第19話
文字数 9,708文字
夕方、濃い西日があたりを染め始めていた。
授業ふたつとその後の質問タイムを終え、風荷は疲れた顔で塾の出入り口のガラスドアを抜けた。教室には多く見積もっても半分しか来ていなかった。あとは欠席で、小学生の欠席率の高さに講師陣は悩んでいるらしい。自習室は中学生と高校生で埋まっていた。
ドアを抜けたところで母親から届いたメッセージを見て、風荷はプロムナードへ向かった。このごろにしてはからりとした空気だったが、照りつける日射が強い。プロムナードの下を通って駅の反対側へ出ると、以前は百貨店だったビルの一階部分の大張りのガラスに沿い、少し行った先にある小さなスーパーマーケットを目指した。ちょうど通り道になるからそこで待つよう、母親からの指示だった。
あまり広くないパーキングは車でいっぱいだった。日陰を求めて正面入り口の屋根の下まで来ると、店内を出入りする客を横目に手にしたスマートフォンの画面を点けた。遅れている母親の迎えが来るまで、まだ時間があった。三、四十分ほど離れた出先から向かう途中、事故渋滞にはまって側道に抜けられないらしい。
車止めの柵に腰かけるかどうかで、それによごれがないか確かめたあと顔を上げると、自転車に乗って折しもパーキングへと入ってきた男子が見えた。
それがまさかの光四郎だったので、次の瞬間、目と目の合った風荷は固まった。
「あ、風荷」
「あっ……」
風荷が返事をする前に光四郎は自転車を下りると、手で押して風荷のそばへやってくる。そのあいだ、風荷の視線は光四郎の周囲を泳いだ。が、だれかと一緒ではなさそうだった。
きょう、また彼に会うとは思っていなかった。会うつもりではなかった。偶然でも困る。だが風荷の緊張をよそに、自転車は彼女の目の前で止まった。
「なんでいるの?」
光四郎はあっさり尋ねた。
「塾、終わったの?」
「うん……さっき」
「そっか」
「光四郎くんは、なんでいるの? ひとり?」
「うん。さっきまで友達のうちでゲームしてた」
「そうなの……あ、みんなといるとき、スマホで呼ばれた子?」
「や、それとは別……今、帰りなんだけど、妹に買い物頼まれて」
「そう」
風荷はそれ以上訊かなかった。その「友達」はじつは美春だったのかなと考えながら、光四郎が美春といたことをやんわりにごした感じがしたから訊けなかった。そして風荷としては、自分がその数時間前のふたりのようすを陰で見聞きしていたことは知られたくない。
一方、光四郎はあのとき、階段下を出たあとは美春と一緒にいなかった。「用があるから」と美春に納得してもらうのに相当の苦労をして別れたが、もちろん用なんてない。だが「彼女」の力によって以前のとおりではなくなっている美春を、まるで自分より何歩も先を行く大人の女性みたいになっている美春をどうすればいいか分からなくて、長く一緒に過ごす気になれなかった。だが、かといって家に帰りたくはなく、行きたい場所もなく、悩んだあげく駅のそばに住むサッカー友達のうちへ行ってこの時間まで遊んでいた。だから今、光四郎が風荷へ言ったことはウソではなかったが、彼は自分が階段下にいたところを風荷に見られていたとは思っていなかった。美春に抱きしめられ、ハンドルがかたむいたときの動揺を鎮めるのに、彼の神経のほとんどは割かれていた。美春が自分にとって何なのか、クラスメイトなのか友達なのかガールフレンドなのか――「彼女」の分身なのか――彼に答えはなかったが、美春が首に着けていたのは少なくともチョーカーではなかった。それは確かだった。
光四郎は自転車にロックをかけた。
それを見た風荷が言った。
「光四郎くん、買い物でしょ? 行っていいよ」
「風荷は買い物じゃないの?」
「私、迎え待ってるから。だから、もうちょっといる」
「じゃあ俺も、あとにする」
「え……」
「別に急いでないし」
光四郎はロックしたサドルにまたがってしまった。つまり風荷の迎えが来るまで動かないということらしく、なぜそうなるのか、こちらの思惑とまったく逆のことをしてくれる光四郎に風荷は緊張を高めた。もしも泉がこの場にいたら、「空気読みなよ」とばっさりやるか、「じゃあ僕たちは」とさりげなく光四郎を連れて店に入っていってくれるだろうに……そもそも光四郎はきょうはじめて会った他校の見ず知らずの一個下の地味な女子に対し、話しづらさとか、気まずさとか、そういうことは感じないのだろうか。その女子とふたりきりになって、なぜそんなに悠々とサドルを椅子代わりにしていられるのか分からない。この警戒と「早くひとりにしてほしい」オーラが見えないのか? こっちは男子と話すことにさえ抵抗があるのに。慣れないのに。困るのに――。
「要る?」
問われて我に返ると、光四郎がペットボトルの水を持って示していた。飲みかけで、たった今飲んでいたらしく、ついでといったふうに差し向けているが風荷にはあり得ない申し出だった。
「私、だいじょうぶ」
硬直した表情でかぶりを振った。光四郎はそんな風荷を少しさぐるように見たあとキャップを閉じながら、
「あのさ……」
と口をひらいた。
「さっき訊かなかったけど、葉月と泉といたとき」
「うん」
「だいじょうぶ?」
「え? 何が?」
「自分が。具合悪くない? 身体、平気?」
「え……? なんで訊くの?」
「だって、顔色悪くない? 会ったとき思った。風荷も寝不足?」
「う、うん。そう……寝不足……不安で寝つけないから」
「そっか。でも、寝るのは無理でも休んだほうがいいと思う。夢でも幻覚でも、いつやられるか分かんないじゃん。死んだら意味ないし」
風荷はどきっとした。同時におどろいた。「死んだら」……その言葉を胸に、かすかな不快感をあらわに言い返した。
「光四郎くんこそ、休んだほうがいいと思う。私のことばっか言えないよ。私より寝不足でしょ? 泉くんも」
「俺は平気。でも風荷は顔色悪いから、休みなよ」
「そんなに悪い?」
「と、思うけど。ていうかさ、学校ない日にまで塾行くなんて、えらすぎ。ずっと勉強じゃん」
「だめ?」
「だめとかじゃないけど。よくできるなって」
「私、来年、受験するつもりなの。別の中学に行きたくて」
「あ、そうなんだ。どこ受けるの?」
「えっと……柊 学院。第一志望はね」
「あっ、知ってる」
光四郎はきょとんと目を丸くした。
「すごい、有名じゃん。なんかお嬢様っぽいとこ――市外の――女子校だっけ? 一貫の」
「うん」
「へえ、そっか。すごいね。泉に聞いたけど、風荷、めっちゃ頭いいんでしょ」
「そんなことないよ」
「いやでも、良さそうじゃん。泉は葉月にそう聞いたって。仲いい? 葉月と」
「私が?」
「うん」
「私はそんな、あんまり……私は、ていうか、私もともとそんなに男子と話さないから。だから仲いいとか、そういうのないの。よく話す男子っていないの。ほかの子みたいに」
「あ、そうなの。じゃあ泉の言うとおりなんだ」
「うん。……そう」
「じゃ、慣れたほうがいいよ。話そ。なんでもいいから」
「え?」
「だって自分以外、全員、男じゃん。四人のなかで。まあ泉はよく分かんないけど。だから慣れないと大変じゃない?」
「それは……」
「やっぱ話しにくい? まあ、だよね。泉はオネエだし、葉月も普通にヘンだしさ。友達にああいう感じの男子っていないよ、俺も」
「えっと、私」
「でも、だったら俺でいいじゃん。俺と話して慣れればいいよ。そしたらたぶん、楽だと思う。俺、別に普通だし」
「そ……そうかな? でも私」
風荷は口ごもり、あいまいな笑みをつくろった。そして小さく息をついた。
三人のうち、一番苦手で話しにくいのはじつはあなたです、とは到底言えなかった。
「ありがとう」
代わりにぎこちなく返すと、柵に腰かけていた風荷を光四郎は真剣な目で見て、言った。
「無理しないで休みなよ。勉強したほうがいいのは分かるけどさ、ちゃんとさがせるように自分を守らないと。……だから顔色悪くて、心配になった。やられるんじゃないかって。ほんとに平気?」
「あ……うん。えっと」
風荷はどぎまぎしたが光四郎は気に留めず、
「俺、妹いるんだけど。まだ小一なんだけど、やっぱ夢のせいでおかしくて。その顔色と似てるからさ。不安になるっていうか……平気なら、よかったけど」
「うん。私は平気。……ありがとう。ほんとに平気だよ」
「マジ? ウソじゃなく?」
「うん。マジ。ウソじゃない」
「そう」
光四郎が笑顔を見せた。そっと笑う、静かな笑顔だった。
風荷は急に首筋のあたりが熱くなった。無意識に目を伏せ訊いていた。
「光四郎くんは、ほんとに平気? あの人のこと――夢とか」
「俺は、うん、平気だと思う。俺も前と比べたら、おかしくなってるかもしれないけど……それは自分でも分かるけど」
「そうなの……?」
「うん。なんか、なんだろ。いろんなことがどうでもよくなってる。チョーカーをさがす以外のことが……家で親に何か言われるとすごいイラつくし、すぐ疲れるし。まあ寝てないから仕方ないけど、だから学校も面倒で、サボりたくなる。サッカーも全然やる気出ないしさ。きょうも休んだし」
「試合?」
「そう。けどさっきまで遊んでた友達も休んだし、俺だけじゃないよ。もうみんな、練習にもあんま来ない。それどこじゃないから。コーチはめっちゃ困ってるけど。あいつ、俺より行ってないし、だからたぶんヘタになってる」
「あ……その子もサッカーやってるんだ。チームメイト?」
「そう。学校はちがうけど、クラブで一緒。家がこのへん」
「えっと、じゃあ……カノジョじゃなかったの? さっき、みんなといるときに呼ばれた子って」
「あ、それは美春だったんだけど。呼ばれて、ちょっと会ったけど……ちがうよ。カノジョとかじゃないよ」
「でも、そうなんだ……でも、泉くんがそう言ったから」
「それは、泉が勝手にそう思ってる。だって美春は……聞いた? 撮影のとき俺と一緒にいたんだけど。同じ明光第一で、クラスメイトで。俺、もとは美春に誘われて参加して」
「うん。知ってる。あのふたりが言ってた。その子が美春っていうんだ」
「そう。それで、撮影隊のメンバーだったから……あの人の力を、たぶんかなり受けてて。前とちがくなってる。さっき会ったときも、なんか急に、俺の――なんでもない」
光四郎は決まり悪げに言葉を変えた。
「だからどうしていいか微妙で、俺……メッセージとかすごい来る。さっきみたいに。それで会って話すと、なんか……前とちがくて。うまく言えないんだけど、すごい俺のこと、なんか……分かんないけど」
「うん……」
「ほんと、全部おかしくなってるじゃん。あの人が夢に出てくるようになって、チョーカーのことが起きて、みんなヘンになって。美春もそうだし、俺も。だからまた前みたいに戻るか、たまに考える。もう戻らないかもって」
「そんな……そんなことないよ」
「だといいけど」
「きっと戻るよ。私も、考えると怖くなるけど……でも、また前みたいに戻るために、私たち……きっとだいじょうぶだよ、光四郎くん」
「うん」
「またサッカーできるようになるよ。その子、美春って子とも――きっともとのとおりになるよ。私、まだ仲間になったばかりだけど、チョーカーさがしの……でも頑張るから。できることはなんでもしたい。力になりたい、私。早くもとどおりになれるように。そしたら光四郎くんもぐっすり眠れるし、みんな元気になるし、私も……だいじょうぶだよ」
「うん。……なんか……ありがとう。風荷」
「うん……いいの」
ずっと足もとに置いていた視線を風荷は上げた。目は合わない予定だったが、光四郎は風荷を見ていた。
ふたりは互いを見合った。
風荷は一瞬、息をのんだ。自分でも分からなかった。夕方のタイムセールを告知する店員のアナウンスが聞こえてきて、出入り口の開閉ドアを光四郎はいちべつした。その目をまた風荷へ戻し、
「迎え、来るの?」
「あ……えっと、たぶん。お母さんが……」
風荷はスマートフォンでメッセージを確認した。母親からのすまなそうな新着が一件あり、まだかかるとのこと。
「でも、遅いみたい。道が混んでて」
「そっか」
「あ、いいよ光四郎くん。買い物。行ってきて。妹さん、待ってるんでしょ? 私は」
「風荷、家どこなの? 遠い?」
「え、ううん。えっと、まあまあこの近く。……」
風荷が自宅のマンションの住所を説明すると、そこが光四郎の住むマンションと近かったので彼はおどろいて、
「え、じゃあなんで藤ヶ丘に行ってんの? 明光のほうが全然近いじゃん」
「えっと、そう、ほんとは私、明光第一の学区なんだけど……お父さんとお母さんがあんまり大きな学校はちょっと、って。それで」
風荷は言いにくそうに肩をすぼめた。明光第一にはいじめが多いとか、生徒が派手だとか教員の質がどうだとか、成績のつけ方がどうとか、両親が風荷を藤ヶ丘へ通わせたのはそんな風聞を理由にしていた。同じ理由で、姉のときもそうだった。
「おねえちゃんも藤ヶ丘だったから」
「ふうん。……」
光四郎は自分のマンションと風荷のマンションとの距離を考えた。
「来るまで、あとどれくらいかかるって?」
「迎え? どうだろ。まだしばらく……」
「そんなに待つなら、一緒に帰る? 同じ方角だし」
「えっ? い、いいよ。だいじょうぶ。いいよ。だって私」
風荷はかぶりを振ると無性に恥ずかしくなって、光四郎がまたがる自転車をちらと見て、
「自転車じゃないから」
「手で押すからいいよ」
「私に合わせたら時間かかっちゃうよ」
「いいよ、別に」
「でも……」
「俺、すぐ買ってくる。妹のやつ。ていうかなんだっけ、何買ってきてって言われたんだっけ……」
と光四郎がスマートフォンを取り出してそれを操作するあいだ、風荷は激しく逡巡した。どうするのが最善で、正解か。このままほんとうに光四郎とふたりで歩いて帰っていいのか。ことわらなくていいのか。言うなら今……ことわるなら……。
「チョコミルクプリン」
光四郎がつぶやく。
「なかったらカスタードプリン。生カスタードのほう? ダブルクリーム? 謎……なんか分かんないけど、とりあえずプリン」
「うん……」
「買ってくる。風荷は――」
「待って」
気づくと声が出て、さえぎっていた。風荷は眼鏡の位置を直して息を吸うと、
「私も行く。光四郎くん、まちがったの買っちゃう気がする」
「え、プリン?」
「そう。だって……プリンにもいろいろあるの。しかもこのお店、売ってるスイーツの種類が豊富なの。それで有名なの。だからとりあえずとか、適当はだめ。その妹さんのメッセージ、見てもいい?」
「うん」
「待って、私……先、お母さんにメッセージする」
風荷は母親へメッセージを送った。
『迎え、来ないでいいよ』
『友達と会ったから、一緒に歩いて帰るね』
スマートフォンをしまった。目を戻すと光四郎はサドルを下りていて、熱い地面に影を作りながら、
「これ――妹のメッセージ。解読できる?」
と風荷へ近づく。すぐそばに。その背後に広がる見知ったパーキングが、風荷にまるで知らない景色に映った。
画面を見ながら、隣で光四郎が言う。
「なか、行こ」
風荷はもう一度激しく逡巡した。だが気づくと、首はすでに縦に動いたあとだった。
第一希望のチョコミルクプリンは新商品で売り切れだった。なのでカスタードプリンを二種類と、炭酸と、お茶を買ってスーパーを出ると、光四郎はお茶のほうを風荷へ渡して、自分は炭酸のキャップをあけた。
飴色の夕日があたりを満たして、この日最後の熱気を最大に高めていた。あとは暮れていくだけの空だった。
光四郎が自転車を押す隣を、風荷は歩いた。駅前の喧騒を出るまでは落ち着かなかったが、歩道が広がると徐々に良くなって、秋めく風のかすかなすずしさを感じられるようになった。
歩きながら、風荷はほとんど知らないサッカーの話を聞いて、明光第一のことを聞いた。光四郎が夢で「チョーカーをさがして」と言われたとき、「彼女」は美春の姿をしていたことを聞いた。夏休み中、家で「彼女」の夢を見た妹が暴れて、ベランダへ飛び出していきそうになって、それを必死に制したはずみに怪我をさせたことも聞いた。「ひどいことした」と光四郎は言った。だが風荷は「ちがうよ」とすぐに答えて、本心から打ち消した。大通りの長い信号待ちのときだった。
風荷は通っている塾のことを話して、藤ヶ丘のことを話した。あの日、塾の帰りに自分が誘って、ライブ配信を一緒に見た友達が夢の影響で体調を崩して不登校になり、塾にも来ていないと話した。それがかなしくて悔しくて、何かしたかったこと。同じクラスの葉月が撮影隊のメンバーだったと知り、休み中から彼と連絡を取るタイミングをうかがっていたこと。始業式での騒動を経て、月曜日にとうとう協力を申し出たことを話した。
配信の視聴中、風荷はその場にいたメンバーには細かく注意を払っていなかった。映像は暗く、スマートフォンの画面だけでは全員を把握するには不十分だった。光四郎や美春の姿も記憶になかった。途中、供え物に対する例の行為が始まってからはどんどん不快感が増した。けれど見ていることしかできなかった。最後の最後にメンバーのだれかが「もういいから帰ろうよ。あたし、怖い」と言ったとき、それに合わせて『賛成。見つかる前に帰るべき』とコメントした。でも全部遅すぎた。
すると光四郎は、最後にそう言って墓地から帰りたがった女子は自分の隣にいた美春だと言って、風荷をおどろかせた。そして光四郎も、あのとき一度、「やめろよ」と声を上げて彼らを止めようとしたのだと話した。けれど聞き入れられなかった。もし自分がもっと強く出ていたらこんなことにはならなかったかもしれないと思うと、今となっては遅すぎるけれど、やっぱり後悔している。
「だから、その不登校になった友達のことはさ。風荷のせいじゃないよ……」
「うん。……葉月くんもそう言ってくれた。だけど光四郎くんのせいでもないよ。光四郎くんがあのとき、止められなかったからって、こんなことになったんじゃないよ」
光四郎は少しつらそうに風荷を見た。それからふとしたように尋ねた。
「ていうか、なんで柊学院に行きたいの?」
答えようとして風荷はびっくりした。あれ? と迷った。そう訊かれてみると、自分がどうして柊を受験したいのか、突然答えが消失してしまって言葉が出ない。
なぜ柊に行きたいんだろう。両親がすすめるから? 名門の女子校だから?
「えっと……私……」
風荷は答えられなかった。それよりも、一歩歩くごと、光四郎から聞いた彼の話で頭がいっぱいだった。
目に映る景色の全部が、風荷にはさっきのスーパーへ入るときから前とちがっていた。気づくと自分のマンションの建つ通りが近づいていて、徒歩は時間がかかるのに、それまであまりにあっという間だったと次に気づいた。プリンのクリームが溶けていたらどうしようという心配がよぎった。
光四郎が立ち止まったので風荷も止まった。彼は行く手の右を見て、「こっち行こう」とハンドルを切った。それでは遠回りだった。
「どうして?」
「着いちゃうから」
いいよねという顔で光四郎は振り返った。
風荷はうなずくだけだった。逡巡もなくて、たったこれだけのあいだに、彼を苦手だと思っていたあの感覚をもう思い出せない。信じられない。
夕日に照らされた光四郎の横顔を、その少しだけ後ろからそっと追う。そのとき母親からメッセージが来た。今どのあたりか、居場所を問う内容だったが、風荷は既読にせずすぐに画面を消すと見なかったふりをした。はじめて、そんなことをした。
回り道をゆっくり歩き、信号をいくつか過ぎて西の空がまた色を変え始めたとき、風荷のマンションが見えた。
裏手のパーキングで止まる。
とても惜しいような気持ちがして風荷は戸惑った。こんな自分を知らない。
ハンドルを握る光四郎と向き合って、「ありがとう」と言った。
「一緒に歩いてくれて」
「いいよ。……あのさ」
真顔に光四郎は言った。
「慣れた?」
「え?」
「俺と話すの」
「あっ……うん。慣れた、と思う」
「ほんとに?」
「うん」
「そう。……」
彼は笑顔になると、
「よかった」
と風荷を見ていた。瞬間、風荷はものすごくいろんなことを彼へ言いたくなったが、急に胸が締めつけられて、何も言えなかった。もう何がなんだか分からなかった。無意識に髪を耳にかけ、なんとなく直した。
黙る風荷へ、光四郎は「あのさ」と口調をわずかに変えた。そしてスマートフォンを出すと、メッセージの送り先を尋ねた。電話番号も。泉と葉月のアカウントはすでに交換していたが、風荷とはまだだった。
交換するあいだ、風荷は尋ねた。
「あしたはサッカーなの?」
「そう。一応。あしたは練習。でも面倒」
「うん」
「でもあんま行かなさすぎると、マジで親にヘンに思われるから」
「うん。一日ずっとやるの?」
「ううん、午前中だけ」
「そっか。……行ったほうがいいよ。ちょっとだけでも、頑張って」
「そう思う?」
「うん。だって、またやりたくなったときのために。ちょっとだけでも」
「そっか。じゃ、行っとこうかな」
「うん。でも無理しちゃだめだよ。光四郎くんこそ」
「風荷、あしたも塾行くの?」
「ううん。あしたは行かない。家で宿題とかする」
「ふうん……」
光四郎は画面から目を上げた。
「練習終わったら、メッセージしていい?」
「うん。……うん、いいよ」
気づくと風荷は言っていた。
「そしたら、私も返すね」
「うん」
光四郎はサドルにまたがった。
「じゃあ」
「うん」
「美春とか妹のこと、聞いてくれてありがとう」
「ううん、いいの」
「あした、連絡するから」
「うん」
「じゃあ……」
光四郎はちょっと間をおくと、風荷を見て、手を差し出した。
「これからよろしく」
そういえばきょうが初対面だった。風荷は彼と握手した。
「うん。……よろしくね」
熱い手だった。おそらく生まれて始めて、風荷は男の子にちゃんと触れた。こんなに熱いとは思わなかった。
あわい夕闇に、植栽の匂いがしている。自動車が何台か過ぎていった。
風荷は光四郎が手を離すのを待った。数秒して彼は手を緩め、もう一度握ってからぱっと離すと、ペダルを踏みこんだ。
「じゃあね」
と言ったその手はもうハンドルにある。
風荷はうなずいて、自転車が角を曲がるまでそこに立っていた。
右手はまだ熱かった。
エレベーターに乗ったとき、鏡に映った頬が真っ赤だった。
その夜、ひたすらテキストの発展問題を解いたあと、風荷は日記帳にしているノートをひらいた。
胸のなかがざわざわしていた。心臓がぎゅっと圧迫されるような感覚で、いくら問題を解いても落ち着かない。
きょうの出来事をつづった。葉月と泉と光四郎、四人ではじめて話し合ったこと。その会議の内容。今後の方針。チョーカーを見つけるため、自分たちのすべきこと。「彼女」はだれ?
そして光四郎と美春のこと。自分が見た光景、アイドルのようだった美春の姿。光四郎から聞いた話。
そして一緒に歩いて帰ったこと。右手がずっと熱いこと。
『だけど光四郎くんは、女子にはみんな、あんなふうにするのかも……』
ふと考え、書いてからため息をついた。「女子慣れしちゃってる」と泉は彼のことを言っていたから。
光四郎は今、家で何をしているだろう。小さな妹はプリンをよろこんでくれた?
何を考えてるの?
ノートを閉じる前、風荷は最後にこう走り書いた。
『私もヘンになってる』
授業ふたつとその後の質問タイムを終え、風荷は疲れた顔で塾の出入り口のガラスドアを抜けた。教室には多く見積もっても半分しか来ていなかった。あとは欠席で、小学生の欠席率の高さに講師陣は悩んでいるらしい。自習室は中学生と高校生で埋まっていた。
ドアを抜けたところで母親から届いたメッセージを見て、風荷はプロムナードへ向かった。このごろにしてはからりとした空気だったが、照りつける日射が強い。プロムナードの下を通って駅の反対側へ出ると、以前は百貨店だったビルの一階部分の大張りのガラスに沿い、少し行った先にある小さなスーパーマーケットを目指した。ちょうど通り道になるからそこで待つよう、母親からの指示だった。
あまり広くないパーキングは車でいっぱいだった。日陰を求めて正面入り口の屋根の下まで来ると、店内を出入りする客を横目に手にしたスマートフォンの画面を点けた。遅れている母親の迎えが来るまで、まだ時間があった。三、四十分ほど離れた出先から向かう途中、事故渋滞にはまって側道に抜けられないらしい。
車止めの柵に腰かけるかどうかで、それによごれがないか確かめたあと顔を上げると、自転車に乗って折しもパーキングへと入ってきた男子が見えた。
それがまさかの光四郎だったので、次の瞬間、目と目の合った風荷は固まった。
「あ、風荷」
「あっ……」
風荷が返事をする前に光四郎は自転車を下りると、手で押して風荷のそばへやってくる。そのあいだ、風荷の視線は光四郎の周囲を泳いだ。が、だれかと一緒ではなさそうだった。
きょう、また彼に会うとは思っていなかった。会うつもりではなかった。偶然でも困る。だが風荷の緊張をよそに、自転車は彼女の目の前で止まった。
「なんでいるの?」
光四郎はあっさり尋ねた。
「塾、終わったの?」
「うん……さっき」
「そっか」
「光四郎くんは、なんでいるの? ひとり?」
「うん。さっきまで友達のうちでゲームしてた」
「そうなの……あ、みんなといるとき、スマホで呼ばれた子?」
「や、それとは別……今、帰りなんだけど、妹に買い物頼まれて」
「そう」
風荷はそれ以上訊かなかった。その「友達」はじつは美春だったのかなと考えながら、光四郎が美春といたことをやんわりにごした感じがしたから訊けなかった。そして風荷としては、自分がその数時間前のふたりのようすを陰で見聞きしていたことは知られたくない。
一方、光四郎はあのとき、階段下を出たあとは美春と一緒にいなかった。「用があるから」と美春に納得してもらうのに相当の苦労をして別れたが、もちろん用なんてない。だが「彼女」の力によって以前のとおりではなくなっている美春を、まるで自分より何歩も先を行く大人の女性みたいになっている美春をどうすればいいか分からなくて、長く一緒に過ごす気になれなかった。だが、かといって家に帰りたくはなく、行きたい場所もなく、悩んだあげく駅のそばに住むサッカー友達のうちへ行ってこの時間まで遊んでいた。だから今、光四郎が風荷へ言ったことはウソではなかったが、彼は自分が階段下にいたところを風荷に見られていたとは思っていなかった。美春に抱きしめられ、ハンドルがかたむいたときの動揺を鎮めるのに、彼の神経のほとんどは割かれていた。美春が自分にとって何なのか、クラスメイトなのか友達なのかガールフレンドなのか――「彼女」の分身なのか――彼に答えはなかったが、美春が首に着けていたのは少なくともチョーカーではなかった。それは確かだった。
光四郎は自転車にロックをかけた。
それを見た風荷が言った。
「光四郎くん、買い物でしょ? 行っていいよ」
「風荷は買い物じゃないの?」
「私、迎え待ってるから。だから、もうちょっといる」
「じゃあ俺も、あとにする」
「え……」
「別に急いでないし」
光四郎はロックしたサドルにまたがってしまった。つまり風荷の迎えが来るまで動かないということらしく、なぜそうなるのか、こちらの思惑とまったく逆のことをしてくれる光四郎に風荷は緊張を高めた。もしも泉がこの場にいたら、「空気読みなよ」とばっさりやるか、「じゃあ僕たちは」とさりげなく光四郎を連れて店に入っていってくれるだろうに……そもそも光四郎はきょうはじめて会った他校の見ず知らずの一個下の地味な女子に対し、話しづらさとか、気まずさとか、そういうことは感じないのだろうか。その女子とふたりきりになって、なぜそんなに悠々とサドルを椅子代わりにしていられるのか分からない。この警戒と「早くひとりにしてほしい」オーラが見えないのか? こっちは男子と話すことにさえ抵抗があるのに。慣れないのに。困るのに――。
「要る?」
問われて我に返ると、光四郎がペットボトルの水を持って示していた。飲みかけで、たった今飲んでいたらしく、ついでといったふうに差し向けているが風荷にはあり得ない申し出だった。
「私、だいじょうぶ」
硬直した表情でかぶりを振った。光四郎はそんな風荷を少しさぐるように見たあとキャップを閉じながら、
「あのさ……」
と口をひらいた。
「さっき訊かなかったけど、葉月と泉といたとき」
「うん」
「だいじょうぶ?」
「え? 何が?」
「自分が。具合悪くない? 身体、平気?」
「え……? なんで訊くの?」
「だって、顔色悪くない? 会ったとき思った。風荷も寝不足?」
「う、うん。そう……寝不足……不安で寝つけないから」
「そっか。でも、寝るのは無理でも休んだほうがいいと思う。夢でも幻覚でも、いつやられるか分かんないじゃん。死んだら意味ないし」
風荷はどきっとした。同時におどろいた。「死んだら」……その言葉を胸に、かすかな不快感をあらわに言い返した。
「光四郎くんこそ、休んだほうがいいと思う。私のことばっか言えないよ。私より寝不足でしょ? 泉くんも」
「俺は平気。でも風荷は顔色悪いから、休みなよ」
「そんなに悪い?」
「と、思うけど。ていうかさ、学校ない日にまで塾行くなんて、えらすぎ。ずっと勉強じゃん」
「だめ?」
「だめとかじゃないけど。よくできるなって」
「私、来年、受験するつもりなの。別の中学に行きたくて」
「あ、そうなんだ。どこ受けるの?」
「えっと……
「あっ、知ってる」
光四郎はきょとんと目を丸くした。
「すごい、有名じゃん。なんかお嬢様っぽいとこ――市外の――女子校だっけ? 一貫の」
「うん」
「へえ、そっか。すごいね。泉に聞いたけど、風荷、めっちゃ頭いいんでしょ」
「そんなことないよ」
「いやでも、良さそうじゃん。泉は葉月にそう聞いたって。仲いい? 葉月と」
「私が?」
「うん」
「私はそんな、あんまり……私は、ていうか、私もともとそんなに男子と話さないから。だから仲いいとか、そういうのないの。よく話す男子っていないの。ほかの子みたいに」
「あ、そうなの。じゃあ泉の言うとおりなんだ」
「うん。……そう」
「じゃ、慣れたほうがいいよ。話そ。なんでもいいから」
「え?」
「だって自分以外、全員、男じゃん。四人のなかで。まあ泉はよく分かんないけど。だから慣れないと大変じゃない?」
「それは……」
「やっぱ話しにくい? まあ、だよね。泉はオネエだし、葉月も普通にヘンだしさ。友達にああいう感じの男子っていないよ、俺も」
「えっと、私」
「でも、だったら俺でいいじゃん。俺と話して慣れればいいよ。そしたらたぶん、楽だと思う。俺、別に普通だし」
「そ……そうかな? でも私」
風荷は口ごもり、あいまいな笑みをつくろった。そして小さく息をついた。
三人のうち、一番苦手で話しにくいのはじつはあなたです、とは到底言えなかった。
「ありがとう」
代わりにぎこちなく返すと、柵に腰かけていた風荷を光四郎は真剣な目で見て、言った。
「無理しないで休みなよ。勉強したほうがいいのは分かるけどさ、ちゃんとさがせるように自分を守らないと。……だから顔色悪くて、心配になった。やられるんじゃないかって。ほんとに平気?」
「あ……うん。えっと」
風荷はどぎまぎしたが光四郎は気に留めず、
「俺、妹いるんだけど。まだ小一なんだけど、やっぱ夢のせいでおかしくて。その顔色と似てるからさ。不安になるっていうか……平気なら、よかったけど」
「うん。私は平気。……ありがとう。ほんとに平気だよ」
「マジ? ウソじゃなく?」
「うん。マジ。ウソじゃない」
「そう」
光四郎が笑顔を見せた。そっと笑う、静かな笑顔だった。
風荷は急に首筋のあたりが熱くなった。無意識に目を伏せ訊いていた。
「光四郎くんは、ほんとに平気? あの人のこと――夢とか」
「俺は、うん、平気だと思う。俺も前と比べたら、おかしくなってるかもしれないけど……それは自分でも分かるけど」
「そうなの……?」
「うん。なんか、なんだろ。いろんなことがどうでもよくなってる。チョーカーをさがす以外のことが……家で親に何か言われるとすごいイラつくし、すぐ疲れるし。まあ寝てないから仕方ないけど、だから学校も面倒で、サボりたくなる。サッカーも全然やる気出ないしさ。きょうも休んだし」
「試合?」
「そう。けどさっきまで遊んでた友達も休んだし、俺だけじゃないよ。もうみんな、練習にもあんま来ない。それどこじゃないから。コーチはめっちゃ困ってるけど。あいつ、俺より行ってないし、だからたぶんヘタになってる」
「あ……その子もサッカーやってるんだ。チームメイト?」
「そう。学校はちがうけど、クラブで一緒。家がこのへん」
「えっと、じゃあ……カノジョじゃなかったの? さっき、みんなといるときに呼ばれた子って」
「あ、それは美春だったんだけど。呼ばれて、ちょっと会ったけど……ちがうよ。カノジョとかじゃないよ」
「でも、そうなんだ……でも、泉くんがそう言ったから」
「それは、泉が勝手にそう思ってる。だって美春は……聞いた? 撮影のとき俺と一緒にいたんだけど。同じ明光第一で、クラスメイトで。俺、もとは美春に誘われて参加して」
「うん。知ってる。あのふたりが言ってた。その子が美春っていうんだ」
「そう。それで、撮影隊のメンバーだったから……あの人の力を、たぶんかなり受けてて。前とちがくなってる。さっき会ったときも、なんか急に、俺の――なんでもない」
光四郎は決まり悪げに言葉を変えた。
「だからどうしていいか微妙で、俺……メッセージとかすごい来る。さっきみたいに。それで会って話すと、なんか……前とちがくて。うまく言えないんだけど、すごい俺のこと、なんか……分かんないけど」
「うん……」
「ほんと、全部おかしくなってるじゃん。あの人が夢に出てくるようになって、チョーカーのことが起きて、みんなヘンになって。美春もそうだし、俺も。だからまた前みたいに戻るか、たまに考える。もう戻らないかもって」
「そんな……そんなことないよ」
「だといいけど」
「きっと戻るよ。私も、考えると怖くなるけど……でも、また前みたいに戻るために、私たち……きっとだいじょうぶだよ、光四郎くん」
「うん」
「またサッカーできるようになるよ。その子、美春って子とも――きっともとのとおりになるよ。私、まだ仲間になったばかりだけど、チョーカーさがしの……でも頑張るから。できることはなんでもしたい。力になりたい、私。早くもとどおりになれるように。そしたら光四郎くんもぐっすり眠れるし、みんな元気になるし、私も……だいじょうぶだよ」
「うん。……なんか……ありがとう。風荷」
「うん……いいの」
ずっと足もとに置いていた視線を風荷は上げた。目は合わない予定だったが、光四郎は風荷を見ていた。
ふたりは互いを見合った。
風荷は一瞬、息をのんだ。自分でも分からなかった。夕方のタイムセールを告知する店員のアナウンスが聞こえてきて、出入り口の開閉ドアを光四郎はいちべつした。その目をまた風荷へ戻し、
「迎え、来るの?」
「あ……えっと、たぶん。お母さんが……」
風荷はスマートフォンでメッセージを確認した。母親からのすまなそうな新着が一件あり、まだかかるとのこと。
「でも、遅いみたい。道が混んでて」
「そっか」
「あ、いいよ光四郎くん。買い物。行ってきて。妹さん、待ってるんでしょ? 私は」
「風荷、家どこなの? 遠い?」
「え、ううん。えっと、まあまあこの近く。……」
風荷が自宅のマンションの住所を説明すると、そこが光四郎の住むマンションと近かったので彼はおどろいて、
「え、じゃあなんで藤ヶ丘に行ってんの? 明光のほうが全然近いじゃん」
「えっと、そう、ほんとは私、明光第一の学区なんだけど……お父さんとお母さんがあんまり大きな学校はちょっと、って。それで」
風荷は言いにくそうに肩をすぼめた。明光第一にはいじめが多いとか、生徒が派手だとか教員の質がどうだとか、成績のつけ方がどうとか、両親が風荷を藤ヶ丘へ通わせたのはそんな風聞を理由にしていた。同じ理由で、姉のときもそうだった。
「おねえちゃんも藤ヶ丘だったから」
「ふうん。……」
光四郎は自分のマンションと風荷のマンションとの距離を考えた。
「来るまで、あとどれくらいかかるって?」
「迎え? どうだろ。まだしばらく……」
「そんなに待つなら、一緒に帰る? 同じ方角だし」
「えっ? い、いいよ。だいじょうぶ。いいよ。だって私」
風荷はかぶりを振ると無性に恥ずかしくなって、光四郎がまたがる自転車をちらと見て、
「自転車じゃないから」
「手で押すからいいよ」
「私に合わせたら時間かかっちゃうよ」
「いいよ、別に」
「でも……」
「俺、すぐ買ってくる。妹のやつ。ていうかなんだっけ、何買ってきてって言われたんだっけ……」
と光四郎がスマートフォンを取り出してそれを操作するあいだ、風荷は激しく逡巡した。どうするのが最善で、正解か。このままほんとうに光四郎とふたりで歩いて帰っていいのか。ことわらなくていいのか。言うなら今……ことわるなら……。
「チョコミルクプリン」
光四郎がつぶやく。
「なかったらカスタードプリン。生カスタードのほう? ダブルクリーム? 謎……なんか分かんないけど、とりあえずプリン」
「うん……」
「買ってくる。風荷は――」
「待って」
気づくと声が出て、さえぎっていた。風荷は眼鏡の位置を直して息を吸うと、
「私も行く。光四郎くん、まちがったの買っちゃう気がする」
「え、プリン?」
「そう。だって……プリンにもいろいろあるの。しかもこのお店、売ってるスイーツの種類が豊富なの。それで有名なの。だからとりあえずとか、適当はだめ。その妹さんのメッセージ、見てもいい?」
「うん」
「待って、私……先、お母さんにメッセージする」
風荷は母親へメッセージを送った。
『迎え、来ないでいいよ』
『友達と会ったから、一緒に歩いて帰るね』
スマートフォンをしまった。目を戻すと光四郎はサドルを下りていて、熱い地面に影を作りながら、
「これ――妹のメッセージ。解読できる?」
と風荷へ近づく。すぐそばに。その背後に広がる見知ったパーキングが、風荷にまるで知らない景色に映った。
画面を見ながら、隣で光四郎が言う。
「なか、行こ」
風荷はもう一度激しく逡巡した。だが気づくと、首はすでに縦に動いたあとだった。
第一希望のチョコミルクプリンは新商品で売り切れだった。なのでカスタードプリンを二種類と、炭酸と、お茶を買ってスーパーを出ると、光四郎はお茶のほうを風荷へ渡して、自分は炭酸のキャップをあけた。
飴色の夕日があたりを満たして、この日最後の熱気を最大に高めていた。あとは暮れていくだけの空だった。
光四郎が自転車を押す隣を、風荷は歩いた。駅前の喧騒を出るまでは落ち着かなかったが、歩道が広がると徐々に良くなって、秋めく風のかすかなすずしさを感じられるようになった。
歩きながら、風荷はほとんど知らないサッカーの話を聞いて、明光第一のことを聞いた。光四郎が夢で「チョーカーをさがして」と言われたとき、「彼女」は美春の姿をしていたことを聞いた。夏休み中、家で「彼女」の夢を見た妹が暴れて、ベランダへ飛び出していきそうになって、それを必死に制したはずみに怪我をさせたことも聞いた。「ひどいことした」と光四郎は言った。だが風荷は「ちがうよ」とすぐに答えて、本心から打ち消した。大通りの長い信号待ちのときだった。
風荷は通っている塾のことを話して、藤ヶ丘のことを話した。あの日、塾の帰りに自分が誘って、ライブ配信を一緒に見た友達が夢の影響で体調を崩して不登校になり、塾にも来ていないと話した。それがかなしくて悔しくて、何かしたかったこと。同じクラスの葉月が撮影隊のメンバーだったと知り、休み中から彼と連絡を取るタイミングをうかがっていたこと。始業式での騒動を経て、月曜日にとうとう協力を申し出たことを話した。
配信の視聴中、風荷はその場にいたメンバーには細かく注意を払っていなかった。映像は暗く、スマートフォンの画面だけでは全員を把握するには不十分だった。光四郎や美春の姿も記憶になかった。途中、供え物に対する例の行為が始まってからはどんどん不快感が増した。けれど見ていることしかできなかった。最後の最後にメンバーのだれかが「もういいから帰ろうよ。あたし、怖い」と言ったとき、それに合わせて『賛成。見つかる前に帰るべき』とコメントした。でも全部遅すぎた。
すると光四郎は、最後にそう言って墓地から帰りたがった女子は自分の隣にいた美春だと言って、風荷をおどろかせた。そして光四郎も、あのとき一度、「やめろよ」と声を上げて彼らを止めようとしたのだと話した。けれど聞き入れられなかった。もし自分がもっと強く出ていたらこんなことにはならなかったかもしれないと思うと、今となっては遅すぎるけれど、やっぱり後悔している。
「だから、その不登校になった友達のことはさ。風荷のせいじゃないよ……」
「うん。……葉月くんもそう言ってくれた。だけど光四郎くんのせいでもないよ。光四郎くんがあのとき、止められなかったからって、こんなことになったんじゃないよ」
光四郎は少しつらそうに風荷を見た。それからふとしたように尋ねた。
「ていうか、なんで柊学院に行きたいの?」
答えようとして風荷はびっくりした。あれ? と迷った。そう訊かれてみると、自分がどうして柊を受験したいのか、突然答えが消失してしまって言葉が出ない。
なぜ柊に行きたいんだろう。両親がすすめるから? 名門の女子校だから?
「えっと……私……」
風荷は答えられなかった。それよりも、一歩歩くごと、光四郎から聞いた彼の話で頭がいっぱいだった。
目に映る景色の全部が、風荷にはさっきのスーパーへ入るときから前とちがっていた。気づくと自分のマンションの建つ通りが近づいていて、徒歩は時間がかかるのに、それまであまりにあっという間だったと次に気づいた。プリンのクリームが溶けていたらどうしようという心配がよぎった。
光四郎が立ち止まったので風荷も止まった。彼は行く手の右を見て、「こっち行こう」とハンドルを切った。それでは遠回りだった。
「どうして?」
「着いちゃうから」
いいよねという顔で光四郎は振り返った。
風荷はうなずくだけだった。逡巡もなくて、たったこれだけのあいだに、彼を苦手だと思っていたあの感覚をもう思い出せない。信じられない。
夕日に照らされた光四郎の横顔を、その少しだけ後ろからそっと追う。そのとき母親からメッセージが来た。今どのあたりか、居場所を問う内容だったが、風荷は既読にせずすぐに画面を消すと見なかったふりをした。はじめて、そんなことをした。
回り道をゆっくり歩き、信号をいくつか過ぎて西の空がまた色を変え始めたとき、風荷のマンションが見えた。
裏手のパーキングで止まる。
とても惜しいような気持ちがして風荷は戸惑った。こんな自分を知らない。
ハンドルを握る光四郎と向き合って、「ありがとう」と言った。
「一緒に歩いてくれて」
「いいよ。……あのさ」
真顔に光四郎は言った。
「慣れた?」
「え?」
「俺と話すの」
「あっ……うん。慣れた、と思う」
「ほんとに?」
「うん」
「そう。……」
彼は笑顔になると、
「よかった」
と風荷を見ていた。瞬間、風荷はものすごくいろんなことを彼へ言いたくなったが、急に胸が締めつけられて、何も言えなかった。もう何がなんだか分からなかった。無意識に髪を耳にかけ、なんとなく直した。
黙る風荷へ、光四郎は「あのさ」と口調をわずかに変えた。そしてスマートフォンを出すと、メッセージの送り先を尋ねた。電話番号も。泉と葉月のアカウントはすでに交換していたが、風荷とはまだだった。
交換するあいだ、風荷は尋ねた。
「あしたはサッカーなの?」
「そう。一応。あしたは練習。でも面倒」
「うん」
「でもあんま行かなさすぎると、マジで親にヘンに思われるから」
「うん。一日ずっとやるの?」
「ううん、午前中だけ」
「そっか。……行ったほうがいいよ。ちょっとだけでも、頑張って」
「そう思う?」
「うん。だって、またやりたくなったときのために。ちょっとだけでも」
「そっか。じゃ、行っとこうかな」
「うん。でも無理しちゃだめだよ。光四郎くんこそ」
「風荷、あしたも塾行くの?」
「ううん。あしたは行かない。家で宿題とかする」
「ふうん……」
光四郎は画面から目を上げた。
「練習終わったら、メッセージしていい?」
「うん。……うん、いいよ」
気づくと風荷は言っていた。
「そしたら、私も返すね」
「うん」
光四郎はサドルにまたがった。
「じゃあ」
「うん」
「美春とか妹のこと、聞いてくれてありがとう」
「ううん、いいの」
「あした、連絡するから」
「うん」
「じゃあ……」
光四郎はちょっと間をおくと、風荷を見て、手を差し出した。
「これからよろしく」
そういえばきょうが初対面だった。風荷は彼と握手した。
「うん。……よろしくね」
熱い手だった。おそらく生まれて始めて、風荷は男の子にちゃんと触れた。こんなに熱いとは思わなかった。
あわい夕闇に、植栽の匂いがしている。自動車が何台か過ぎていった。
風荷は光四郎が手を離すのを待った。数秒して彼は手を緩め、もう一度握ってからぱっと離すと、ペダルを踏みこんだ。
「じゃあね」
と言ったその手はもうハンドルにある。
風荷はうなずいて、自転車が角を曲がるまでそこに立っていた。
右手はまだ熱かった。
エレベーターに乗ったとき、鏡に映った頬が真っ赤だった。
その夜、ひたすらテキストの発展問題を解いたあと、風荷は日記帳にしているノートをひらいた。
胸のなかがざわざわしていた。心臓がぎゅっと圧迫されるような感覚で、いくら問題を解いても落ち着かない。
きょうの出来事をつづった。葉月と泉と光四郎、四人ではじめて話し合ったこと。その会議の内容。今後の方針。チョーカーを見つけるため、自分たちのすべきこと。「彼女」はだれ?
そして光四郎と美春のこと。自分が見た光景、アイドルのようだった美春の姿。光四郎から聞いた話。
そして一緒に歩いて帰ったこと。右手がずっと熱いこと。
『だけど光四郎くんは、女子にはみんな、あんなふうにするのかも……』
ふと考え、書いてからため息をついた。「女子慣れしちゃってる」と泉は彼のことを言っていたから。
光四郎は今、家で何をしているだろう。小さな妹はプリンをよろこんでくれた?
何を考えてるの?
ノートを閉じる前、風荷は最後にこう走り書いた。
『私もヘンになってる』