第24話

文字数 5,255文字

 上階へ戻ると、そこはやはり静寂に包まれたまま、ふたりが出ていったときと寸分変わっていないようだった。
 カウンターの女性職員はエレベーターを下りたふたりをちらと見、その目はほかへ移った。
 通路をぬっていくと、奥の閲覧台には葉月ひとりが立っていた。彼はふたりがよほど近づくまで視線を上げず、「はーくん」と泉が小声に呼びかけ、やっと気づいたようにこちらを見た。
 「あっ、おかえり……早かったね」
 と言った顔は、ふたりが出ていったのはつい数分前だったかのような表情をしている。
 「どう? 何か見つかった?」
 尋ねた泉へ、葉月は「うーん」と力なく目を落とした。広げられたファイルは記事で埋め尽くされ、ほかのファイルが何冊か横に積み上がっている。
 「この年の7月には、若い女の人が殺された事件がなかったみたい。それくらい、全然見つからない。風荷と一緒に、全国版の切り抜きをずっと追ってたけど……」
 言いながら葉月は左右を見たが、そばに風荷の姿はない。
 「あれ?」
 葉月につられてふたりも首を伸ばし、パソコン台のほうを見たがいない。
 「あれ? さっきまでここに……」
 三人は全国紙のスクラップが保管されている通路をのぞいていったが見当たらず、書架を地域紙のほうに替えてさがすと、そこに彼女はいた。書架の端にもたれかかり、手もとにひらいたファイルを熱心に読んでいる。
 「風荷?」
 葉月が呼ぶと風荷ははっと顔を上げた。同時にファイルを閉じ、
 「あっ、ふたりとも……」
 と泉と光四郎を交互に見て、閉じたファイルを書架に戻した。
 葉月が首をかしげて訊いた。
 「風荷、地域紙もチェックしてたの? 僕も手伝ったのに」
 「ううん、平気。一応見てみようと思っただけ。でも、やっぱり全国版に載ってないなら、ちがうと思う」
 風荷は少し疲れた笑みを浮かべた。
 「若い女性が殺された、そういう内容の事件を取り上げるのが地域紙だけって、普通に考えればヘンだよね」
 と言う。
 それは確かにそうだった。殺人事件だったら大概、全国紙にも載るはずだと泉が言ったとおり、葉月が夢で得た体験は、それが真に「彼女」の記憶と合致するなら、いわゆるメディア受けの良い、センセーショナルな事件に相当するはずだった。被害者は若い女性だし、加害者はその女性と近しい関係にあった男性と思われ、表現は悪いけれど、そういう背景を持った殺人は大衆の関心を引く良いネタになる。だったらなおさら、それがどこで起きたにしろ、その地域のみが事件の概要を報道して終わりとは考えにくい。
 全国紙が7月に発行した三面記事のチェックは、葉月と風荷がだいぶ進めたものの、約一週間ぶんを残してまだ途中だった。そのやりかけの残りを全員で分け、ヒットがなければ、99年の7月6日に享年27で亡くなった伊織は「彼女」ではないと、いったんは決めておくことで意見がまとまり、泉は光四郎へ言った。
 「僕はまたデジタルで見るけど、光四郎は?」
 「俺も」
 「じゃあ先、行ってて。僕、ちょっとトイレ」
 「うん」
 「電源、僕のも入れといてよ」
 「いいよ」
 葉月と風荷はもとの閲覧台へ向かい、それとは反対方向にパソコン台へ行きかけた光四郎は通路を抜けざま、風荷がファイルを戻した箇所を見た。特に理由はなく、単にそのあたりが目に入っただけだった。だが彼はそこのインデックスを見て「あれ?」と思った。それには「2003」とあった。立ち止まって見ると、そこには2000年以降のファイルのみが入っていて、99年より以前のファイルはその向かい側の書架にある。しかし風荷はさっき、読んでいたファイルをこのあたりに戻した。彼がその部分の書架の上部を見上げると、「地域の伝統・風土」という印字が、年季の入ったプレートに黒く打たれてあった。そういうジャンルの記事を集めた箇所だったらしい。
 光四郎は少しふしぎに思ったが、風荷が戻したファイルがどれだったのか知らないので、わざわざさがして手に取ってみようとはしなかった。風荷も何も言わなかったし、たいしたことではないのだろう。すぐ視線を離すとパソコン台へ戻り、さっきまで泉と使っていた二台の電源を入れた。
 その後しばしのあいだ四人は頑張った。慣れてくると案外すんなり内容が頭に入って、速読の真似ごともなんとなくできるようになっていた。しかし収穫はなかった。7月以外の月がどうだったかは分からない。だがどうも99年という年は、20世紀が21世紀に、西暦表示が「1」から「2」へ替わるという記念的な年だったせいか、今からすれば与太話にしか聞こえないネタが大真面目に扱われていたりして、「ミレニアム」とか「人類滅亡」とか「7の月」とかSFじみたワードが、彼らの求める事件とはどことなくずれていた。
 確証はないが、おそらく伊織もちがう。ちがうはず。
 調べ終えた四人はそう結論づけた。これで五人のうち三人までが、完全ではないにしろ除外されたことになる。34年のヤエ、55年のちづ子、そして99年の伊織。ヤエとちづ子に関しては記事を参照したわけではなく、その優先順位を下げた理由の大部分は推測に頼っているが。
 女性職員の存在を気にして、四人はカウンターからもっとも遠い通路に集まっていた。
 「一応、あとふたり」
 三人を見回し、泉がささやく。
 「あしたはもっと早い時間に来る? このふたりは没年しか分かってないから、大変なことになりそう……」
 待ち合わせの時刻を開館に合わせることになった。
 風荷のリストにある、あとふたり。

 享年25 没年1979年(昭和54年)
 享年21 没年1982年(昭和57年)

 泉と風荷が予約を取ったので、あすは現在より三十年以上前の記事も閲覧できる。だが保管されている場所が変わるらしい。
 葉月はリストをじっと見つめていた。考えているような思い出そうとしているような、このまま館内に泊まりこんで調べ続けたいと暗に言っているようなまなざしだった。
 「はーくん。きょうは休んで、またあした頑張ろ」
 察した泉が声をかけると、「そうだね」と存外に大人びたトーンが返ってきた。
 「分かってるよ、泉。またあした」
 「うん。僕、このふたりの年は、やっぱりネットでも軽く調べたほうがいい気がしてる。新聞を追うのが想像以上だったから。それでちょっとでもさがす範囲がせばまれば……これじゃない? って事件が案外さくっとヒットするかもしれないし、そしたらあしたはその新聞記事だけさがして読めばよくなるし。あんまり期待できないけど……やらないよりマシ」
 異論は出なかった。
 カウンターの女性職員に、あす来館した際、閲覧予約を取っている場合はどうすればいいか尋ねてから、四人はエスカレーターで階下へ向かった。午前中からいたのに、すでに午後二時近くになっている。
 光四郎は縦一列になってエスカレーターで下りるあいだ、風荷を見ていた。泉に言われるまでほんとうに気づいていなかった。けれどあらためて盗み見ていると、確かにちがう。けれど、どこがどうちがう? 顔色がいつもより明るい? 青白くない。目もとがいつもより少しだけ濃い? なんとなく? 眼鏡でよく分からない。それから髪がストレートじゃない気がする。毛先のほうだけふわっとしている気がする。あとは? あとは……。
 一段、下に立っていた風荷がふいと顔を上げ、光四郎を見た。
 「どうしたの?」
 「え?」
 「ずっと見てるから……私、何か付いてる?」
 「え、ううん。なんでもない……」
 風荷は困惑したような笑みを浮かべ、目を伏せた。光四郎はとっさに何か言わなくてはと、
 「あのさ、ていうか、さっき……」
 と、風荷が書架へ戻したファイルについて尋ねかけた。だが、それもちがう気がしてやめた。だがそれでは何を言えばいいのか。
 「やっぱ、なんでもない。えっと……」
 風荷の目が伏せられていることに急なあせりを感じた。瞬間、いろんな言葉が彼の脳をかすめた。
 「えっと……なんでもない」
 「光四郎くん、それ三回目だよ」
 風荷は顔を上げ、ちょっと笑った。
 館内を出て一階へ下り、最初のフリースペースまで戻ると泉はぐうっと伸びをした。置いてあるグランドピアノをだれかが弾いていて、クラシックが吹き抜けに高く響きわたっていた。演奏しているのは中学生か高校生か、それくらいの女の子で、泉はりあを思い出した。通っているピアノのコンクールが来月末なのに、今回の件で夢を恐れるようになってからレッスンに身が入らず、弾く気にもなれず休んでばかりだという。あすのサッカーの練習をあっさりサボるつもりでいる光四郎と、来年の受験のための勉強に集中できず困惑している風荷と、何かしら通じるものがある。
 コーヒースタンドに列が出来ていた。その列と人の周囲を避け、壁際に立ち止まると風荷が言った。
 「私、お手洗い行ってもいい?」
 「あっ、僕も」
 葉月が同調したので、光四郎は反射で言った。
 「え、葉月。女子トイレ行っちゃだめだよ」
 「えっ、行かないよ」
 「だって、一緒に行くみたいな感じで言ったから」
 「い、行かないよ。そんなこと、僕」
 泉が声に出して笑った。フロアの奥へ葉月と風荷が向かってから、自分とともにその場に残った光四郎へ言った。
 「風荷、ちがったでしょ? いつもと。見た?」
 「うん」
 「このあとどうする? 僕はさっき言ったとおり、ネットで下調べ……めっちゃ疲れたから、死なない程度にね。――あ、またふたりきりにしてあげよっか?」
 「え……いいよ、別に。調べるなら俺も手伝うし。余計なこと。一緒でいいよ」
 「だれと? 僕と?」
 「うん」
 「僕とふたりきりでいいってこと? うわあ、意外。光四郎。僕たち、合わないと思ってた」
 「あー、もう。ちがうよ。ちがくないけど、ちがう」
 「ね、僕、あしたはY2Kメイクしてこよっかな。どう思う?」
 「何それ?」
 「Y2K知らないの? イヤー・トゥー・サウザンドだよ。Kは1000を表すから、2000年って意味。2000年代にはやったメイク。きょう、1999年の記事ばっかり見たからさ、頭がミレニアムになっちゃって、それくらいの時期に人気だったメイク、僕もやってみたくなったの。トレンドって一周して戻ってくるじゃん? 最近また注目されてて。リバイバルって言うの?」
 「ふうん。知らない。それ、どんなメイク?」
 「待って、こういう感じのやつ……」
 泉がアプリケーションで検索し、画面いっぱいに出てきた写真のリストを、右足で壁を押さえて立つ光四郎へ向ける。光四郎がなんとなくのぞく。写真の女性たちは薄ピンクの頬をして、水色や真珠色にまぶたをきらめかせていた。
 「何これ。なんか寒そう」
 思ったままを光四郎は言った。氷のような雰囲気というか色合いが、ほんとうにそう見えたのだった。泉がちょっと吹き出し、その「寒そう」に苦笑している。
 「使いこなすにはレベル高そうだけど、かわいい。マーメイドっぽくない? 決まったらめっちゃ映えるよ」
 「ふうん。……」
 ちょっとのぞくだけのつもりが、そのとき写真の数々を見つめていた光四郎はふっと思った。
 こういう寒そうな色が、風荷には似合うかもしれない。
 グランドピアノから曲が流れ続けている。耳にしたことはあるが、泉も光四郎もその曲名は知らない。葉月と風荷が戻ってきて、全員が空腹であることに気づく。
 「あしたは分かるといいな」
 葉月が吹き抜けから上階を見上げ、惜しむように言った。
 あしたこそ何か発見したかった。「彼女」の手がかりになる情報を。平日になると学校があり、思うほどの時間を取れない。
 空腹に関する相談の結果、あすの英気を養うにはジャンキーにいこうということになった。昼時はけっこう混むが、今ごろであればすいている。ここから近く、全員が一度か二度は行ったことがある、おなじみのファストフード。
 「うわ。それ、最高の名目」
 泉が瞳を輝かせる。早速スマートフォンでメニューをひらき、シーズナル商品をチェックしている。
 外へ出ると、もう夕方に近い光の具合が駅前を照らしていた。
 「あれ? 風荷……」
 信号待ちで葉月が言った。
 「風荷も、泉みたいにしてる? 顔……」
 と、そばに立っていた風荷を見つめる。葉月以外の三人が、無言のままに一瞬、それぞれの反応をして信号が青になる。ほかの通行人に交じって葉月と風荷が並んで先に歩きだす。数歩遅れて、泉と光四郎。
 風荷は恥ずかしそうにしていた。あいまいなそぶりでかぶりを振り、泉を振り向き、やや早足になって葉月と何か話している。
 横断歩道を渡り終えたところで、「でも」と葉月が言った。雑踏に負けないクリアな声で、よく聞こえた。
 「あしたも、してきなよ。そしたら僕、気づくから――」
 風荷は眼鏡の奥で、困ったように笑った。
 その笑顔。
 少し離れた後ろから見て、光四郎はほっとした。
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