第9話

文字数 6,736文字

 夏休みに入っても普段と変わらず、週末もいつもの場所でサッカーだった。学校のクラブ活動とは別に所属している少年サッカーチーム。土手沿いの空き地を利用して並ぶ専用コート。大量のミネラルウォーターと汗と、レモンのはちみつ漬け。
 だがひとつ普段と変わっていたのは、その練習の参加人数がまたひとり、減ったことだった。もっと言えば、その数は練習日ごとに減っていくようだった。今回減ったそのひとりは他校の生徒だったが、あんなに熱心だったのが体調不良、もしくは夏バテという去年にはなかった理由で来なかった。
 子供はひときわ体温調節がむずかしいから……隣のコートを使っていた中高生チームの親たちが、こっちが休憩しているとき話していた。一緒に休憩していてそれを耳にしたそばのチームメイトたちは、不快そうな、不安そうな、どっちも混じった顔をそのときしながら、特に何も言わなかった。
 けれどほんとうは分かっていたのだろう。またひとり来なくなったのは体温調節がうまくいかなかったからではなくて、それは――しかし小学生チームのだれもが黙ったまま、その日の練習を終えた。元気がないぞとコーチが何度も言っていた。しっかり休め。無理は禁物。よく食べてよく寝て……こっちだってできることなら、そうしたかった。
 それができなくなって、こうなった。
 盆休み明けの週後半だった。ここのところ母親はPTAの集まりで忙しく、きょうも午後から会合らしいがその内容はほとんど察しがついていた。ついこのあいだ亡くなったという連絡が来て夏休み中の明光第一に衝撃が走った、あの変死について話すんだろう。もっか自殺ということになっているらしい、あの。
 出かけようとしたとき、気づいた妹が大きな声で言った。
 「お兄ちゃん? どこ行くの?」
 歳の離れた妹だった。小学校に上がってはじめての夏休み。
 六年生の光四郎(こうしろう)は振り向き、日に焼けた顔で小さく笑った。
 「病院」
 「なんで? なんで病院なの?」
 「友達が入院してるから。お見舞い行ってくる」
 「えー、やだあ。一緒にいてよお」
 「ごめん。あとで。帰ってきたら遊ぶから」
 言い残し、背後に玄関ドアを閉めた。
 マンションの自転車置き場から自分のものを引っ張り出し、またがると強く地面を蹴った。向かう先である市の記念病院はここからさほど遠くなく、電車で行く手間をかけるなら自転車のほうが楽で早い。
 光四郎は努めて頭をからにしつつ、サドルから腰を浮かせて午前中のすでに熱波となりかけている風を受けた。
 考えれば考えるほど焦燥に襲われイライラした。それから不安と恐怖がやってくる。信じないようにするほどまた、あの夢を見る。
 あの夢。なぜなのか分からない。しかし光四郎にはうすうす思っていることがある。自分と自分の周りに次々と起きている静かな異変、それらはやはりあの日のライブ配信をさかいに始まっている。あの動画撮影に自分が参加して以降、今までどおりだったことがそうならなくなった。つい先月まで日常の多くを占めていたサッカーがこんなにも退屈な、どうでもよいものに思えるなんて、自分にもわけが分からなかった。
 光四郎はペダルを踏みこむ足に力をこめた。あのとき撮影を担当していた同級生が自宅のベッドで亡くなったと一報を受けた母親に聞いた瞬間から、それまで感じていたかすかな疑念は大きくふくらみ、よりはっきりとした確信性を帯びていた。
 あの撮影で何かが起きていた。
 あるいは撮影された映像に何かがあった。
 記念病院は市内でも指折りの大きな総合病院だった。盆休み明けだからかそれとも毎日こうなのか、広々としたロビーは光四郎がおどろくほど混んでいた。すでに待ち合いの患者でいっぱいの総合受付のあたりでまごついていると、そのようすを目ざとく見つけた案内係らしき女性がすぐさまそばへやってきて用件を尋ねた。光四郎は「面会受付」と書かれたカウンターへ連れていかれ、応対の女性から体温測定のための体温計を渡された。それから面会申込書に自分の名前や住所や学校名を書き、面会したい相手の名とその病室番号と面会時刻も書いて、ようやく「面会許可証」と書かれた札をもらうと首から提げた。「保護者の方は一緒じゃないですか?」という問いには「はい」とうなずいた。
 病室は小児科にあり、個室と聞いた。消毒剤か何かの匂いのする廊下を進み、患者服を着た何人かの、自分よりよほど小さな子供とすれちがい、さらに進む。目的の部屋の前でネームプレートを確認してから、慣れない雰囲気による緊張を押しこめ扉の取っ手に触れた。
 小さな明るい病室だった。廊下と同じ独特の匂いがする。付き添いの保護者も見舞いの客も看護師の姿もなく、しんとしていた。
 ベッドの上で枕に背をあずけ窓外を見ていた少年が、入室した光四郎のほうを向いた。その表情を見るなり光四郎はたじろぎ、思わずはっと息をのんだ。同級生であり友人でもある彼は、光四郎の知るかぎりまるで別人のようにやつれていた。病名を光四郎は詳しく聞いていないが、病気になると人はこんなにも見た目が変わるのかと思うほどだった。やせて土気色で、こちらに顔を向けているのも面倒くさそうで。点滴の管を背後にしょっている。
 「何?」
 開口一番、彼は光四郎へ尋ねた。光四郎は無理に笑顔を作ろうとして失敗し、重たげに答えた。
 「急に来てごめん。訊きたいことあって」
 「メッセージでいいじゃん」
 「送ったよ。けどずっと既読にならないからさ。スマホ、見てない?」
 「あんまり。てか充電、切れてるかも」
 「あ、そう。……」
 光四郎はためらいがちに彼のベッドへ近づいた。
 「あのさ……」
 今のような状態の彼へ、こういうときどう話しかければいいか分からなかった。光四郎は彼とクラスメイトであり、それなりの友人同士のはずだったが、考えてみれば別にそこまで親しい間柄というわけではなかった。
 「なんかあの動画、消されてるんだけど。……消した?」
 「うん。けっこう前に消した。けっこうっていうか、入院する前」
 「なんで?」
 「別に。なんか消したくなったから」
 「元のデータは? スマホ充電したら、見られる?」
 「無理。元データも全部消したから。サイトにもスマホにも残ってない」
 光四郎は落胆の息をかすかについた。この質問をするためにここへ来たのに、もう一度あの動画の内容を確認したいという願いは早々に破られてしまった。元の映像データまで消去されているとなると、ふたたび視聴することは少なくとも自分たちの力だけではかなわない。
 沈黙が流れた。光四郎はそれを気詰まりに思ったが、彼のほうは別段そんな感じはなく、というより自分が投稿した動画にもそばの光四郎にも興味がないようだった。妙な間をおき、光四郎は言った。
 「あいつ、死んだって。聞いた? 先週くらい……自分の部屋で死んでたって」
 「聞いた」
 「自殺らしいって」
 「聞いたよ」
 「なんで自殺かってことまでは親が教えてくれなかった。お前、知らない?」
 「知らない」
 「あいつ、なんで死んだと思う? だっておかしい、クラスちがうし俺はそんなに仲良くなかったけど、でも自殺なんてする感じじゃ全然――」
 「俺のせいじゃない」
 彼は突如言った。唇が異様な紫になっていた。
 「俺のせいじゃない。あいつが死んだのは俺のせいじゃない」
 「分かってるよ。けど絶対おかしい、あいつが死んだことだけじゃなくて全部、あの動画――たぶん――あれを撮ってから全部がおかしくなってる。そうだよ、親とか学校は知らないだろうけど、でも……」
 あの夢。
 光四郎がつぶやいたとたん彼の表情が変わった。やはり彼もあれを見ているのだと光四郎は悟ったが、同時に夢に出る女のイメージがよみがえり、息苦しさを覚えた。
 そのイメージを思うと苦しくなる。怖くなる。ささやかれたことがいつまでも頭に残り、のしかかってくる。
 「何人か『見た』って言ってた」
 光四郎は声をしぼった。
 「内容は完全に一緒ってわけじゃないけど、でも似てる。俺もそう。ほぼ同じ夢」
 「やめろよ」
 「俺だって言いたくない、話したくない。けどそうじゃなかったらなんで入院してんだよ、なんで死ぬんだよ。なんでいきなりサッカー、嫌になるんだよ、絶対おかしい。どう考えてもあれのせいだよ、あれ、あの……あの人。あの女。チョーカーが――」
 「やめろ!」
 目をむいた彼がどなった。その目は青白く血走り、ごろごろと動き、光四郎は一瞬彼がだれか分からなくなった。
 「やめろ……やめろ、やめろ、やめろ。うるさい、言うな。うるさい」
 絶句する光四郎から目をそらし、彼は自分の腕をつかんだ。光四郎はそのとき、そのやせた腕に何度も点滴をし直された痕があるのを発見した。
 「ちょっと……」
 光四郎が言いかける間もなく彼は腕から伸びる点滴の管を引きちぎってはずそうとした。光四郎はとっさに手を出し止めようとした。
 「俺は知らない、俺は知らない、俺のせいじゃない……」
 彼はつぶやきながら管につながれた腕をやみくもに動かす。光四郎は懸命に抑えようとするが抵抗する彼の力は想像以上にすさまじかった。彼のものでないような、異常な力だった。発されるその言葉は加速度的に高ぶり乱れ、叫びとなり、意味をなさなくなっていく。
 光四郎の後ろで病室の扉があいた。急ぎこちらへ駆け寄る看護師たちが光四郎を彼から引き離し、暴れる彼をベッドへ寝かしつけようと悪戦苦闘を始めた。叫び続ける彼の奇声が光四郎をその場に動けなくさせたが、あとから入ってきた別の看護師にともなわれすぐに病室を出された。
 光四郎はそのまま別室に連れていかれ、彼の担当医らしき白衣の男性から、病室で何があったのか優しく訊かれた。その話しぶりと、彼の腕にあった点滴痕の数から、彼がベッドで暴れたのはあれがはじめてのことではないようだった。だから個室に入っているのだろうか。
 光四郎は顔面蒼白になって医師や看護師からの質問に固く沈黙を保っていたが、そのままでは帰してもらえないと理解が追いつくと口から出まかせに適当なことをしゃべった。ようやく解放され小児科のフロアをすり抜けると、早足に廊下を歩き階段を駆け下りロビーへ戻った。来たときと比べ、混雑の具合はまるで変わっていなかった。隠れるように正面玄関のガラスドアから外へ出ると、光四郎は手で胸を押さえた。
 今になって動悸がするのだった。彼らは光四郎が友達の急変ぶりにひどくショックを受けたと考え、保護者に連絡をして迎えに来てもらおうかと提案したが光四郎は拒否し、ひとりで帰ると言い張った。だれにも会いたくなかったし、だれとも何も話したくなかった。
 外は熱帯のようだったが、光四郎は寒かった。点滴を自ら引きちぎろうとした彼は、たぶん彼ではなかった。そう気づいていたからだった。あれは彼ではなかった。
 あれはあの女だった。
 もしくは、あの女によって精神をぐちゃぐちゃにされた彼だった。
 チョーカー、チョーカー、チョーカー……光四郎の頭に、夢で何度もささやかれる言葉が響いている。聞き慣れなかったはずのその単語が呪文のように自身にこびりついて離れない。
 そのうち自分も彼のようにおかしくなるのだろうか。
 光四郎は思った。
 では、それはいつになるだろう。このままではさほど遠い未来ではないかもしれない。サッカーボールを蹴っても走りこみをしても、何をしていてもあの悪夢を振り払えない。
 ぎっしり車のとめられているパーキングを駐輪場へと向かいながら、光四郎は心底後悔していた。なぜあんな撮影に参加したのだろう。行かなければよかった。だが光四郎は夏休みに入る前の先月、撮影を企画した当人やほかのクラスメイトに誘われたとき、あまり乗り気ではなかったにせよ、ことわるだけの大きな理由は持ち合わせていなかった。深く考えずなんとなく「いいよ」と答えた。
 それがいけなかった?
 いや、ちがう。
 光四郎は自転車のロックをはずした。
 仮に自分が参加しなかったとしても、それは撮影隊から自分ひとりが抜けるというだけで、ほかのメンバーによってどのみちあのライブ配信は行われた。そしてその映像はどのみちあとから編集を加えられて再投稿されただろう、そうするつもりでいると撮影前から光四郎は聞いて知っていた。
 だったら何がいけなかった?
 光四郎はサドルにまたがり左足を地につけ、その状態で静止した。
 考えられる点はひとつしかなかった。いや、ほんとうは考えるまでもなく分かっていた。光四郎にとってもっとも後悔すべきポイント、それはあの撮影に参加してしまったことではなく、肝試しのさなか墓地で始まったあの行動を、自分が止めきれなかったことだった。
 なぜちゃんと止めなかったんだろう? もっと強く言えばよかった。もっとしつこく「やめろよ」と、場がしらけてもいいから割って入ればよかった。もしそうしていたら、墓への供え物を無断で飲み食いするという行為はやんでいたかもしれない。少なくともあそこまでエスカレートすることはなかったかもしれない。光四郎はあのとき、その場にいただれもが互いに遠慮して何もできずにいるなか、唯一「やめろよ」と制止の声を上げた少年だった。やばいって……声はそう続いたが、行為がやむことは結局なかった。視聴者からのコメントは増え、荒れて、盛り上がったが光四郎は後味の悪い思いをした。
 やはりあの出来事が関係しているのだろうか。あれは確かに「やってはならない悪いこと」だった。呪われると一部のコメントが騒いでいたのも知っている。だがもし死者からの呪いだというなら、光四郎ははじめ信じていなかった。――はじめは。
 軽いめまいを覚え、光四郎は強く目をつぶって耐えた。だが目を閉じているのも怖くなり、あけた。高温になったアスファルトが眼下にぎらぎらしていた。
 日陰に行かなくては。熱中症で倒れることより、その倒れて失神しているあいだの意識の空白が恐ろしかった。
 あの夢を見たくない。あのささやきを聞きたくない。
 時間を見ようとしたとき、スマートフォンの画面に新着メッセージが表示された。
 『今、何してるの?』
 送信者は『Miharu』。クラスメイトの美春(みはる)だった。光四郎が彼女とのタイムラインをひらくかひらかないうちに二通目が届いた。
 『暇なら会いたいな』
 それから立て続けに表示された。
 『だめ?』
 『暑いね』
 『今どこにいるの?』
 読んだ光四郎はいら立ったような、かつ苦しげな表情になった。それらにいっせいに「既読」が付くと、また来た。
 『会おうよ』
 『どこにいるか教えて』
 光四郎はタイムラインを閉じようとしたが、思い直して返信した。
 『きょうは無理。ごめん』
 スマートフォンをしまうとぐっとペダルを踏みこんだ。あとは何通来ようと返さない。彼女はあきらめずまた送信してくるだろうが、それでも知らない。こんなことをこの一週間ほど、毎日のように繰り返している。
 先月まではこうじゃなかった。光四郎は美春と付き合っているといううわさは、クラス内だけでなく学年じゅうに広まっていたが、光四郎は別にそんなつもりではなかったし、美春も否定していた。ただ、美春が光四郎にある種の好意を寄せていたのはたぶんほんとうで、光四郎も周りの同級生からそれをさんざんに言われるせいでそう感じるようにも実際なっていたが、一緒に話したり遊んだり、連絡を取り合ったりしても、あくまで友達という枠をはずれることはなかった。だから、光四郎よりも早い段階であの日の撮影に参加する予定だった美春が、「一緒に行こうよ」と光四郎を次に誘ったとき、光四郎は首を縦にした。
 あのとき、美春は花火の打ち上がっているあいだも肝試しのあいだも終始、光四郎のそばを離れなかった。帰りのバスも隣に座ったし、下車してからはふたりきりだったが何もなかった。何も……あの撮影までの美春は決してこうじゃなかった。こんなに何度もメッセージを送ってきたり、それらにいちいち返信を求めたり、光四郎がどこで何をしているか、些細なことまで尋ねたりしなかった。
 美春もおかしくなっている。
 光四郎の首を冷や汗がつたった。
 美春だけじゃない、みんなおかしくなっている。突然の自殺と病室に響きわたった奇声が何よりそれを物語っている。このままではみんな……。
 チョーカー。
 光四郎はあえてつぶやいた。歯を食いしばり、赤信号の対面で汗を流しながら自転車をとめた。何台もの車が、待ちかねたように目の前を高速で走り過ぎていった。
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