をしていたり……泉くんみたいにね。あとは家族だったり」
 光四郎の頭に妹が浮かんだ。かすかな痛みが彼の表情をめぐったが、風荷は気づかず先を続ける。
 「もちろん例外もあるとは思う。葉月くんと一緒に参加してた直弥くんとか、それかな。撮影のあと長く海外に行ってたにしても、メンバーだったのに、そんなにひどい夢は見てないみたいだし。だよね? そう言ってたよね、葉月くん」
 「うん。でも僕は、あの人の影響は直弥もかなり受けてるんだと思う。だって直弥、いつもの直弥じゃなくなってる。学校でも前とちがう。夢はひどくなくても」
 「うん。私もそう思う。あの人の力は、私たちの夢にだけ現れるんじゃないんだよね。最初はそうだったのかもしれないけど、今はそうじゃなくなってる」
 「ね、風荷。あの人に近い子ほど強く影響を受けるっていうのは、僕もずっと思ってたんだけど、その距離感にプラスして、さっき風荷の言った『体質』を条件に加えるなら、あの人の力を一番しっかり感じてるのは、僕、やっぱりはーくんだと思うんだけど」
 低めた声で、泉が言った。
 「どう思う?」
 「そう思う。ていうか、そうだとしても俺は納得」
 風荷より先に光四郎が答えた。
 「葉月って、なんかふしぎな感じするじゃん。何考えてるか分からないっていうか。謎っていうか」
 「えっ?」
 言われた葉月がびっくりしたように声を上げた。
 「そ、そんなことないよ、光四郎。全然、謎じゃないよ。泉も、今のどういうこと」
 「そのまんまの意味だよ。はーくんはこの四人のなかでは一番、あの人に近い。良くも悪くも、近すぎてる。自分でも感じない? 僕、前にも言ったでしょ。証拠は挙がってるよ」
 「うーん……」
 「はーくんは夢だけじゃなくて、あの人の幻覚も見たことがある。夢の内容も、僕が知ってるなかではほかのだれよりもあの人と直接かかわってる。『本体』から話しかけられてる。それって、すごくレア。レアだし、リアル。僕や光四郎みたいに、自分の知ってるだれかに姿を変えてない。あの人の声に従って、だれよりも先にチョーカーをさがすって決めて、僕を誘って、あの人の夢や幻覚を無理に避けようとしない。むしろ自分から見ようとしちゃう。それもすごくレア。レアっていうか、もはやドエム――なんでもない」
 「俺も、葉月はあの人を怖がってない感じがする。夜も普通に寝るって言うし。俺、今までは幽霊とかそういうの、信じてなかったんだけど、もしかして葉月って霊感強いんじゃないの? 霊的なものに敏感な体質。たまにいるっていう、『見える人』」
 「ええと……そうなのかな? ちがうと思うけど……」
 困ったように葉月が首をかしげる。葉月としては、今回のことが起きるまではいわゆる心霊体験とは縁がなく、光四郎にそう言われても思い当たるふしがない。金縛りに遭ったことはないし、幽霊と交信した記憶もなければ、写真や映像のなかに超自然の何かを目にしたためしもない。
 「霊感じゃなくっても、第六感は強いのかもよ。葉月くんは」
 風荷が言葉をはさんだ。
 「シックス・センスね」
 と泉。真顔に風荷がうなずく。
 「気づきやすい感覚を持ってるの。地震が起きる前、犬が突然吠えたり、鳥がいっせいに飛び立ったりするみたいに……葉月くんはきっとすごく重要な役割を担ってる。私たちが普通なら怖がって、避けて感じられないものを、葉月くんはその人から感じてるの。その人の望みをかなえるためのヒント、チョーカーにつながる鍵をだれよりも手に入れやすいのが、葉月くん」
 葉月は少しもじもじして姿勢を直した。
 「でも僕、部屋の窓からあの人が入ってくるのを見て、熱を出したのが治って、学校が始まってからはあの人を一度も見てないよ。幻覚でも夢でも。見ようとしてるんだけど、まだ……だからみんなが言う感覚を持ってるかどうか、分かんない」
 すると光四郎が、
 「前のそのやばい幻覚のとき、あの人の顔は見えなかったんだっけ?」
 「うん。……ううん、見たんだけど、ちゃんと見えなかった。……影? ううん……のっぺらぼうみたいな感じだった。黒い。いくら思い出しても、ぼんやりしてる」
 「で、髪は長かったんだよね。それがあの人の本来の姿って思っていいの? 泉の言う『本体』って意味だけど」
 「うーん、自信ないけど……ほかに幻覚を見た子と話して、確認したことがないから。でもチョーカーが見つかれば、それも分かると思う」
 「ねえ、そのこと――チョーカーが今どこにあるかっていう話なんだけど」
 と風荷が三人をうかがった。
 「やっぱり私たち、それがどこにあるかさがす前に、まずチョーカーを欲しがっているその女の人がだれなのかっていうのを先に突きとめたほうがいいんじゃないかな。月曜日に泉くんも言ってたけど、あのあと私もそう思ったの。
葉月くんと光四郎くんは、あのときお墓で何かが落ちたのを見てたから、その何かがチョーカーだったんじゃないかって考えたくなるのは分かるんだけど……でも、とりあえずそれは置いといて、調べる順序を逆にしたほうが、かえってチョーカーのある場所に近づける気がするの。もしチョーカーがその人の持ち物だったならって考えてみたら、余計に」
 泉の目顔の同意を得て、風荷は椅子の位置をさらにテーブルへ寄せた。そして小声に続きを語った。
 つまり、自分たちはアクセサリーとしてのチョーカーが実在すると信じて、「彼女」のために捜索をしたい。けれど確率として、葉月と光四郎が墓地で見た落下物が、その目撃日から一ヵ月半が経過している今では、その物体がふたたびあの墓地で発見される可能性はとても低い。加えて、その落下物を「彼女」の望むチョーカーと断定するには、葉月と光四郎の目撃した一瞬の記憶だけでは手がかりが弱すぎる。その落下物が絶対にチョーカーだと、言いきれない以上は、泉の言うとおりそれはもしかするとチョーカーではなくまったくの別物だったかもしれないという考えを捨てないほうがいいし、仮にそうだったときのことを想定して、その落下物のゆくえに固執するより「彼女」の正体を、「彼女」が何者で、どういう存在で、ほんとうにあの墓地に眠る死者なのか、先にそれらを確かめるべきなのではないか。「彼女」の正体をさぐるほうが、あるかも分からないひと月半前の落下物をさがすより、もっとやりやすいはず。やるべきことを見つけやすいはず。仮に「彼女」があの墓地にある墓のどれかに埋葬されているのなら、「彼女」は確かにこの世に存在した女性で、その「彼女」が生きていたころにつながりのあった人物も、確かにこの世にいる――あるいはいた――ということになるのだから。
 「そうだよね? みんな」
 風荷はゆっくりと三人を見回した。
 「その人がいつ亡くなったかは分からない。なぜ亡くなってしまったかも分からない。
 だから、そういうことを調べるの。その人の家族や親戚や、友達、あとは知り合いの近所の人とか……その人を知るだれかは、今も生きてるかもしれない。生きて、もしかすると県内か、市内か……このすぐ近くに住んでるかもしれないから」
 「身元調査だね。探偵事務所みたい」
 泉が笑った。巷によく聞く浮気調査が光四郎の頭に、小説に登場する往年の名探偵たちが葉月の頭に、それぞれ浮かんだ。風荷も少し笑って、
 「先週にみんながお寺に行ったとき、そこにいたおじいちゃんも、もしかしてその人を知ってるかも。あのへんに詳しい地元の人って感じだったんでしょ? けど、じかに訊くのはちょっと……できそうにないね」
 と肩をすくめる。と、光四郎が尋ねた。
 「風荷は、泉の撮った写真ってもう見た? 撮影のとき、俺たちがいたあたりの墓の」
 「うん。見せてもらった。お墓に刻まれてある……あの、石碑? あれはかなり役に立ちそうって私も思った。享年が書いてあるから。名前を見れば性別も大体分かるし」
 「うん」
 「若い女性って、きっとそんなに多くないと思う。普通は歳を取って、おじいちゃん、おばあちゃんになってから亡くなるよね。でも私たちのその人は、みんなの話を聞くとかなり若いでしょ? だから頑張ってさがして、うまくいけば……」
 そばをカップルが通りすぎたので、風荷は話すのをやめた。高校生か、それくらいに見える男女だった。間延びした声で女の子のほうが笑い、相手の男の子の腕を取る。彼らは親密そうに手をつなぎ、風荷の視界の奥、ドラッグストアへ向かって歩いていく。肩を寄せ、どちらの横顔もうれしそうだった。
 あまり長く見てはいけないと思い、風荷は目を伏せた。だが彼らの姿がドラッグストアへと消えるまで黙って眺めていた光四郎が、同じくそうしていた泉と気だるい視線を交わしたあと、言った。
 「なんで小学生だけ? って思わなくもないけどさ……きっかけを作ったのが俺たち小学生だったから、そうなのかな。あの人の力は、俺たちにしか効いてない。サッカーやってても、いつもそう思う。『ほんとになんにも知らないんだな』って。あの人のこと」
 「ほんと。信じらんないよね。僕たち、こんな状況なのにさ。今の子たち、高校生かなあ? いいなあ、楽しそうで……こっちの身にもなってほしい。もうボロボロなのに」
 泉がぼやく。
 「やっぱり睡眠って大事だよ。そう思わない? 僕らのほうが若いのに、このままじゃマジで肌荒れする」
 葉月が困り顔に言った。
 「泉。泉は気にしすぎだよ。そんなことない」
 「いいよ、はーくん。お世辞は要らない。今週、りあとも言い合ってたんだから。メイクが乗らない、最悪って」
 「は? メイク? 顔の?」
 「あのさ、光四郎。もういい加減、察してよ。僕はこういう感じなの。メイクもスキンケアも、男っぽいのも女っぽいのも好きなの。ゲイって言いたいなら言ってよ。オネエでも、なんでもいいよ。そっちの学校にはいないの? 僕みたいな男子」
 「いないよ。……知らないけど」
 ぼそりと光四郎がつぶやく。
 疲労の濃い沈黙。重たい空気。
 ひらきかけた口を泉は閉じる。
 風荷は自分の高校生の姉を思った。姉も、そして自分以外の家族はだれひとり今回の影響を受けていないようだった。姉は夢も見ず流行りの動画をチェックして、メイクをして、ファッションを楽しんで、中学生までの印象とは大きく変わっている。女子高で、毎日を忙しく充実させている感じがする。きょうも。あしたも。家族は何も知らない。
 「あの……」
 振り払うように、風荷は沈黙を破った。
 「私たち……」
 弱音を言うつもりはなかった。ただ、不安はぬぐえない。恐怖と疲れと睡眠不足、受験のための勉強が思うように進まないいら立ち。一緒にライブ配信を視聴し、体調を崩した友人へ対するやるせなさ。
 「何?」
 光四郎がうながした。言うしかなくなり、風荷は自分の膝から目を上げた。
 「こんなこと、今さら心配してもしょうがないって分かってる。でも、私たちがこうやって話し合いをして、協力して、それがもしあの人を怒らせたら……って思ったの。相談するのはまちがいじゃないかな。平気かな、って」
 「それは、俺も思うけど……やっぱ、話さず済むなら黙ってたいし。何もしないでいいなら、したくないし」
 「分かるよ。みんな一緒だよ、風荷」
 と、泉が椅子から伸びをしてふうと息をついた。
 「僕も前、はーくんにおんなじようなこと言ったしね。そもそも僕らは、このことを人に話したくないんだし。チョーカーって言うたび、悪いことしてる気分だよ。取りつかれてる側としては、あの人を刺激したくない。
 でも――覚悟するしかないんだと思う。このまま全部が取り返しのつかないことになるよりは……ね、前向きにさ」
 泉の苦笑いへ、風荷はうなずいてみせた。はじめて話したときは戸惑うだけだったが、同性の親しい友達に励まされたようで、けれど彼女たちにはない、さりげない気遣いを感じた。
 風荷は肩の力を抜き、椅子に座り直した。泉の態度や接し方にはふしぎとほっとするところがある。
 黙ってやりとりを聞いていた葉月が、ふいに言った。
 「僕たちは、あの人にとって敵なのかもしれないけど、僕たちにとって、あの人は敵じゃないと思う。……」
 彼は自分の言葉に納得したように「うん」とひとりごち、テーブルから視線を上げた。
 「そう、敵じゃないよ。あの人が分かってくれたらいいのに。僕たちはあの人の敵じゃない、って。
 僕たちはチョーカーをさがすから。きっと見つけてみせるから……だからあの人も、僕たちに協力してくれたらいいのに」
 お互いが少し考えにふけるような表情をして、声が途切れた。
 そのとき、だれかのスマートフォンが通知音を発した。変更されていないデフォルトの音で、場ちがいなほどポップな響き。
 「だれの?」
 泉が尋ねる。
 応じたのは光四郎だった。彼は自分のスマートフォンを見るとわずかに眉根を寄せ、また通知音が鳴らないよう急いで設定を変えた。画面を消すと言った。
 「ごめん。俺、ちょっと先行く。いったんこれで終わりでいい?」
 「いいけど、どしたの? あっ、カノジョ?」
 「ちがう」
 泉のからかいを流し、光四郎は立ち上がった。葉月が見上げ、
 「光四郎、サッカーは?」
 「休み。っていうか休んだ。試合だったんだけど」
 「そうなんだ。いいの?」
 「うん。――じゃ、なんかあったらメッセージして。それとさっきの話、俺は風荷が言ってたことに賛成だから」
 「りょーかい」
 泉が軽く手を上げ、言った。
 「またね。光四郎も、何かあったら教えて。カノジョによろしく」
 「だから、ちがう」
 言いながらくるりと背を向け、急ぎ足にフロアからエスカレーターを上がっていく光四郎の姿が消えてから、風荷は泉に尋ねた。
 「光四郎くん、付き合ってる子がいるの?」
 びっくりしたように「早いね」と続けると、泉はいたずらっぽく笑った。
 「そんなこともないよ、風荷。付き合うくらいだったら」
 「そう?」
 「けど、確かに光四郎は早そう。いろいろと。明光第一だし」
 風荷は時計を見た。塾の時間が近かったので「もう行かなきゃ」と言うと、「じゃあ僕たちも」と泉が葉月をうながし、三人一緒に出ることになった。
 ビルのエントランスから駅へとつながるプロムナードを歩いて、改札の出入り口前で風荷は葉月と泉に別れた。ふたりの自転車をとめた駐輪場は塾と反対側だった。「また学校でね」と、風荷はふたりへ手を振った。
 時計を気にしながら、風荷はプロムナードの階段を下りた。授業前に、算数のテキストの発展問題の解き方のことで、担当の講師にいくつか質問したくて急いでいた。
 だが通りを一気に駆け抜けるつもりで最後の一段を下りたとき、風荷は自分が下りてきた階段のすぐ裏手に光四郎の姿をみとめ、あっと思って足を止めた。歩道橋ほどの高さのある大きなプロムナードで、その階段によって作られた影に、自転車を下りてハンドルを握っていた光四郎はひとりではなかった。そばにもうひとり女の子がいて、風荷はこの子がさっき光四郎を呼び出したガールフレンドだと直感し、急ぐはずの足が完全に止まってしまった。
 ふたりの話し声は、影の外に立ち尽くした風荷にも届いてきた。
 「ほんとにびっくりしたのに。試合にいなくて、光四郎……いると思った」
 「だから休んだって、きょうは友達と――」
 「でも、休むならあたしにも教えてよ。さっきまでだれといたの? 友達ってだれ?」
 「だれって、なんでそんなの、いちいち美春に」
 「だれか女子といたでしょ? あたし知ってるから、友達がメッセージくれたの、光四郎が今あそこのビルの下にいるよって。知らない女子と一緒に話してるの、見たって。地下のお店で」
 「はあ? ちがうよ、それ」
 「ちがくない!」
 美春というその女子はたたきつけるように言った。光四郎の返答はない。
 風荷は少し青ざめた顔で一歩下がると、階段の陰に隠れた。このまま行けばふたりの横を通りすぎることになってしまう。歩行者が少ないからどちらかは気づくかもしれないが、それが光四郎でも美春でも風荷には困る。気づいたほうもきっとうれしくないだろう、こんなところを見られては。
 だがここを行くのが一番の近道だった。引き返そうか迷いながらも、風荷はそっとふたりをうかがった。
 美春はかわいい子だった。かわいくてはなやかで、派手だった。大きな瞳に綺麗な形の眉をして、長く豊かなポニーテールの先はカールして揺れ、真っすぐ伸びた綺麗な両脚に丈の短いフレアスカートをはいていた。きらりと光るネックレスを着けている……チョーカーではない。胸もとには今風に結んだリボン飾り。
 あんなに怒った顔をしていなければアイドル志望の美少女と思われそうな容姿に、風荷の足はまた一歩下がった。美春がとてもかわいい、派手な子と思うだけここを下がりたい一方、美春の言う「知らない女子」がもし――もしも自分のことをさしていたらと気づいて、ますます姿を見られるわけにいかなくなった。
 美春はまた何か言ったが、今度は小声だったのか聞き取れなかった。光四郎は握ったハンドルから目を上げない。責められるに任せていた。横顔はけわしく、不機嫌というより苦しそうだった。
 「友達だから」
 少しして光四郎が言った。
 「確かに女子はいたけど、ほかにも男子がいたから、ふたり。だからちがう。みんな藤ヶ丘小だよ」
 「あたしよりその子と仲いいの?」
 「ちがうって、美春、ほんとにちがう。もう全部気にしすぎだよ。そんなんじゃない。ちがうのに」
 「じゃあなんで試合、休んだの? なんで言わなかったの?」
 「だから――」
 「あたしのこときらい?」
 「え?」
 「きらい? あたしのこと、どうでもいいの?」
 光四郎は黙った。声がやんだ。それか、何か答えたのかもしれないが風荷には聞こえなかった。
 「ねえ、きらい? ウザいって思ってる?」
 美春はたたみかけた。
 「ね、そうなの? でもあたし、そんなの……」
 美春は光四郎のそばへ行き、うつむいた。風荷の視界に、うつむけたその顔を光四郎の顔へと近づけ、静止した美春が映った。その身がさらにかたむき、触れ合いそうになる。光四郎の腕がハンドルを離れる。
 「友達でいいの、光四郎」
 自転車の前輪が大きく動いた。
 風荷はとっさに目をそむけた。何が起きているか分からなくなったが、どのみち恥ずかしくて見ていられなかった。まだ小学生なのに――もうそんな――もし自分の想像が当たっていたら。
 声がやみ、車の走る音。電車の来る音が高架を震わす。
 頬が熱かった。熱すぎた。
 目を上げられないまま、風荷はきびすを返した。
 結局、大周りをして信号に二度捕まった。これなら葉月や泉と同じ方向から行ったほうが早かった。
 やっと塾に着いたときには、授業開始の予鈴が鳴っていた。質問をするための時間はどこにも残っていなかった。
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