第3話

文字数 3,902文字

 時刻はまだ午前十時を越してもいなかったが、外気温は早朝からぐんぐん上昇し、からりと晴れた日差しに照らされ今や三十度に届こうかというところだった。危険な暑さになるため不要不急の外出は控えるよう、市は注意喚起を行っていた。
 (せん)は家にひとりだった。母親と再婚相手の義父はとっくに仕事に出かけ、キッチンの冷蔵庫にはふたりが泉のために用意した昼食が冷やされていたが、食欲はなかった。六年生の泉は自室にこもり、小学校生活では最後となる大量の夏休みの宿題に適当に取り組む片手間に、スマートフォンでメイクレッスンの動画を見ていた。「八月に絶対買うべき! おすすめプチプラコスメ七選」という内容だった。母親と義父は泉がこうした動画を好んで視聴していることに対し何も言わないが、実際どう思っているかは泉も知らない。泉は中学の制服は男子生徒用を着るつもりでいたし、その制服を別にきらいとも思っていない。……が、現在の自分の振る舞いを、中学へ上がったからといってわざわざ変えるつもりもなかった。
 動画の途中で玄関のインターホンが鳴った。泉は立ち上がると階段を駆け下りながら、
 「はあい。今、あけるね。待って」
 とサンダルを引っかけドアを押しあけ、「いらっしゃい」と笑う。玄関ポーチに立っている自分より少々小柄な相手へ、普段どおりあいさつした。
 「はーくん。おはよ」
 「おはよう。泉」
 「うひゃあ、あっついね、外。扉あけただけで、こんな?」
 「ごめん、ちょっと約束より早かった」
 「そんな、いいの、いいの。入って。もうみんな出てっていないから。僕の部屋、行こ」
 はーくんと呼ばれた少年はうなずき、泉について玄関へ入りスニーカーを脱いできちんとそろえた。青と黄緑のスポーツシューズだったが、よごれはほとんど付いていない。
 葉月(はづき)というこの少年は、泉より学年がひとつ下の小学五年生だったが、泉と通っている小学校が同じで、かつ家同士がごく近い距離に建っているため幼いころから互いを知っていた。俗に言う幼なじみの関係にあるが、学年がずれているせいか学校ではめったに言葉を交わさない代わり、そうでないときよく会って話す。大抵、どちらかが相手のスマートフォンへ連絡して都合を訊く。ことわられることはめったにない。
 今回、その連絡を先にしたのは葉月だった。泉へ電話で、家に行ってもいいか、という。
 階段を上がる前にキッチンへ寄り、ふたりで飲み物を準備して二階へ向かった。泉の部屋はエアコンが利いていて快適だった。葉月がベッド横の床に座り、泉はデスクの椅子に、背もたれを前にしてかけるというのが定位置だった。
 泉からグラスを受け取った葉月が尋ねた。
 「泉、何してたの」
 「僕? 聞いておどろくよ、この机見て。ほら夏休みの宿題。マジメじゃない? まあ動画も見てたけど」
 「なんの動画?」
 「美容系。メイク動画。夏は特に薄付きが大事だよ。ベタベタ塗るんじゃなくって、うすーく重ねるの。うすーくよ、ミルフィーユみたいに。プライマーもファンデも、コンシーラーもハイライトも」
 「ふうん」
 「あ、興味ないんでしょ。いいよ、分かってるよ。はーくんもメイクしたら似合うと思うんだけどなあ……」
 肩をすくめた泉が尋ねた。
 「それではーくんは? きょう、なんか僕に話したいことがあるんじゃないの? きのう電話でそう言ったよね」
 と、グラスからアイスティーを飲む。無糖。すると葉月は自身のサイダーがしゅわしゅわ鳴っているさまを手もとに見下ろし、その炭酸が落ち着くのを待つように無言を保ったが、間をおいて答えた。
 「うん。……言った」
 「何を話したいの?」
 「話したいっていうか……それもあるけど……まずは訊きたいこと。あのさ、泉は……」
 葉月はグラスから目を上げた。
 「チョーカーって何か分かる?」
 「へ? チョーカー?」
 「うん。チョーカー」
 「そりゃ分かるけど。チョーカーってあれでしょ? あの、首に巻くネックレスみたいなやつ」
 「ネックレスなの」
 「うーん、まあそうね、そうだね。ネックレス……でもたぶん、はーくんが想像してる形とちがう気がする。チョーカーってもっとこう、首輪っぽいの。待って、画像見せてあげる。僕、ネックレスはたまに着けるんだけどチョーカーは持ってないから」
 泉は自分のスマートフォンでチョーカーと検索し、ヒットした画像群を画面ごと葉月へ差し向けた。
 「これ、これ」
 葉月は身を乗り出してのぞきこんだが、泉の言うとおり確かに首輪のようなデザインが多かった。葉月にはこのインターネットを使った検索ができない。検索だけでなく動画の視聴やその他のアプリケーションの利用も自由にできない。葉月のスマートフォンには親の方針によりかなりの制限がかかっており、中学生になるまでは、親の許可した基本的な機能しか使えないことになっていた。
 泉は画面をスクロールさせ、「これかわいい」だの「これは微妙」だの時折つぶやいていたが、そのうち尋ねた。
 「でもどうしていきなり、チョーカーなの? もしかして欲しいの?」
 したり顔ににやと笑う。だが葉月はかぶりを振った。
 「ちがうよ。じつは……じつは夢で見た」
 「何それ、ヘンなの。チョーカーを着ける夢? それとも買う夢?」
 「ううん、どっちもちがう。そうじゃなくて、『さがせ』って」
 「はあ? さがす?」
 「うん。さがせ、って。ほんとだよ。チョーカーはどこ? さがせ。チョーカーをさがせ。そう言われる夢、だれかに……女の人に。でもだれか分からない、僕は知らない。顔が見えないから――」
 唐突に葉月は言葉を切った。泉から視線をそらしたその表情があまり深刻だったので泉は戸惑い、微妙な沈黙が広がった。そのあいだ泉には葉月のただでさえ白い頬がますます白く不健康な色へと変わっていくように見え、無性に不安になり慌てて沈黙を破った。
 「はーくん……葉月、だいじょうぶ? 疲れてる?」
 そして居ずまいを正し、続けた。
 「その夢、きのう見たの?」
 「うん。きのうも見た」
 「きのう『も』? やだ、毎日見てるの?」
 「うん。でも、ずっとじゃないよ。まだ二回か三回。はじめて見たのは八月になってから……だから、あの動画を撮った次の日の夜から」
 葉月の言う「あの動画」というのは、数日前に行われた夏祭りでのライブ配信をさしていた。
 泉の顔がたちまちくもった。
 「じゃあやっぱ疲れてるんだよ、はーくん。あんな茶番に付き合わされて、神経にダメージくらったんだよ」
 「そうかな。あんまり分かんない」
 「絶対そう。だってあれ、何? あのあと僕もう一回見直したけど、『肝試しのはずが途中からパーティーに……!?』ってタイトルで上がってるの。フザけてる、あんなの。炎上商法もいいとこだよ。コメントであおりまくってた一部もクソだけど」
 泉は語気を強め、
 「僕、配信見ながら『自分も行けばよかった』って思ってたの。そしたらはーくん連れて、すぐにあのお寺から出たのに。はーくん、最後までマジメに付き合ってあげちゃうんだから見ててほんとにハラハラした。ほかの奴ら、あのバカたちはどうでもよかったけど――そもそもだれも知らなかったし――はーくんが列の一番後ろにいるのを見つけてからは、もうずっとはーくんだけ目で追ってた。お墓であの騒ぎが始まってからはマジで心配で」
 と息をつき、椅子の背もたれに両腕を組み、あごをのせた。泉は学校では物静かで、かかわる友人の数も少ないが、本来は明るく話好きだった。
 「だから『やめろ』ってコメントしようとしたけど、どうせムダと思ってやめたの。ていうかはーくん、なんであれに参加したんだっけ? 誘われたんだっけ」
 「うん。クラスの子に言われて、人数が多いほうがいいからって……」
 葉月は困ったように首をかしげた。泉は細身の脚を大股びらきに、仏頂面で、自分の視聴した動画を思い返しているらしかった。泉がそれを見ていたのは興味があったからではなく、幼なじみの葉月が同級生に誘われ、当日のあの撮影隊に参加する予定を事前に聞いて知っていたからだった。
 葉月はあのとき、列の最後尾をひとりで歩き、寺の山門をくぐったところにあった風鈴飾り、そのちりちりと鳴る音をよく覚えていた。故人への供え物を勝手に飲み食いする行為があったさなか、彼は何もできず、ただその場に立って一部始終を静観していた。
 「泉。もう一回、画像見ていい? チョーカーの」
 「いいけど……ねえ、そんなに気になるの? その夢」
 「うーん、分かんない。でもチョーカーが何かは分かった。だれにも訊けなかったから」
 「お母さん、教えてくれなかった? たぶん知ってたと思うけど」
 「うん。そうかもしれないけど、でも……うん。そうかもしれないけど」
 葉月は同じことを言いながら、自分でもふしぎそうにまばたきした。
 「でも、訊けなかったよ」
 「どして?」
 「分かんない。訊こうと思わなかった、なんとなく……だめと思った。訊いちゃいけない気がして」
 「お母さんには訊けないけど、僕にはよかったってこと?」
 「うん……たぶん」
 煮えきらない返答に泉はため息をついた。渡したスマートフォンの画面を黙ってスクロールさせていく葉月を見つめ、
 「チョーカー、ねえ……」
 小声につぶやく。葉月は画面から顔を上げない。
 泉はふたたびひとりごちた。
 「なんで、チョーカー?」
 そしてその響きに触発され、近々自分にもひとつ、似合うものを買ってみようかと思った。汗の染みない、硬い素材のスタイリッシュなデザインの。
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