第31話

文字数 6,579文字

 翌月曜日、放課後。
 泉は目立たない校舎の陰まで来ると、光四郎へ電話をかけた。葉月は飼育委員の仕事があり、それが終わるのを待っていた。
 先にメッセージで約束してあったので、光四郎はすぐに出た。泉は声をひそめた。話したいことがいくつかあった。
 「まだ学校?」
 「うん。でもだいじょうぶ、ひとりだから」
 光四郎の声も低かった。泉は続けて、
 「風荷となんか話した? メッセージとか。きょう」
 「ううん」
 「きのうのこと、もっと詳しく教えて。風荷がきょう休んだのって、先生は『風邪』って言ったらしいけど、きのう、あったことのせいでしょ? 図書館から帰ったあと」
 「――だと思う。俺、電話しただけで、ちゃんとは知らないんだけど……風荷から電話来てさ。……」
 前日、深夜の出来事を、光四郎はなるべく具体的に泉へ話した。話すうちに一度、身震いした。
 「妹のときみたいに、ベランダから飛び下りようとしたんだと思う。だからたぶん、マジで危なかった。直前で電話かかってきたからよかったけど、やばかった。もしあのまま……」
 泉は青ざめた顔で、
 「マジで笑えないよ。もしきみがその電話に出てなかったらって思うと……考えただけで無理。そしたら風荷、今ごろ……あー、無理。もう。ほんと……ありがとう、光四郎。きみがいなかったら、やられてた」
 「や、俺は……でもよかった。ギリギリのとこで、電話するって風荷が思いついてくれたから間に合った」
 「優子さんの――夢? それとも僕みたいな」
 「分からない。妹のときと同じならたぶん夢を見たんだろうけど……俺、訊かなかったし、風荷も言わなかったし」
 「それでいいよ。言いたくないなら無理に言わないほうが」
 「うん。俺もそう思って。……風荷、きょう休んだんだ。泉からメッセージ来るまで知らなかった。きのう、電話切るときは全然つらそうじゃなかったのに」
 「はーくん、めちゃめちゃ心配しちゃってて。一時間目のあとに僕のとこ来て、風荷が欠席って話した。それで家まで会いに行きたがってて」
 「行くの? なら俺も――」
 「ううん、それがさ。僕も行けるならそうしたいんだけど、風荷の親、っていうかママ? が、そういうのけっこう厳しいらしくて。急に僕らみたいな男子が行ったら風荷ちゃんに迷惑だよって、はーくん、クラスで言われたっぽくてさ、風荷の友達に。まあ、それはそうかもしれないんだけど」
 「その友達に見てきてもらうのは?」
 「うん、きょう、これからその子たちが家まで行くみたい。お見舞い。だからどうだったか、あとで教えてってはーくんが頼んである。たいしたことなきゃいいんだけど……僕もはーくんもメッセージ送ったんだけど、既読になってなくて」
 「寝てるんだと思うけど……たぶん。きのう、かなり遅くまで電話したから……」
 言い聞かせるようにつぶやいた光四郎の声色も、しかし青ざめているようだった。
 風荷との電話を切って光四郎が時刻を見たのは、すでに明け方近くのことだった。そのときには風荷の声の感じも受け答えも普通に戻っていて、特におかしいと思わなかった。だがほんとうは画面の向こうで無理をしていたのかもしれない。
 あんな事態のあとでも、長電話などしないでもっと早くに寝ていればよかったのだろうか。風邪というのは事実なのか。
 「俺のせいかな……俺が電話で長く話したから」
 「ちがうよ、光四郎」
 言下に泉は言った。
 「きみは風荷を助けた。だからそんなふうに考えちゃだめ。やられるよ」
 「分かってるけど」
 「こっちが弱ってるとき、あの人の力に勝てなくなる。一番、死にやすくなる。そんな気がする」
 「うん」
 「しっかりしなよ。今、僕らがやられたら全部が無駄になる。せっかくここまで来たのに」
 「分かってる。……そっちこそ」
 光四郎は口調をあらためた。
 「その友達がなんて言ってたか、聞いたら教えて。俺もあとでメッセージ、送ってみる」
 「りょーかい。夜、また連絡する」
 「あと……」
 あたりを見回し、光四郎はきょう、学校で知ったニュースを口にした。
 「夏休みに、こっちで説明会あったじゃん。あの動画を撮影して……自殺したあいつのことで。そのとき倒れた女子、ずっと学校にも来てなくて、自宅で療養中ってことになってたんだけど……きのう、死んだって。今朝、集会があって言われた。どう死んだかは言わなかったけど」
 そのため明光第一では、一日をとおしてその件に関するうわさで持ちきりとなっていた。風荷のことがあったぶん、光四郎はショックで少し茫然としたが、あの説明会で椅子ごと倒れ、そのときは周りの大人や教員に「熱中症」とさわがれた、その同級生の女子はとにかく亡くなったらしい。
 説明した教員は沈痛な面持ちで、死因についてはやはり何もふれなかった。遺族の意向らしい。葬儀も近親者のみという。きのうのきょうの出来事で、教員側はその死をまだ受け止めきれていないようだった。説明のあいだ、何人かの女子のすすり泣きを光四郎は耳にした。だがそういうことから、先月からの体調不良が悪化したのではなく、何か突発的な、予想外の死に方をしたんだろうと思えた。
 泉はもちろん初耳だった。だが冷静に息をのみ、
 「死んじゃったんだ。やっぱり……脱水症状? とかって聞いてたけど……りあの友達がその子と同じクラスだから」
 「え、そうだっけ」
 「そう。倒れた子の、真後ろの席に座ってたんだって。……かわいそうだな。もしその友達にも、何か起きたら」
 きょう、泉はりあともいつもどおりにしゃべったが、りあはこのことをまだ知らないのかもしれない。だが知るのも時間の問題だろう。りあはきっとまた動揺するだろうが、避けられない……。
 「風荷といいその子といい、なんか急に来た感じがする」
 けわしい目つきで泉が言った。
 「ひょっとして、僕らがきのう、あの人の名前を知ったことに関係してるかな。名前だけじゃなくて、あの人の事件のことも。どう思う?」
 「俺たちがあの人に近づくほど葉月みたいな目に遭うなら、そうだと思う。どんどん俺らに近づかれて、逆にびっくりしてるっていうか。びっくりして、もっと守備がかたくなるとか攻撃が激しくなるとかさ、そういうことあるじゃん。そんでロスタイム中に決められて終わるっていう」
 「もう、何それ。困っちゃうじゃん、そんなの……。でも、やっぱり急いだほうがよさそうじゃない? この感じ」
 「――と思う。行くならなるべく早く……きょうさ、その集会のあと、けっこう早退する人が出て」
 「マジ? 六年生?」
 「うん。もう先生たちが、すごい大変そうになってた。授業できなくて、ずっと自習だったし……だから、なんかやばい気がして」
 あの動画を企画し、投稿したクラスメイトが退院してくるきざしは未だなかった。連絡がつかないまま日数が経っている。きょうのような集会での暗い報告がないだけ、まだ生きているはずだが……だが彼をのぞいても、明光第一の六学年だけですでに二名の死者が出ている。それもたったふた月ほどの短いあいだに。加えて早退者の続出、近ごろの欠席数の多さ。
 光四郎は言葉を切り、六年生のみ今週の予定が変更になったと続けて話した。状況をかんがみての教員たちの判断か、金曜日が臨時の学年閉鎖になり、つまり休みになったのだった。9月30日。今月、最後の日に当たる。
 その報告を聞き終わったとき、ランドセルを背負った葉月が小走りにやってくるのを泉はみとめた。
 「あ、はーくん」
 同時に光四郎が「ごめん、呼ばれてる」と慌てたように言ったので、
 「じゃあ、またあとで。今の話、はーくんにもしとくね。気をつけて」
 と通話を切った。風荷とのタイムラインを確認したが、送ったメッセージはまだ未読だった。
 葉月が息をはずませ、「泉――」とそばまで来て、言った。
 「だれと電話? 光四郎?」
 「うん」
 「なんで切っちゃったの。僕も話したかったよ」
 「僕が切ったんじゃないよ。向こうが僕をふったの。だれかに呼ばれた、って」
 「何、話したの?」
 「今、教えるよ。風荷の件、プラス、明光第一から新しい情報。いいニュースじゃないけどね」
 葉月は静かにうなずき、ランドセルを下ろした。

 そのころ、泉との電話を切った光四郎は、どうさがし当てたのか、遠目に自分を呼んだ美春とふたりだった。
 以前のとおりではない美春にも彼は慣れてきていた。美春は光四郎の隣に座ると、
 「だれと電話してたの?」
 澄んだ大きな目で尋ねた。「友達」と光四郎は答える。
 「ちがう学校の?」
 「うん。藤ヶ丘の」
 「サッカーで一緒の子?」
 「ううん、そうじゃないけど。友達」
 「ふーん……」
 美春はきょうのニュースを聞いても、態度に変化はなかった。むしろますます落ち着いた身のこなしで、自習のあいだはクラスの仲のいいグループの女子と話しこみ、時折、男子もまじえて盛り上がっていた。
 「光四郎、きょう、いつもより寝不足?」
 「え、そう?」
 「うん。だってほら」
 美春は光四郎をのぞきこみ、右目の下あたりにそっと触れた。
 「クマ、できてるもん。きのう、寝なかったでしょ」
 「ちょっとは寝たよ。電話してたから遅くなった」
 「あたしとの電話でしょ?」
 「あ、ううん。そうなんだけど、そのあとまた、かかってきて。友達」
 「また友達? だれ?」
 「美春は知らないよ。その子も藤ヶ丘だから。五年だし」
 「光四郎、藤ヶ丘に友達多くない? そんなに会うとき、ある? あたし、藤ヶ丘の子、全然知らない。……その子、女の子?」
 「うん」
 「五年なんだ」
 「そう」
 「ふーん……なんでそんな遅くに電話したんだろ」
 「それは……えっと」
 光四郎は少し口ごもり、
 「なんか、寝つけなくて怖いって言ってた。夢が怖いとか、そういうの」
 「そっか。みんな、そればっか。いつも、そう。ほんと子供」
 「美春、怖くないの?」
 「あたしは怖くないよ。そのうちおさまるって思ってるから。そんなことよりあたし、早く卒業して中学行きたい。――ていうか、そう、今のこれって全部、小学生だけの話なんでしょ? だったらやっぱり、早く卒業しちゃえばよくない? そしたらもっといろんなこと、できるし……制服も楽しみだし。ね、光四郎は? そう思わない?」
 「うん。まあ、思うけど……」
 「だよね? もう小学校とか飽きちゃった。あたし……中学でも光四郎と同じクラスだったらいいな。そしたらもっと楽しそう。ずっと同じは無理でも……ね、クラスちがっても、今みたいにいっぱい話そうね」
 「うん」
 「ほんと?」
 「ほんとだよ。なんでウソつくの?」
 美春は花のように笑った。ポニーテールをふわりと揺らし、光四郎の腕を引いた。
 「もう帰る? なら、あたしもそうする」
 「あ、俺どうしよっかな。ちょっと……」
 風荷へメッセージを送ろうと思っていた。泉にもそう言ってあるし、きのうの長電話を謝って、具合はどうか尋ねて、早く治ってほしいというのを伝えたかった。
 「帰らないの?」
 「ううん、帰るけど」
 「じゃあ、行こ。――あ、でも先に。教室に忘れ物」
 美春に腕を引かれ、光四郎はなんとなく腰を上げた。下校していく生徒たちの声が正門のほうで響いている。
 あとで、帰ってひとりになったら落ち着いて送信すると決め、光四郎は美春と並び校舎へ向かった。

 その後、すぐ帰るつもりだったのに、教室に残っていたクラスメイトたちとなんだかんだ話したり、美春と寄り道したりしていたら、思ったより遅くなってしまった。美春と別れ自分のマンションのある通りを歩いているとき、光四郎は遠目に風荷のマンションの一部を見て、ふいに待てなくなって立ち止まると、彼女宛てのメッセージを作って送った。
 その返信は夜になっても来ず、読んだ形跡もなかった。先に送った葉月と泉に返信がないなら自分にもないだろうと思ったものの、不安がつのった。
 そのうち泉のスマートフォンから電話が来て、急いで出ると葉月だった。泉が葉月の家に来ていたらしい。
 葉月はいつにない沈んだ口調で、
 「光四郎――風荷から連絡あった?」
 「ううん。夕方、メッセージ送ったけど、既読になってない」
 「そっか……さっき、頼んでたクラスの子からメッセージ来て、風荷のこと聞いた」
 「どうだって?」
 「会えなかったって」
 「えっ?」
 「風荷のお母さんが、会わせてくれなかったんだって……うつるといけないって、家にはちょっと上がっただけで帰されたって。でも午前中に病院に行って、お医者さんには風邪って言われたみたい。それで風荷、ずっと寝てて、まだ起き上がれないから、あした学校に来られるか分かんない……ねえ光四郎。風荷、だいじょうぶかな。泉から、明光第一の子がきのう、また死んじゃったって聞いた。風荷もそのとき、危なかったでしょ?」
 「うん……」
 「だから……風荷、だいじょうぶかな……僕――僕そんなこと絶対信じてないけど、もし……もし」
 「平気だよ、葉月。だいじょうぶ」
 「そうだよね……そうだよね? だいじょうぶだよね。僕たち、みんなで見つけられるよね。そうじゃなきゃ……」
 「だいじょうぶだよ。風荷、そんな弱くないじゃん。ていうか葉月がそんな弱気でいて、どうすんの」
 「うん……泉もそう言ったよ。僕がやられたら共喰いだって」
 「え? ……共倒れってこと?」
 「あっ、まちがえた。そう、共倒れ」
 「共喰いって」
 光四郎はちょっと笑った。
 「泉、今そこにいんの?」
 「うん。隣で聞いて、笑ってる。僕がすごく不安になってて、それが心配だから、うちに来てるって」
 「あー、なるほど。葉月、すぐやばい目に遭うから、そのほうがいいと思う。……」
 気をまぎらわそうと、しばらく三人で話して電話を切った。
 だが切ったあと、光四郎の内に不安はさらにふくらんだ。風荷とのタイムラインを見ると、目が冴えてとても眠れそうにない。
 夜が深くなるにつれ、考えた。
 風荷はどんな夢を見て、ベランダへ飛び出したのか。穂坂優子の何にふれたのか。
 今ごろ苦しんでいる? うなされている?
 風荷は弱くないと電話では言ったが、それは葉月のためのはげましだった。本心では、光四郎は分からなかった。少なくとも前夜、図書館からの帰り道での風荷はどこか無理をしている感じだった。強いのではなく、強がっている気がした。風荷は美春とはちがう。風荷があんなふうに話したり、笑ったり、周りと付き合ったりする姿は想像できない。けれど美春だったら、怖いとき「怖い」とはっきり言ってくれる。あの肝試しのときみたいに。
 美春だったら。それか学校でよく話すほかの女子たちも、かなしいとき、怒っているとき、そういう気持ちでいることをこちらにちゃんと教えてくれる。でも風荷は……。言ってくれればいいのに……。
 部屋の扉がノックされた。光四郎は一瞬凍りついたが、あけて入ってきたのはパジャマ姿の妹だった。髪には寝癖がついていた。
 「お兄ちゃん……」
 光四郎はため息をついたが、まだ安心できないまなざしで、
 「何? どうしたの?」
 「起きてるの?」
 「うん。――何? 夢、見た?」
 「ううん。見てない……トイレ、行きたかっただけ」
 妹に化けた穂坂優子ではないと分かり、光四郎は今度こそほっと息をついた。だが妹はむしろ怖がるように光四郎をうかがい、おずおずと尋ねた。
 「お兄ちゃん……だいじょうぶ?」
 「だいじょうぶだよ」
 「でも……」
 「いいから寝なよ。俺は平気だから」
 「うん」
 「また怖くなったら、来て」
 妹を帰し、それからもなお彼はベッドで起きていた。あまり見る気もない動画をスマートフォンで見て時間をつぶしていたが、気づくと眠っていた。
 明け方の五時半過ぎ、彼が眠っているあいだにメッセージが届いた。
 風荷から。

 『心配してくれてありがとう。やっと起き上がれるようになったよ』

 メッセージは葉月と泉にも届いていた。

 『もうだいじょうぶ』

 朝になってから、光四郎には追加のメッセージが来た。

 『光四郎くんと電話したせいじゃないよ。あの電話がなかったら私、今、生きてない。ほんとにありがとう』
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