第30話

文字数 6,700文字

 あすの学校と塾の準備をしたあと、夕食を食べた。姉と父親は済ませていて、食べたのは風荷ひとりだったが、食べているあいだじゅう母親が話しかけてきた。母親は風荷の親しい友達を、学校にかぎらず塾にかぎらずほぼ全員、把握していた。そのせいか、今までだれとどこで何をしていたか、だれと一緒にマンションまで帰ってきたのかという質問に、風荷がはっきり答えないことが気になって仕方がないようで、確かに空腹だったのに食欲が失せ、風荷ははやばやと逃げるようにテーブルを離れた。明光第一の六年生の男の子とふたりで帰ってきたと聞いたら、母親がどう反応するか、見なくとも大体は分かっていた。姉はからかうだろう。父親は表向きは「そんなささいな」という顔をして、あとから陰で母親と話し合うだろう。
 家族全員の目を避け、急いでお風呂に入って、バスルームを出てからは自分の部屋に閉じこもった。
 塾の宿題をして、日記を書いた。三日間の連休の最終日。
 『あの人の名前が分かりました。……』
 しばらく風荷は夢中で書いていた。情報と発見の波間で、ていねいにつづると、この日もかなり長文になったが、最後、光四郎と一緒に帰ってきたことを記そうとすると思うようにペンが動かなくなった。顔を上げ、立てかけたバッグの隙間にのぞくブルーのウインドブレーカーを見る。
 取り出して、綺麗にたたみ直した。洗濯して返したいと思ったが、また母親の質問攻めと小言攻めに遭うのが嫌だった。それだけじゃない。
 今、この家に家族といること自体が嫌だった。どこかだれもいない場所でひとりになってみたかった。以前、夏休みに入る前、たとえば母親と一日じゅうふたりだけで行動してまったく何も思わなかった自分がふいに信じられなくなって、風荷はスマートフォンを点けた。いつの間にか時が過ぎている。ついさっきまで聞こえていたと思っていたリビングの音、母親の話し声、バスルームの物音もなくなっている。
 すぐ隣の部屋には姉がいるはずだったが、壁越しに耳をすませても何も聞こえなかった。たぶんまた電気を点けたまま寝ていて、テキストは机にひらきっぱなし、朝になって「電気代がもったいない」と怒られる。
 風荷は日記を閉じた。光四郎のことはほとんど書けなかった。
 また胸の内が回転を始める。
 ゆっくり、ゆっくり。
 風荷はスマートフォンを持って、そろりと部屋の戸を引いた。忍び足でキッチンへ来ると、廊下とのドアを閉め、コップに水を入れて飲むと少しだけすっきりした。
 しんとしたリビングへ、ため息をつく。
 疲れているのに、目が冴えていた。いつもなら自然に眠気がやってきて、葉月ほどではないが素直に横になり、寝つけないときはあるもののそれでもきちんと眠る。だがきょうはその最初の眠気がなかなか来ない。
 風荷は窓辺に寄ると、カーテンをあけた。外には暗い空が広がり、ガラスに顔を近づけると、白や黄や銀色のあかりが連なる真夜中の市街の一端が見えた。ビルに赤い点滅のふち取り。あそこだけ見ると、ちょっと都会っぽい。
 よく知った光景だったが、深夜のリビングでひとりきりで見るのははじめてだった。この時間ともなると地上の通行人はゼロに等しい。自動車が一台、二台、ヘッドライトの光を直線に放ちながら高速で走っていく。
 しばらく眺めて、ソファーとコーヒーテーブルのあいだに腰を下ろした。そこからまた窓越しに夜空を見上げ、きょうのこと、これからのことや自分の将来を漠然と思い、両膝をかかえてじっとしていた。
 ……どれくらいそうしていたか……ふいに目があいた。
 あれ? と風荷はソファーの手ざわりをふしぎに思った。いつの間にかそこに両腕を置き、突っ伏したように眠っていたようだった。ついさっきまで、夜空を見上げていたけれど……?
 あれ?
 風荷は腕のなかに埋めた顔を上げず、「いつから寝てたんだろう……?」と遠く考えながらまどろんでいたが、リビングにそのとき、だれか入ってきた気がした。
 お母さん? お父さん お姉ちゃん? ……こんなところで寝ている自分を起こすだろうと思ったが、待っていても何も起きない。音も声もしない。水を飲みに来たのか、トイレに立ったついでに来たのか……だれ……?
 気配がすぐそばに来ていた。風荷は顔を上げてだれか見ようとしたが、たとえようのない強烈な眠気に引きずりこまれて次の瞬間、意識が飛んだ。
 それが戻ったと分かったのは、自分の肩がひどく揺さぶられていたからだった。
 声がしている。うんざりしたような声。
 「起きなさい――……ほらいつまで寝てるの……まったく――……遅くまで遊び歩くから……」
 風荷は顔を上げた。すると肩に置かれていた手が離れ、それまでそこを揺さぶっていた人物が部屋を歩いていく。
 風荷は目をこすり、立ち上がった。室内には午後の熱い日差しが入り、まぶしいほどだった。
 歩いていく人物の背は、見慣れているようで知らない雰囲気のする、女性の後ろ姿。半袖シャツにエプロンを着けている。
 「お母さん……?」
 呼びかけ、よく分からずにあとを追う。女性の機嫌が悪く、彼女が怒っていることが、その背中から読める。
 女性が振り向き、また別の人物のそばに立った。その人は椅子に座ってこちらを見据えているが、やっぱり虫の居どころが良くない。いら立っている。
 「お父さん……?」
 そんな気がして言うと、両親は風荷を叱りつけた。
 「いい加減にしなさい。今、何時だと思っている」
 父が重々しい口ぶりで言った。
 「きのうはいつ帰ってきた? どこで何をしていた? 近ごろだれと付き合っている? はっきり言いなさい。毎晩、遅くに帰ってきてはこんな時間まで寝ている。うちの手伝いもしない。遊んでばかり。だらしがない。情けない……」
 「悪いお友達がいるんでしょう?」
 母が不快感をあらわに言った。
 「聞いているのよ。ヘンな男の人と一緒に歩いていたって。私は恥ずかしくて恥ずかしくて」
 「不純な付き合いは、やめなさい。ろくなことにならん」
 「ねえ、何度も言っているでしょう? お付き合いするお友達はきちんと選びなさい。ヘンな男に引っかからないよう気をつけなさいって、出かけるとき私いつも言っているでしょう?」
 「お前のためを思って話している。身内に紹介できないような男は、やめなさい。今すぐ生活を正しなさい。夜遊びはやめて、うちを手伝いなさい……」
 両親は一緒になって風荷を責めた。風荷は戸惑い、茫然とふたりがまくしたてるのを聞いていたが、やがて無性に怒りがこみ上げてきて両手をきつく握った。
 「やめて」
 テーブル越しに並ぶふたりの姿は、白くかすんで見えなかった。だが小言はやまず、風荷はもう一度「やめて」と言ったがそれはさらにするどく、激しくなる。
 素行を改めろ。わけの分からない男と付き合うな。しっかり家を手伝え。そんな娘に育てたつもりはない。
 親を泣かせるな。言うことを聞け……考え直せ。
 繰り返し繰り返し、非難の言葉が飛んでくる。受け止めるたび胸に刺さる。
 どうして? 私がまちがっているの?
 気づくと風荷は言っていた。
 「やめてよ! ふたりとも、あの人の何を知ってるの? 彼はヘンな人じゃない。彼は……」
 胸の内が回転を始める。「彼」ってだれ? 「あの人」って? 回転スピードはまたたく間に速まり、ふたりが「優子――……」と言った瞬間の衝撃が風荷を突き動かす。
 「私は彼を好きなの! 愛してるの!」
 思いきり叫んでいた。
 「私のことは私が決める!」
 言い捨て、振り向いて走りだす。部屋を抜けてドアをあけ、見えない外へ――日差しが照っている。
 暑い――……。

 風荷はがばと顔を上げた。
 目の前にソファー。
 見回すと、暗いリビング。向こうにキッチン……だが視界がぼやけている。焦点が定まらない。
 息切れしていた。そして全身が焼けるように熱い。
 風荷はかすかな声を上げた。悲鳴のようなうめくような、くぐもった浅い呼吸が合間に聞こえる。
 いつはずしたか覚えていない眼鏡が、そばに転がっていた。
 風荷はそれには目もくれず、ふらと立ち上がったがめまいを起こし、うずくまる。
 うずくまるあいだも頭のなかがいっぱいだった。渦巻く激情。だれかの――……だれのものか、知っている。
 熱い。苦しい。寒い……苦しい。なんでもいい。一刻も早く楽になりたい。
 早く――早く外へ。
 苦しい……喉もとを押さえ、風荷はコーヒーテーブルへ左手をついた。ちょうど触れてきた硬いものはいつか自分がそこへ置いたスマートフォンで、彼女はそれをつかむ反動で立ち上がり、よろめいて膝を折り、それでもただ真っすぐ外を目指して窓のロックをはずし、無我夢中にベランダへ這いずり出た。
 とたんに深夜の冷気に身を切られた。上層階なのでとりわけ風があり、空が近く、地上は離れ、点滅するビルの赤いライトが裸眼ににじんでゆらゆら揺れている。
 肩で息をし、立って風荷は落下防止の柵に指をかける。熱さと寒さと苦痛と恐怖に、泣きそうになる。
 どうしてこんなに苦しいの?
 でも、もうすぐ終わりにできる。そうすればひとりになれる。どこかだれもいない場所でひとりになれる。
 早く、早く早く――だが早く飛び出そうとあせるほど、柵にかけた指がなぜかすべった。力がこもらない。
 急いで両手でつかもうとして、気づく。左手に何か持っている。何を? これは何? 邪魔しないで……。
 放り出そうとした瞬間だった。ヘッドライトのきつい光に脳内を照らされたように、風荷は突如思い出した。
 電話。
 何かあったら電話して。
 これがその「何か」に当たることは理解できた。でも飛び下りたい。飛び下りたい。ここから落ちたい。でも……。
 風荷はずるずるとその場にへたりこんだ。柵に身をあずけ、震える指先でアプリケーションをひらく。
 うまく操作できたか分からなかった。画面を耳に当て、静止する。コールが鳴り始めたとほぼ同時に、それが切れた。
 「もしもし?」
 応答があった。
 「風荷?」
 電話越しの光四郎だった。応答が早くて、おどろいた。早すぎると思った。
 風荷は口をひらいたが訊きたい言葉が出ず、もう何度か名を呼ばれて、ようやく尋ねた。
 「今……だれかと電話してた?」
 「え? うん。今。さっき切ったけど。美春と……」
 「じゃあ、いいよ。ごめん……切るね」
 「えっ?」
 「切るね。ごめんね」
 「え、なんで?」
 「いいの。いいから。美春ちゃんと電話して」
 涙をこらえた。
 「ごめんね。じゃあ――」
 「待ってよ、風荷。待って。なんで――」
 「ばいばい」
 「待って、切るな。風荷……! 切るなよ」
 光四郎の声音は変わっていた。いつにない鬼気迫るトーンに、風荷はちょっとひるんだ。
 彼は早口に尋ねた。
 「今、どこ?」
 「家……」
 「何してるの?」
 「何も」
 「家の、どこ? 外? なんか風の音する」
 「私……ベランダにいるの」
 光四郎が息をのんだのが分かった。つかの間のあと、
 「なんで、そんなとこいるの?」
 「分かんない……私」
 「そこ、何階?」
 「分からない」
 「分からなくない。何階?」
 「分からないの。高い」
 「風荷――」
 あきらかなあせりをたたえた光四郎の吐息が聞こえた。懸命に考え、落ち着こうとしているようだった。
 風荷は涙目で言った。
 「ごめんね。上着、返せない……」
 「返せるよ」
 「返せない」
 「風荷、俺の言うとおりにして。しないと怒る。マジで。言ったことやって」
 聞いたこともない彼の強い口調に風荷は黙った。
 「家のなか、入って。そっから離れて」
 風荷は寄りかかっていた防護柵から立ち上がろうとした。だが腰が抜けているのかまったく上がらない。身体の自由が利かない。気持ちは今もこの柵の外に向いていて、そこへ行くのを望んでいた。
 風荷は消え入りそうな声で、
 「無理だよ……」
 「なんで?」
 「動けない。だって私」
 「動けるよ」
 「だめ」
 「動ける。平気だよ。俺がいるから。動けるまで待ってるから」
 わずかの沈黙をはさみ、光四郎は言った。
 「待ってるから。だから電話、切らないで……なんか話して。動けるまで」
 「話してなくちゃだめ?」
 「だめ」
 「どうして?」
 「心配だから。声、聞いてないと」
 「うん……」
 風荷は目を閉じ、柵にもたれてちぢこまった。そのとき自分がはだしだとはじめて気づいた。
 カーテンの裾が、室内に向かって揺れている。

 『さがしています』

 風荷は光四郎が最初に見つけた『尋ね人欄』の記事を思い出した。
 
 『……三十一日夕方、ボーイフレンドとドライブへ出かけて以降、どうしていますか。どこにいますか。
 父も母も怒りません。話し合いましょう。至急、鈴掛の自宅へ電話ください』

 ……『父も母も怒りません』。
 穂坂優子が両親と言い争った記憶を、自分は見たのだろうか?
 風荷は閉じたまぶたに力をこめた。テーブル越しに、自分は何を言われた? 何を言い返した?
 夢のなかは暑かった。夏の日差しだった。
 あのときは、まさかあんなことになるとは思っていなかった……。
 喉に苦しさがこみ上げ、咳きこみそうになる。
 この感覚が、きっと死んだほかの子を殺してきた。穂坂優子に殺された、というより、この許せないような耐えられないようないろんな気持ちが……自分たちの命より強くて飛び下りたくなる。飛びこみたくなる。首を絞めたくなる。高い場所から、線路へ、自分の手で――。
 「風荷」
 咳をして、息をととのていると、光四郎の声がした。
 「返事して」
 風荷は答えた。
 光四郎はうずくまったままの風荷を呼び続けた。彼は何があったのか訊かなかった。
 風荷は「うん」とか「ううん」とか、どっちつかずのはっきりしない返答を繰り返していたが、そのうち立ち上がる気力が戻ると、空を見上げた。つま先が凍ったようにつめたかった。深く息を吸って、「光四郎くん」と言った。
 「今、星が綺麗」
 「風荷……」
 「ほんと。見たら分かるよ」
 「分かったけどさ。早く――」
 「うん。部屋、戻る」
 「ほんと?」
 「うん」
 「じゃあ、戻るまで切らないで」
 光四郎のさぐるような声。信用していないらしい。
 風荷はゆっくり立ち上がり、街あかりを眺め、また空を見上げた。
 静かな夜。
 切ないっていうのは、きっとこんな気持ちのことだろう。感傷に浸るっていうのは、きっとこういうことだろう。
 「ほんとに綺麗」
 風荷はリビングへ入ると窓を閉めた。我に返ったように室内を見回して、さっきここへ入ってきたときの自分を思い出そうとしたが、うまくできなかった。
 黙って自分の部屋へ戻ると、小声に言った。
 「戻ったよ」
 「部屋?」
 「うん。自分の部屋」
 「ほんとに?」
 「ほんとだよ。ごめんね、光四郎くん」
 「ううん。いいけど……ほんとに部屋?」
 「ほんとだよ」
 風荷はちょっと笑うと、
 「光四郎くん、そればっかり」
 「だって見えないじゃん」
 「うん。でも、ほんとだよ」
 画面越しに、がさがさと音がした。
 「光四郎くんも、今、自分の部屋?」
 「うん。今、着替えてた」
 「寝ないの?」
 「まだ眠くないから。風荷は? 寝る?」
 「私は……寝られるかな」
 「怖い?」
 「ううん。でも、寝られるかな。私……私ね」
 「うん」
 「さっきので、もっとヘンになった気がする」
 「なんで? ベランダで?」
 「うん……ううん。分かんない。でも……ありがとう。止めてくれて」
 「うん」
 「でも、寝られるかな」
 「眠いの?」
 「ううん」
 「ねえ、あのさ……」
 光四郎は真面目なトーンで言った。
 「まだ寝ないなら、寝るまで切らないで。俺もそうするから」
 風荷はベッドに座ると、逡巡する顔つきをして、「うん」と答えた。
 「上着、次に会ったとき返すね」
 「うん。いつでもいいよ、別に」
 「光四郎くんは、こうやって夜に電話する? 長い時間」
 「だれと?」
 「だれでも。友達。だれか……女の子とか」
 「うん。たまに」
 「そっか。私、はじめて」
 そして、きょうの日記を書き足そうと決めた。どんなに書きづらくても、正直に書く。
 たとえば今、自分の奥深くが嫉妬したこと。夢のこと。光四郎のこと……。
 「風荷……。風荷? 聞こえてる?」
 「うん。聞こえてる。今、考えてた」
 「何を?」
 「秘密。……チョーカーを見つけなきゃってこと……」
 「ほんと?」
 風荷はほんのり笑った。しびれるような甘い切なさが、胸いっぱいにしみた。
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