第10話

文字数 3,783文字

 状況が良くなるきざしはなかった。寝不足はひどくなる一方だった。
 いつ見るか分からないあの夢を避けたくて、できるかぎり起きていようとする。気づくと眠っていて、明け方近くにはっと起き上がる。たった数時間ほどの睡眠。だが、そういう睡眠のときほど光四郎は夢を見なかった。眠気と体力が限界を迎えて泥のように倒れているせいか、あるいは見ていたとしても何も覚えていなかった。それが唯一の救いだったから、光四郎は望んで自身をギリギリの状態まで持っていくようになった。おかげで目の下のクマは濃くなり、顔色はすこぶる冴えないままだったが、もっかのところはそれが彼にできる最善の対策だった。
 そんな体調だったから、サッカーなど楽しめるはずもなかった。週末の練習に参加した人数はまた減っていた。光四郎も、もう今ではサボりたい気持ちのほうがずっと大きかったが、親に余計なことを訊かれるのが嫌さに、ほぼ習慣的に身体が動くのに任せて母親か父親の運転する送迎の車に乗っていた。
 かろうじて練習に顔を出せているチームメイトの大半が、あの夢を一度は見ていた。だれもが自分の見たその夢について深く話はしたがらず、何人かは「女」と聞いただけでびくっとしてそれ以上は会話に加わろうとせず、だれもが自分の殻に恐怖を押しこめじっと耐えているようだった。中学生や高校生、それより上の大学生や社会人チームはいっこうこれまでと変わったようすがないだけ、こちらのやる気のなさと雰囲気の暗さが目立っていた。コートを走っているとき、光四郎は何度もめまいを感じてその場に立ち止まらなくてはならなかった。頭では、今夜をどう乗り切るか、どうやってあの女からのがれるか、あの夢を止めるにはどうすればよいか、そればかり考えていた。
 このことを親に相談するなど、光四郎には論外に思われた。その感覚は自分だけじゃないというのも、なんとなく分かっていた。大人には言いたくない。言ってどうなるというのか、なんにもならない。むしろ悪化するだけ。大人はこちらの夢に入りこんでまで自分たちを助けられないし、そんなこころみをされようものなら「彼女」が怒る。そう確信していた。
 明けた週の半ばに、明光第一の体育館に六学年の生徒たちが集められることになっていた。夏休みも後半に差しかかっていたが、新学期が始まる前に話をしておくべきとPTAは決定したらしい。その話というのは無論、急死を遂げた同級生についてで、よっぽどの事情がない限りは全員参加が義務だったが、光四郎は行きたくなかった。行かずともその死の原因を知っていた。「あたし行きたくないから行かない」。美春はそうメッセージを送ってきていた。そんな同級生はきっとほかにも多いだろう。
 説明会なんて余計だからやらないでよ。無駄だよ。自殺じゃなくて呪い殺されたんだから。
 光四郎はよっぽど母親に言ってやりたかったが、黙っていた。

 その説明会をあすに控えた昼下がりだった。テレビのニュースで、橋から落っこちた小学生の報道を光四郎はリビングで見ていた。橋は河川をまたぎ、県外の山中にあって、家族で旅行に来ていたその子供は親がちょっと目を離したすきに安全柵を乗り越え落下したらしい。落ちた川は深く、流れもほとんどなく、転落地点の川辺でその日たまたま単身オートキャンプをしていた男性が幸いにも救助関係の仕事をしていたために泳ぎを心得ており子供はすぐさま助けられたものの、川面に叩きつけられたときの衝撃で骨のあちこちが折れ、意識不明の重体。子供の背丈ではよじのぼらなくてはならないほどの高い柵をなぜわざわざ乗り越えようとしたかは不明。川辺から見上げるかたちでそのとき橋を眺めていた目撃者によると、子供ははじめ橋の途中でしゃがんでいたのが急に立ち上がり、おもむろに柵に足をかけするするとのぼっていったのだという……察した目撃者は大声に「危ない」と叫んだが遅かった。子供は低学年だった。報道の見出しは『楽しい旅行が一転、悲劇に』。
 光四郎は画面をねめつけ、チャンネルを変えた。それから背後のソファーを振り返り、そこに座っていた妹に何か見たい番組がないか訊こうとしたが妹はいつの間にか横になり、顔を光四郎の背に向け眠っていた。
 クッションに頬を押しつけ、すうすうと寝息を立てて眠る妹を、疲れた表情で光四郎は見つめた。兄のようすが以前のとおりではないことをとても心配している。そのせいかこの何日かはほとんどわがままを言わない。
 母親はパートに出ており家にいなかった。何か身体にかけてやろうと思って光四郎は立ち上がったが、そのときだしぬけに小さな悲鳴が聞こえた。はっとして振り向くと、妹が横になったままふたつの目をこぼれそうなほどみひらいていた。その眼球だけぐるりと回し光四郎を見上げた。視線がぶつかると、ふたたび悲鳴を上げソファーに起き直り、走りだそうとした。光四郎はそのわずかなあいだ茫然として固まっていたが、次の一瞬すべてを悟った。  
 本能が彼の腕を動かした。自分たちがいるのはマンションの五階だった。ベランダへ向け一散に走ろうとする妹の手をつかむと妹はさらに叫んだ。兄から逃げようと激しく抵抗し、やわらかな髪を振り乱して絶叫した。
 「やめてー! やめてー! 放してー! いや!」
 「ちがう! 俺だよ!」
 光四郎も叫び返した。
 「落ち着け、ちがう! 止まれ!」
 「やめてえ! 放して! 来ないで! いやあ!」
 暴れる妹を床に押し倒した。なおもばたばた蹴りつけてくる足を自重で抑えこみ、光四郎は必死に叫んだ。
 「落ち着けよ! ちがう! 俺はあいつじゃない!」
 「いや! いや! やめて!」
 「いい加減にしろよ!」
 「放して!」
 「うるさい! 俺は――俺はチョーカーじゃない! 目を覚ませ!」
 声がかれていた。普通ではない音、衝動にかられた、自分にもこんな声が出せるのかと思うような音だった。
 「目ぇ覚ませよ……落ち着けよ。……」
 全力でつかんでいた妹の手首から抵抗が消えた。我に返って見下ろすと、涙と汗とに濡れた妹が、ぐったりと目を閉じ倒れていた。頬が真っ赤だった。急いで抱き起こすと「お兄ちゃん」と光四郎を見つめ、まばたきをした顔はみるみるうちにゆがんでいった。
 妹は泣きだした。今しがた何が起きたか、自分にも理解ができていないようだったが泣き声は恐怖に染まっていた。
 光四郎も泣きたい思いだった。だがこらえた。泣く代わりに考えた。あのまま自分が妹を止めなかったら、どうなっていたんだろう? あのままベランダへ飛び出し、それから……自分の腕のなかで小さくなって震えている妹の頭をなでながら、彼は背筋に冷水をかけられた気がした。
 「夢を見たの」
 妹はしゃくり上げた。
 「怖かった。……怖かった……女の人が……知らない女の人」
 「分かってる」
 「怖かったの」
 「うん」
 「お兄ちゃん……」
 「いいよ。いいから忘れろ。怖くないから」
 光四郎は妹のかぼそい手首に、自分につかまれた跡が赤くありありと浮いているのを見た。罪悪感がこみ上げた。どう考えても妹のほうが非力なのだから、必死だったにせよあんなに強く押さえつけなくてもよかった。しかし、たとえさっきの自分がそう思いおよんだとしても、実際にそうできたかどうか分からない。
 「ごめん。……痛かった?」
 光四郎の胸で妹はかぶりを振った。点きっぱなしのテレビから、笑い声が聞こえていた。
 夕方、買い物袋をかかえてせわしなく帰ってきた母親は最初のうち何も気づかないようだったが、家事がひと段落するとまず妹の元気が妙にないことを心配し始めた。あれこれ尋ねても泣きそうな顔のまま答えが返ってこない。そのうちその手首に赤い痕が、うなじのあたりには内出血のあざがあるのを発見するなり「どうしたの」と声色を変えてことの次第を問いただそうとした。妹はうつむき、小声に「なんでもない」と言うだけだったが、母親のいぶかる視線が光四郎へと向かうまでに時間はかからなかった。
 「お兄ちゃんがやったの?」
 深刻な口ぶりで母親は妹へ尋ねた。妹は懸命に首を横に振る。
 「じゃあだれ?」
 光四郎はすっかり面倒になった。いら立ちに任せて乱暴に冷蔵庫をあけながらリビングへ言い放った。
 「俺がやった」
 そしてわずかに思案し、
 「だってそいつ……そいつ、ウザいこと言うから。あと俺のジュース、勝手に飲むし」
 と言いながら、取り出した自分のペットボトルが未開栓であることをTシャツの裾で隠し、叱りつけようとする母親をにらむと足早に部屋を出た。思いもよらず反抗的な態度が増えている息子に、母親はショックを受けたようだった。
 その晩遅く、帰宅した父親へ母親がきょうの出来事を声をひそめて相談しているのを光四郎が盗み聞いたあと、光四郎の部屋に枕をかかえた妹がやってきた。
 「怖くて、眠れないの」
 なぜ怖いのか妹は言わなかった。光四郎は今夜もギリギリまで起きているつもりで夏休みの課題テキストと対峙し、その空欄を片っ端から埋めていたが、妹を自分のベッドへ寝かすと手を握ってやった。
 「ずっとこうしてる」
 安心したように妹が眠ったあと彼は思った。
 少なくとも――少なくともベランダの鍵が、妹の手の届かない位置にあればいいのに。
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