第13話

文字数 6,088文字

 その週末に入った夏休み最後の日曜日、夕方。午前中から両親と出かけていた葉月はうちへ戻ると、暑さと疲労にほてった顔を冷気に当てた。夢に取りつかれたようになってから、何をしてもすぐに疲れて、食欲もない。
 息子とその周りに何が起きているのか、事情をまったく知らない両親、とりわけ母親は夏バテと言って案じているから、葉月ももうそういうことにしている。こんなふうに子供の体調不良を夏バテや夏風邪が原因と思っている……そう決めてかかっている親は、いったい全国にどれくらいいるだろう。葉月はそう考えるときがある。
 外出先で見る小学生の数は、去年の同じ時期と比べてこのごろずっと少ないように彼は思っていた。おととい泉と行った店にも、テニスコートにも野球用のグラウンドにも、駅の周りにも、夏休み終盤とはいえ、そして猛暑のさなかとはいえ自分と年齢の近そうな子供はほとんど視界に入ってこない。たまに見かけても、皆おとなしく陰鬱とした表情を浮かべている。暑さをものともせず楽しそうに外で過ごす人々の層から、自分たちだけぽっかり抜けている。
 週末になるといつも練習や試合でにぎわう土手沿いのサッカーコートにも、きょうは中高生や社会人チームのユニフォームが目立っていた。土手の上を走る車の後部座席からそれを見たとき、葉月は自分の気持ちがとても低い位置にあることに気づいた。高すぎる青空が映らない。遠すぎる明るいかけ声が耳に届かない。葉月にとって気にかかるのは現実ではなく、あの夢だった。
 あの人、そしてあの人の望むチョーカー。
 泉はそれをきらう。葉月がチョーカーのゆくえに頭をいっぱいにしていることを、会うたびそばでつらそうに見ている。もともと細身な体型がさらにほっそりして、寝るまいと努力して、やつれているのが分かる。
 そんな泉を見ているのは葉月にもつらかった。けれどどうしても、さがさずにはいられなかった。たとえさがし方が分からなくても、何かしなくてはいけなかった。ほんとうはすぐにでも鈴掛へ向かい、あの古寺の墓地へ行きたかったが泉には「学校が始まってから」と言われ、「うん」と答えてしまったからには最低でもあと数日は待たなくてはならない。葉月はおととい、アイスクリームを食べたあと、「やっぱり僕だけで行く」と言いかけた。だが泉はしまいまで聞かないうちに怒って、それはだめと答えてゆずらなかった。

 西日の強い時間帯だった。自室の窓ガラスから落ちかかる熱い光線が、這うように床を照らしている。まぶしそうに目をほそめて見ていた葉月はその場に座りこむと、その長く熱い光線のなかに手を置いた。
 机の上にはやり終えた夏休みの課題が積んである。これまではダイニングのテーブルで宿題をしたり勉強したりしていたが、このごろ彼はそうしなくなった。以前にも増してひとりのほうが落ち着いた。そのほうがじっくり物事を考えられたし、うちで両親と話すなら、水槽で泳ぐ熱帯魚の青や黄や緑の揺らめきをただ見つめているほうが気がまぎれた。去年の夏は何度もおとずれた市の科学館へ、彼はこの夏休みのあいだまだ一度しか行っていない。そして十中八九その回数は一度のまま、増えることなく夏休みは終わる。
 階下から母親が大声で呼んだ。
 「葉月!」
 彼は立ってドアをあけた。吹き抜けの下へ顔をのぞかせると、こちらを見上げた母親が言った。
 「ぶどう、ひえたよ。おいしいから、ちょっと食べにおいで。ほんとに甘いから。種なしだよ」
 あまり食べたくなかったが彼は素直に階下へ下りた。夕食の支度の匂いがしているキッチンで少しだけ巨峰をつまみ、もう要らないと言って階段をのぼる。一段のぼるごとに足が重く、だから下りたくなかったのにと胸にそっと思いながら手すりをつかむ。
 あけ放していたドアから部屋へ入った彼の目にまず飛びこんできたのは、先刻よりも長く床へ伸びている、暮れていく西日の光線だった。窓から彼のほうへと宙をつたい、その太く黄色い光の枠内にわずかなほこりを無数に浮かび上がらせている。彼はそれを、まさに水槽の魚を見るように見つめる。何も考えない。
 やがて後ろ手にドアを閉め、カーテンも閉めようと思った。すぐに暗くなる。夜が来る。
 そのとき、彼の見つめていた光線のなかに一瞬、黒い影が映った。割って入った落ち葉のように、それは一瞬だけ映り、消えた。
 彼は目を上げた。その先にある窓、窓ガラス――落ち葉と感じた一枚の影は落ち葉ではなかった。
 それは人のてのひらだった。窓ガラスに、彼の目に、べったりと張りついていた。夕刻の日差しを受けて黒々としている、人間のてのひら。
 彼は息をのんだ。その場を動けず直立した。てのひらはガラスをずるずると移動し、脂のような何かの跡を残して消えたが、次の瞬間「ベタン」と大きな音を立て、また張りついた。ガラスが振動した。てのひらがガラスを這っていく。指の長い手。彼は直感した。
 あの人の手だ。
 そう認識したとき、「彼女」は姿を現した。背後に光線を背負い、ガラスの端から這いずり出てきたそれは黒い影のようだったが人の形を成していた。振り乱された長い髪毛。鼻をガラスに押しつけ室内の彼をうかがっているが、ガラスをひどくよごしている。てのひらがひとつ増えている。首――首は見えない。目に当たるはずの位置に、目がない。
 彼から乾いた吐息が漏れた。本能的な恐怖がこみ上げ、声を出したつもりが出ていない。
 ガラスががたがた揺れ始めた。「彼女」が揺らしている。頭を激しくのけぞらせ、反動で何度も窓に打ちつけている、そのたびガラスが正体不明の液体でよごれていく。
 彼は床にへたりこんだ。足の力が抜けていた。「彼女」に日差しをさえぎられ、室内がかげっている。
 ボキンと鈍い音がした。割れるというより、へし折るような音だった。
 カーテンがひらめいた。
 「彼女」が室内へ入ろうとしていた。窓枠をつかみ、顔を突っこみ、ぼたぼた液体を垂らしている。
 床に黒い斑点。腐臭がたちこめる。
 がくんと「彼女」が頭を垂れた。身が不自然に折れ、液体が飛び散り光線が消え、「彼女」は顔を隠したぼさぼさの長髪を左右に振りながら彼のほうへと四つん這いにやってくる。少しずつ少しずつ、ゆっくりと、床についた両のてのひらが近づいてくる。
 このまま死ぬのかな。
 たぶんそうだな。
 「まずは首」。
 彼が思ったときだった。机の上から突如、軽快なメロディーが聞こえてきた。
 着信音。机に置いていたスマートフォン。はっと彼がそちらを見やる。
 目を戻すとすべて消えていた。まぶしい光線。揺れるカーテン。全開の窓。そこから侵入する熱気。普段どおりの景色は、家並みと電線と夕暮れの空。
 着信音が鳴り続けていた。彼は茫然とだれもいない窓の外を見ていたが、音はしつこく響いている。
 立ち上がろうにも足がしびれていた。手に力をこめるが腰が上がらない。そのあいだに着信音は途切れた。が、すぐにふたたび鳴りだした。
 葉月は苦労して膝立ちになると、そのまま自身をひきずって机上に手を伸ばす。スマートフォンをつかみ、同時にくず折れて床に座り、画面を耳へ当てる。
 「はい」
 「はーくん!」
 泉だった。鬼気迫る声で言った。
 「だいじょうぶ? 何かあった? ねえ、だいじょうぶ? はーくん?」
 「あ……」
 「だいじょうぶ?」
 「うん。だいじょうぶ」
 「何かあったんでしょ? そうでしょ? 


 葉月はそこではじめて気がついた。確かに窓があいている。
 そして彼はさらに気づいた。
 今のは夢ではなかった。なぜなら自分は起きていた。食べたばかりの巨峰の味を覚えている。夢じゃない。夢じゃない。夢じゃない……。
 「僕、家からはーくんの部屋の窓を見てたの。最近よくそうするの。ごめん、癖なの。カーテンはかかってなくて、さっきまでは閉まってた」
 画面の向こうで、泉は興奮気味にまくし立てた。
 「閉まってたの。そうだよね? なのにそれが急にあいたの。カーテンが揺れたのが見えたの。なのに――なのに、そのとき窓にだれもいなかった。はーくんがあけたなら、はーくんが窓辺にいなきゃおかしいのに、僕、ずっと見てたけどだれもいなかったの。つまり勝手に窓があいたの。絶対にそうだった、だから僕――嫌な予感がして。電話したけどはーくん出ないから。今もあいてる、その窓。さっきまで閉まってたのに。なんで……」
 「泉……ごめん」
 葉月は呼吸を荒げ、胸に手をやった。息がうまく吸えない。
 「はーくん、平気? どうしたの? ねえ」
 「苦し……」
 葉月は耳から画面を離した。すべり落ちたスマートフォンが転がる。泉の呼びかけが聞こえるが返答できず、彼はそのまま床にうずくまった。

 一分も経たないうちに、葉月の意識の遠くで玄関のチャイムが鳴った。二度。
 母親が出ていく。何か言葉が交わされたあと、すぐに早歩きの足音がひとりで階段をのぼってくる。走りたいのを懸命にこらえているらしい。
 足音は葉月の部屋の前まで来るとドアをあけた。葉月はそれを自身の背中に聞いた。
 「はーくん……!」
 声をころした悲鳴を上げ、泉は机のそばでうずくまっている葉月へ駆け寄った。背中に手を置きさすって何度か呼びかけると、葉月はかすかにうなずいた。泉は彼の背をさする自身の手が震えそうになるのを耐えながら、
 「こうしてるほうが楽? 痛い? どうすればいい? お母さん呼んでくる?」
 返事はない。苦しそうな浅い呼吸を繰り返している。泉は立ち上がりかけたが、その手を葉月がつかんだ。首を振って「行くな」と合図している。泉は腰を下ろし、手を握り返した。ほかになすすべもなく、ひたすら葉月の背をさすりながら涙声になっていた。
 「はーくん……お願い、だいじょうぶだよ……だいじょうぶだから……楽になるまでこうしてるから安心して……」
 大きくあいている窓のせいで室内は蒸し暑かった。沈みかけの太陽がほの暗い影を作っている。通りから子供たちの遊ぶ甲高い声が響いているのが、泉には信じがたかった。
 何分経過したのか計れなかったが、やがて葉月の息づかいは徐々に安定してきた。小刻みに上下していた背中の動きがゆるやかになると、胎児のように丸くなっていた彼はそろそろと身を起こした。玉の汗をいくつも付けている。そして真剣なまなざしで泉を見て、言った。
 「ありがとう、泉」
 「もう平気?」
 「うん。もう苦しくない」
 「何があったの? ――あの人?」
 泉は生唾をのみ、返答を待った。葉月は目を伏せた。
 「はーくん。言いたくないの分かるけど……教えて。……夢?」
 「ううん、ちがった」
 葉月は力なく言った。
 「夢じゃなったよ。泉。僕は起きてた。起きてたけど、あの人が来た。その窓から……」
 ふたりは窓辺を見た。
 「入ってこようとして……ううん、入ってきた。僕、動けなかったよ」
 泉は立っていき窓から外をのぞいた。通りの幼い声を苦い顔で見つめ、窓を閉めるとカーテンをたばねた。
 「泉は何も見えなかった?」
 「うん。見えなかった。だれもいなかったよ、ここには」
 泉は葉月を振り向いた。
 「でも、はーくんには見えたんだね。あの人が。ほんとうに起きてたの?」
 「うん。寝てなかったよ、僕……下から部屋に戻ってきて、窓を見た。そしたら、あの人の……手が……夢じゃなかった。夢じゃなかったんだよ、泉。ほんとうにいたんだよ。あの人が夢から出てきたんだよ。夢から出て、僕のところに来て僕を……僕の首を」
 「はーくん。しっかりして。はーくんに見えて、僕に見えないものなんて存在しない」
 「だけど」
 「だからはーくんは、はーくんのなかだけであの人を見たの。ほんとはこの窓には何もなかった。だれもいなかった」
 「だけど――」
 葉月は食い下がった。
 「じゃあ、どうして窓があいたの? 泉だって、それを見ておかしいと思ったんでしょ? 窓は閉まってた。でもあの人があけた。僕じゃない。あの人がガラスをたたいてあけた。頭でたたいてた。それから入ってきた」
 「たたき割ったならガラスが割れてるはずだよ。そうでしょ? だけど見て」
 泉は窓ガラスを指差した。
 「割れてないよ。綺麗なままじゃん。ちゃんと閉まってる」
 「でも――でも、あの人が窓をあけたのはほんとうだよ。泉もそう言った、勝手にあいたって。だれもいなかったのに勝手にあいた、って。泉には見えなかったけど、そこにあの人がいたんだよ。あの人は夢から出てこられるんだよ、もう夢のなかだけじゃない。あの人は現実に――」
 「葉月。黙って」
 低い声でさえぎり、泉は窓辺を離れた。電灯を点け、室内を明るくしてから葉月のそばへ来た。
 葉月はうつむいていたが、泉が座ると両膝をかかえて、そこに顔を埋めた。しばらくして、蚊の鳴くような声で言った。
 「泉が電話してくれなかったら、僕……どうなったか分からない」
 「うん。かけて、よかった。僕がかけたら消えたの?」
 「うん」
 「それから苦しくなった?」
 「そう。泉の声を聞いたら、なんか苦しくなって」
 「待って。それって、あの人のせい? それとも僕のせい?」
 「分かんない」
 「ちょっと。あの人のせい、って言ってよ。急に出てきたあの人のせいだ、って。……ごめん」
 「ううん。ちがうよ……僕もごめん。僕が……」
 葉月は声を詰まらせた。小さく咳をした。葉月がこんなふうに感情を分かりやすくあらわにしている姿が、泉には衝撃だった。しばらく黙って、言った。
 「はーくんは、あの人に近すぎる。……」
 そして腕を回し、葉月を抱きしめた。
 「自分から夢を見て、近づいていこうとする。言うことを聞こうとする。だからあの人に気に入られるんだよ。あの人が怖くないの? そんなに気に入られたいの? こんな目に遭ってもまだ、さがしたい? ほんとに見つかると思ってるの?」
 葉月は答えず、また咳をした。泉もそれ以上訊こうとしなかった。沈黙が流れたあと、階下から葉月の母親がふたりを呼んだので、泉は葉月を離した。立ち上がり、ひとりでドアをあけると返事をして、夕食の誘いをことわると家へ帰った。自室から葉月の部屋の窓を見ると、自分がたばねてきたカーテンはぴったりと閉じられていた。
 その後の数日間、葉月は熱を出して寝こんだ。倦怠感と節々の痛みで何度かうなされたが、容態を尋ねる泉の短いメッセージに返信を送るだけの体力はあった。泉は気が気でなかったが、彼は葉月の部屋の窓を、これまでどおり自宅から見守るのみだった。ベッドに横たわる葉月に会っても、自分にできることはないと分かっていた。
 寝こんでいるあいだ、葉月は一度も夢を見なかった。まるで見ようと思うほど、それは遠ざかるようだった。彼はほんのかすかにだけ残念に感じたが、泉への返信ではおくびにも出さなかった。
 解熱剤が効いたのか、熱がようやく下がったのは新学期が始まる前日の夜だった。
 夏休みが明けようとしていた。
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