第22話

文字数 9,674文字

 その日の土曜、朝方は肌寒いほど気温が下がった。急に季節が進んだように空気が変わり、夏の気配の絶えた空にはおだやかな青が広がった。ついこのあいだまでの厳しい残暑はどこへ行ったのか。
 前夜に連絡し合った待ち合わせの時刻にはだれも遅れなかった。午前の駅前、プロムナードを下りてほど近く、市内一の蔵書を誇る図書館は、見上げるとビジネス用の高層ビルにも似ている。
 風荷だけは最寄り駅から電車で来た。葉月、泉、光四郎は普段どおり自転車で、ビルの地下にある駐輪場にとめていた。葉月と泉がひと足先に待っているところへ、まず光四郎、数分遅れて風荷。
 葉月ははやる気持ちを抑えるような顔をしていた。風荷の挙げた成果について、大体のところは電話やメッセージを通じてきのうのうちに聞いていたが、彼女の取ったノートを、彼は自分の目でちゃんと見たかった。
 「風荷。きのうはありがとう。光四郎も……ほんとにありがとう」
 四人そろうなり、葉月は力強く言った。そのままふたりと握手までしかねない勢いに「はーくん」と泉は笑ったが、葉月は昨晩ほとんど眠れなかった。夢を恐れたからではなく、これで「彼女」について詳しく分かるかもしれないという期待が眠りをはばんで、代わりに彼は水槽のなかの熱帯魚を眺めていた。
 泉はきょうは化粧をしていた。それもかなりしっかりしたメイクだった。三人と合流したとき、泉をひと目見て風荷は若干うろたえ、彼の放つ独特の雰囲気にのまれかけたものの、すぐ笑顔を返した。
 光四郎はというと、彼は前夜の泉との電話で何か聞いていたらしくて、風荷が予想したほどあきらかに避けたようすではなかった。それでも泉を複雑そうな目つきでうかがいながら、
 「なんか、慣れないんだけど……ほんとにしてくると思ってなかった」
 と肩をすくめていたが、泉はご機嫌のようだった。
 「どう? 光四郎。似合ってるでしょ?」
 「別に……」
 「はーくんは褒めてくれたよ? このシャドウ、僕に合いそうってりあがプレゼントしてくれたんだけど、めっちゃかわいい。発色もいいしプチプラに思えない。新作のカラーなの。ね、かわいくない? 秋っぽくてさ」
 「いや……分かんないけど」
 「あのさ、光四郎。電話でも言ったけど、マジできみって空気読まない――」
 「すごく似合ってる。泉くん」
 と風荷がふたりをさえぎった。事実、彼女はほんとうにそう思っていた。とても泉に似合っている。立ち上げた前髪もレトロな服装も、ちゃんとメイクの色味やイメージに合っている。
 「ほんとだよ。すごく似合ってる。かっこいいし、かわいい」
 風荷は先刻の葉月のように、力をこめて継いだ。
 「ね、葉月くん。光四郎くんも……そうでしょ?」
 葉月がこくんとうなずく。返答を求めるように風荷に見つめられた光四郎はそのときふいとそっぽを向き、渋々といったふうに「たぶん……?」とあいまいに応じた。それきり気まずそうに口をつぐんだ。
 光四郎のその反応を見た泉は、風荷へ視線を移した。ちょっと眺めて、言った。
 「ありがと、風荷」
 泉は一瞬の間をあけ、「風荷もね」と意味ありげに微笑した。
 「きょう、かわいいじゃん。分かるよ。かわいい」
 風荷はぎくっとしたように顔を赤くした。泉から目をそらしうつむいたが、葉月と光四郎はうろんな表情をしていた。
 「行こ。私のノートをふたりも見て……」
 話題を変えるように風荷がうながし、四人は一階の出入り口からビルへ入った。
 入ってすぐの一階部分はフリースペースで、コーヒースタンドがあったり、だれでも自由に弾けるグランドピアノが置いてあったりする。旅行代理店や花屋や美容室も一緒に入っていて、ここだけの印象では上階に何フロアぶんもの規模を持った図書館があるようには見えない。
 このフリースペースは開放的で広く、コーヒースタンドの周りにテーブルや椅子が豊富にそろっているうえいくら長居しても注意されないので、中高生に人気があった。何か持ちこんで食べたり飲んだり、いつまでも話しこんだり、時には勉強まで始めたりする。とはいえビジネスマンも利用するビル内なので、話が弾んでも度を越えた騒ぎは起こしづらい空気があって、そこもまた人気の理由のひとつになっている。
 四人はコーヒースタンドからも、ほかの利用者からもなるべく離れた位置を選び、ふたりがけをふたつくっつけて座った。そこに風荷が取り出したノートを、葉月が手に取ってひらいた。光四郎はすでに内容を覚えてしまうほど、バスのなかでじっくり見ていた一ページ。
 メモは短かった。けれど情報が詰まっている。これが風荷がきのう、あの墓地で一時間以上を費やした結果得られた貴重かつ重要なヒント。
 葉月の横からノートをのぞき、泉が言った。
 「候補者がいただけ、すごいよ。ていうか意外といるし。きのう光四郎から聞くまでは、だれもいないかも……って覚悟してたけど」
 「泉、そうだったの?」
 「ごめん。そんなネガティブなこと、はーくんに言ったら悪いなって。でも期待しすぎてもさ、逆にプレッシャーでしょ? 風荷、ほんとよくやったね。ひとりで大変だったよね」
 「ううん。全然……」
 風荷は照れ隠しに受け流すと、
 「四人そろってるし、きのうのこと、私がもう一回整理するね」
 と声をあらためた。視線が彼女に集まる。
 「候補は五人。全部の墓碑をさがして見たから、見落としはないと思う。古くて、読みづらいのもあったけど……最大限、そのまま書き取ったつもり。五人とももちろん女性、享年は一応、葉月くんが見た夢を参考にみんなで決めたとおり、十五歳以上三十五歳以下に限定してる。けっこう年齢幅を広く取っても、やっぱり若い女の人は少ないなって思った。男の人だともっと多かった。戦争があったからかな。若い男性は戦地に行って。……」
 風荷を聞きながら、葉月は手もとのノートを見つめた。風荷の手書きで、候補者となる故人の俗名、享年、没年がリストアップされている。
 「墓碑によっては、亡くなった年だけじゃなくて、日付まで刻んでくれてるのもあった。でもこの五人については、ふたりをのぞいて没年だけ。死因はどれにも刻まれてなかった。この人たちだけじゃなくて、ほかの墓碑でもそう。たぶんそこまでは普通、やらないんだよね」
 と風荷。葉月の目は五人の享年、そして没年あるいは没年月日へ向かう。几帳面な風荷は、墓地で取ったもとのメモを帰宅してから時系列順に並べ替え、さらには和暦を西暦に直した新たなリストを追記していた。

 享年19 没年1934年(昭和9年)
 享年34 没年月日1955年10月21日(昭和30年10月21日)
 享年25 没年1979年(昭和54年)
 享年21 没年1982年(昭和57年)
 享年27 没年月日1999年7月6日(平成11年7月6日)

 「平成12年……西暦二千年よりもあとに該当する人はいなかった。それだけみんな、長生きするようになってるのかな。それか、あそこのお墓に入る人自体が減ってるのかも。鈴掛は田舎だし、どのお墓も古そうで、まだ綺麗な……新しいのがなかった」
 風荷は思い返すように言う。
 「なんだか時が止まってるみたい」
 このリストだけ見ると、二十一世紀になってからあの墓地へ葬られた十五歳以上三十五歳以下の女性はゼロということになる。四人の目には、リスト内ではもっとも直近である平成11、あるいは1999という数字でさえ古かった。言うまでもなく、自分たちはそのころまだこの世に生まれてもいない。
 だが、そうなると、このリストのうちのだれかが確かに「彼女」であるとして、その亡くなったのはどのみち、今よりかなり以前の出来事になる。
 風荷が続けた。
 「それと、もうひとつ大切なのは、この五人の女の人が入ってるお墓は、あの夜にお供え物が荒らされた地点からはどれもそんなに近くなかったってこと。少なくとも同じ通路に建ってるお墓じゃなかった。だから、泉くんが撮ってくれた画像よりも、さがす範囲を全体に広げたのは正解だったんだと思う。一瞬すごく不安になったけど……最初に見ていった通路に該当する人がだれもいなくて。……」
 実際、そのとき風荷は階段下にいる光四郎へヘルプを求めたくなった。どうしようと思った。だが自分をはげまし、気を取り直して確認を続けていた。
 葉月がノートをテーブルに広げた。顔つきは真剣そのもの。まるでノートごと食べてしまいそうな熱視線をそそいでいる。
 「じゃあ、これに書いてある五つの年にあった殺人事件を、これから図書館で、僕たち、全部さがせばいいんだね。この人たちの名前がそのなかのどれかにあれば、それがあの人。あの人の名前」
 そう、と風荷は葉月に答えたが、
 「でも葉月くん……」
 と、また継いだ。考えがあった。
 「調べる優先順位をつけたほうがいいと思うの。亡くなった日付の分かってるふたりは、範囲が絞りやすいけど、五年ぶんの資料を一気に見るのは想像以上に大変なはず。だから私、この五人のうちで『あの人ではなさそうな人』はいないかなって考えてみて、それで思ったの……」
 すでに分かっているような表情を光四郎と泉はしていた。光四郎はこのことに関してはきのう、帰りのバスを待っているあいだ風荷と話しており、泉は光四郎との電話の際、ちらとだが意見を交換していた。
 「葉月くんが夢で見て、体験してくれた、あの人の記憶みたいなもの……その内容と、このリストの数字を照らし合わせるの」
 風荷は時系列順に並んでいるリストの、上からふたつを葉月に向け指で示した。
 「そうしたらこのふたりは、可能性が低いふたりとして、まず優先順位を低く設定できると思う」
 「このふたりの人は、あの人ではなさそうってこと?」
 「そう。……」

 享年19 没年1934年(昭和9年)
 享年34 没年月日1955年10月21日(昭和30年10月21日)

 「このふたりは、葉月くんが体験した内容に対して、亡くなったのが古すぎると思うの。特にひとり目のヤエさん。昭和9年って、数字だけ見ても相当に昔だけど、葉月くんは夢で自動車に乗ったよね。あの人を殺した犯人の男が隣で運転してて、葉月くんは助手席に乗ってた。きっとあの人がそうだったみたいに」
 「うん」
 「でも、1934年だよ。百年前とまではいかないけど、戦争が始まるよりも前。教科書に載ってるくらい古い時代だよ。この時代に、東京とか大阪とか、都会の人じゃない一般の人が、気軽に車なんて乗ったかな。そもそも自分たちの車なんて持ってたと思う? 私、ネットでも調べたけど、あのくらいの時代の自動車って、ほんとに今のと全然ちがう。絵本に出てくるみたいな……なんか、おもちゃみたいなの。だから……えっと」
 風荷はそこまで言って光四郎を見た。自動車のことは正直、彼女には自信がない。あとの説明を任せたかった。
 「光四郎くん……」
 「俺、古い車がたくさん来るイベントとか、展示会とか行ったことあるけど」
 光四郎があとを引き取った。
 「クラシックカーって言うやつ。でもそういうくくりのイベントでも、30年代の車なんてめったに来ない。ていうか俺、たぶん見たことない。そんなの博物館級だと思う。イベントに来るのは、どんなに古くても60年代とかだから。それだって相当、昔に見えるし。だから30年代なんて言ったら……」
 「こんな感じ?」
 と泉。いつの間に検索していたのか、三人へ自分のスマートフォンを見せる。画面には1930年代を彩った、主に欧米の自動車の画像が並んでいる。今からするとまるで見慣れない、それらは馬車のような形をしていたり、全長が異様に長かったりしていた。白黒の映画に登場していそうなファンシーなスタイリング。オープンカーも多い。
 泉が画面をスクロールさせると、説明書きがあって、それにはこうあった。

 『日本国内における自動車製造が本格的に始まったのは、戦前、1936年より……』

 「そうなると、もうヤエさんはちがいそう。この説明が正しいなら」
 泉が言った。
 「オート関連の雑誌出してるところの公式サイトだから、よっぽどまちがった情報じゃないはず。日本で車をガチで作り始めたのが1936年なら、それより二年も前にたったの19で死んじゃったヤエさんが車に乗る機会なんて、きっとなかったと思うな」
 「あったとしても、葉月の体験とは全然ちがう感覚になったと思う」
 光四郎が続けた。「つまり?」と泉。光四郎は、自分が60年代の自動車に実際に乗せてもらったときの話をして、クラシックカーと現代の車の乗り心地がどれほど異なるか、つまり、仮に葉月が夢で乗せられていたのがそうしたクラシックカーに相当するものだった場合、葉月のいだいた感覚がどういうものであったはずか説明した。
 たとえば葉月は、夢で助手席に座って揺られていた車に対し、その走行中の乗り心地を「バスより良く両親の車より悪い」と感じた。そして車内のようすは、少なくとも葉月のよく知る自動車のイメージをいちじるしく逸脱してはいなかった。
 「葉月はさ、自分の親が持ってる最近の車しか、ほとんど乗らないじゃん」
 光四郎が真顔に言う。
 「だから、そういう昔の古い車とか知らない葉月が、『自分は車のなかにいるんだ』って夢で普通に思ったってことは、それはたぶん、今の車とそこまで差のない車だったんだよ。オープンじゃなくて、普通の高さに窓があって、座席があってエアコンが付いてる……そういう車だったんだよ。もしそれが、前に俺が乗ったことのある、60年代より前の車だったらたぶんそんなふうに思えてない。古いやつってエンジン音すごいし、ガソリン臭いしめっちゃ揺れる。車高も低いし座席も硬いし……とにかく、『すごく古そうな車』って、少しはヘンに感じたと思う。感じてなきゃおかしい」
 「光四郎ってさ、けっこう車、好きだよね? 詳しいじゃん。サッカーだけじゃないんだね」
 泉が茶化すように割りこむ。光四郎は無愛想に口を閉ざしかけたが、葉月が大きく首肯し、
 「うん。光四郎の言ったとおりだと思う」
 と口調を強めた。
 「僕、この画像を見てもそう思ったけど、僕が夢で乗った車は絶対こういう感じじゃなかった。もっと普通の、みんなが乗っても『車だ』ってすぐ思えるような……そういうのだった。揺れたんだけど、それはたぶんカーブだから揺れてた。この画像みたいな見た目の車だったら、なかに乗ってても、僕、すぐには自動車って分からなかったと思う」
 「決まりだね。あの人はおそらく1934年に亡くなったヤエさんではない、と。……そうなると、どうして死んじゃったのか気になるけど。まだ19だったのに……病気かな。昔だもんね」
 泉が首をひねる。時代が時代、病死の可能性も高いが、その確実な死因は本人の遺族や子孫等に尋ねるほかはない。このヤエだけでなくあとの四名についても、役所へ行って、もしもまだ記録に残っているなら死亡届などの正式な文書を参照すればいろいろなことが一発で分かるかもしれないが、彼らにそれをやるのはむずかしかった。まず役所の担当者に事情を話さなくてはならないが、その「話す」ということをしたくない。もうその段階から、ハードルが高すぎている。担当者は確実に大人で、いきなりやってきた小学生四人に対し、なぜ親類縁者でもない他人の死亡届を見たがるのか妙に思うだろう。第一、そうやすやすと参照させてくれるだろうか。それこそ個人情報に当たる重要な書類だろうから、死亡した本人とつながりのある関係者からの正当な許可が必要かもしれず、そうなると話がどんどん大きくなってしまう。自分たちの現状と目的を、不特定多数の大人に知られることになる。
 それは困る、という一致した意見がすでに四人にはあった。この現象が始まった当初から、「できればだれにも話したくない」というその感覚は変わらずずっと続いている。もっとも近い親やきょうだいにさえ、彼らは相談のひとつもしていない。だからきょう、彼らはここへ集まっている。
 「ふたり目の人も、同じ理由でちがうってこと?」
 葉月が尋ねた。視線は「ちづ子」という名前の上で止まっている。
 「この人は日付も分かってる。1955年10月21日……昭和30年10月21日。この人も、死んじゃったときが古すぎる? まだ50年代だから」
 「うん。……ちづ子さんは」
 風荷が応じる。
 「それもあるけど、あとは年齢。この五人のなかでは一番、年上だから。私、おばあちゃんから聞いたことあるの。昔の女の人って、お嫁に行くのが……結婚するのが、今の人よりだいぶ早かったんだって」
 「そうなの?」
 「うん。もちろん全員じゃないよ。でもそういう人が多かった、って言ってた。特に田舎は早かったって。早く結婚して子供を産んで、旦那さんのために家事をするの。今はそうじゃない考え方もあるけど、昔はそれが当たり前だった。だからね……なんとなく、私はこの人じゃない気がする。葉月くんの夢だと、あの人は好きな男の人の車で一緒にドライブしてたけど――しかも夜に――でも、あの当時に三十歳を越えてる女性が、もう結婚もして子供もいたかもしれないのに、そんなことしたかなって。なんとなく、不自然な気がして……」
 「でも、風荷」
 泉が笑った。
 「もしかしたら不倫だったかもよ?」
 「えっ?」
 「昔の人だって、今の人みたく不倫することあったんじゃない? 運転してたのは、もしかしたらその不倫相手の男だったかも。そしたら子供がいたって旦那さんがいたって関係ない。年齢だってそう。三十四、五じゃまだまだ。もっとおばちゃんになったって、するときはするよ」
 「そ、そうかな」
 「そう。むしろ人妻のほうがキケンなんじゃない? 飢えてそうだもん」
 「そ、そう? ……そうなの?」
 風荷はちょっとうろたえたが、「でも」と気を取り直してなおも主張した。
 「でも、やっぱり可能性としては、私はちづ子さんは低いと思う。葉月くんの話してくれたあの人の感じとは、ちがう気がするの。この年齢が……うまく言えないし、泉くんの言うことも確かにそうかもしれないけど……なんとなく、私は」
 「女の勘? やるねえ、風荷」
 「泉くん。もう――」
 「だったら僕は引くよ。こういうのって、やっぱ女同士だからこそ分かるんでしょ? 完全に除外するんじゃなくて、あくまで優先順位だしね。いいと思う。どっちみち55年じゃ、まだ相当古いし。戦争が終わって10年しか経ってない」
 「ていうか、ごめん。あのさ……」
 ふいに光四郎が口をはさんだ。
 「今、急に思ったんだけど。たぶん泉が話してるの聞いたせい」
 「え? 僕?」
 声色を変えた泉を、光四郎はじとりといちべつした。そしてリストを眺めつつ、言った。
 「この人たち、全員ほんとに女だったかな」
 「えっ……」
 風荷はそれを聞いてはっとした。そして確かに、性別に関するはっきりとした表記は墓碑にはなかったと思った。つまり、自分はそこに刻まれている俗名から、感覚的に「女の人の名前だな」と判断しただけで、その人物が確実に女であるという保証があったわけではない……だがそうなると、まさに光四郎の言うとおりかもしれない、と気づいた。
 つまり……世の中には男っぽい名前の女も、また女っぽい名前の男も存在する。よくよく思ってみれば、たとえば「葉月」だって女子の名前になりうるし、「泉」もそう。「光四郎」はちょっと微妙だが……しかしそれを考慮すると、もしかして自分は見落としていたかもしれない。あの墓地でひとつずつ墓碑を確認していたときには考えが至らなかったが、享年は若くとも、その俗名を見て男だと思ってスルーした人物が、じつは女性だったのかもしれないし、あるいはその逆、女だと思いこんでいた名前がじつは男の名だったという可能性もないとはかぎらない。「小野妹子」だって女と思いきや男だった。そう、「蘇我馬子」も……あんなに有名な例があったのに。
 さらには、刻まれていた俗名には振り仮名がなかった。「ヤエ」や「ちづ子」のように片仮名や平仮名であれば、よほどミスはない。しかし漢字表記だった場合は? その漢字の読みによっては、たとえば「泉」が「せん」とも「いずみ」とも読めるみたいに、自分が判断した読み方そのものがまちがっていた、そのせいで性別を勘ちがいしたという可能性も、やはりないとはかぎらない。学校でも塾でも、たまに先生がそんなまちがいをする。だが確認していたときには難読を感じず、すらすら読んでしまって気づかなかった……。
 風荷は小さなショックを受けたが、言わないわけにはいかない。頭に浮かんできたその考えを三人へ話した。すると光四郎は、彼女のその考えについては「なるほど」という顔をした。そしてさらに付け加える口調で、
 「俺が思ったのは、今の風荷の話もそうなんだけど……」
 と、ちらと泉を見てから、言った。
 「男なのに女みたいな奴がたまにいるじゃん。泉みたいな。だから、もしあの人もそうだったら……俺たち、今までずっとあの人を女だと思ってきたけど、じつは泉みたいに、ほんとは男なのに自分を女と思ってるような奴だったら」
 「ねえ光四郎。僕、自分を女と思ってるわけじゃないよ、一応言っとくけど。僕は男で、それは別にいいんだよ。でも女性らしい感じもすごい好きで、どっちも譲れないから、どっちの好きなところも僕のものにしたくてこういうふうに――」
 「分かった、分かったよ。分かったけど、今はそういう細かいとこは大事じゃない。とにかく、俺が言いたいのは、もしかしたらあの人はじつは女じゃなく男で、俺たちの夢とか幻覚のなかではただ女みたいにしてるだけかもしれないってことだよ。女じゃなくてそもそも男かもしれないじゃん。泉を見てたら、なんかそう思った。その可能性もあるって……でもそしたら、あの墓でさがさなきゃいけないのは女じゃなく男になって、あの人は泉みたいなオネエかもしれないから」
 「光四郎、考えすぎ。さすがにそれはないんじゃない?」
 泉は軽いトーンでさえぎり、
 「僕のせいでヘンに疑わせちゃって、あの人に悪いな」
 と苦笑した。
 「そこまで言い出したら、いつまで経っても始められないよ。とりあえず僕は、風荷が挙げてくれた成果を信じる。だからみんなもそうしてよ。風荷も、せっかく自分が調べてきたことに自信なくさないで。ちがったら、またやり直せばいいだけ」
 「そうだよ、風荷。それに僕、分かってる」
 と葉月。三人をじっと見つめ、だれよりも真剣な面持ちで継いだ。
 「あの人は泉みたいじゃないよ。泉は男の人と女の人の中間にいるみたいだけど、あの人は絶対に女の人。若い女の人だよ。絶対にそう。運転してたあの男の人を、すごく愛してた。ほんとだよ、光四郎」
 「なんで俺?」
 「だって光四郎が、あの人は泉みたいな人かもしれないって言うから。でもちがう、女の人だよ」
 「まあ……分かったよ。うん。葉月がそこまで言うなら」
 四人の目が、四方からテーブルのリストをかこむ。
 さまざまな可能性を挙げていけば泉の言うように終わりがない。ひとまずこの風荷のリストを基に進めるとして、その優先順位のうち、没年時期と年齢その他から下位に来たのが「ヤエ」と「ちづ子」。彼女らふたりはあと回しにし、まず残りの三名から始める。それでも三年ぶんの事件記録をチェックしていくという、ちょっとため息の出そうな、地道な作業になる。

 享年25 没年1979年(昭和54年)
 享年21 没年1982年(昭和57年)
 享年27 没年月日1999年7月6日(平成11年7月6日)

 「きょうで分かるかな。……」
 風荷がつぶやいた。半信半疑の声色。ノートを閉じる。
 四人は椅子から立ち上がった。
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