第39話

文字数 6,824文字

【発見】

 翌日午前、襄一氏は泉と約束したとおり四人の待つ駅前ロータリーへ現れ、一般車専用スペースに乗りつけた。前日の夜、仕事を終えたらしい襄一氏から電話がかかり、待ち合わせの詳細を決めていた。
 きのうとは別の白い乗用車の運転席から襄一氏は手を振り、降りて笑顔を見せた。スーツに作業着姿ではなく、シンプルな襟付きのシャツにスラックスというさっぱりした身なりで、さらに人の良さそうな人物に見えた。
 襄一氏は、初対面の自分が突然に四人を連れていくのはそれぞれの親御さんにとって不安ではないかと非常に心配して、泉の母親か義父とも通話したがった。だがそれは困るので、泉は一生懸命に頭を使いどうにか襄一氏を言いくるめ、大変だったが最終的には納得してもらった。遅くならないうちにもとの駅まで送り届ける、という約束で。もちろん四人は各々に知恵を絞ってウソをつき、鈴掛へ行くことなどおくびにも出さず家を出ているが、ようはバレなければいいのだった。なんならバレようがかまわない気持ちでもあった。
 天気は回復し、雲間に青空がのぞいていた。
 「レディー・ファーストにしようか?」
 緊張をやわらげるように、襄一氏はどぎまぎする風荷へ助手席のドアをあけてやり、後部座席のドアも一緒にあけ、葉月と泉と光四郎を乗せた。日常使いというセダンで、座席はとてもしっかりした造りで、アルファベットの「L」がエンブレムにあったので光四郎はすぐピンと来た。前日の業務用車とは、座り心地もまるでちがった。
 「きのうは、ほんとにびっくりしたよ」
 発進させていくらか経ち、襄一氏は言った。
 「帰って、奥さんにも話してねえ。ふたりでまた、びっくりしてね……こんなことがあるのかと。……」
 襄一氏には妻とのあいだに子供がふたりいて、そのふたりはすでに成人して巣立ち、ひとりは結婚して家庭を持っている。氏は還暦をいくつか過ぎているものの、自分が元気だから、今も現役で仕事を続けているという。
 突如として顔も名も知らない小学生四人に亡くなった妹のことを尋ねられ、その動揺は並ではなかっただろうに、きのうのきょうで彼らを鈴掛まで案内してくれるのだから、真実、襄一氏は優しい人と思われた。生活に余裕があるのか人柄か、多少のことには動じないようなどっしりとした感じがあって、口調もなめらかであたたかく、四人にも話しやすかった。
 市街地を出るのに、そう時間はかからなかった。やはり車のほうがバスより断然早い。週末の午前ということもあってか道路もすいている。そのあいだ、襄一氏は四人に日ごろの学校生活について尋ねたり、前日に泉から聞いた例の鈴掛の花火大会で起きたこと、以来見るようになったという夢について、それとなく尋ねたりした。
 「最初に優子さんのチョーカーをさがそうって言ったのは、はーくん――葉月でした」
 と、主には泉が答え、葉月と光四郎と風荷は都度、言える範囲の補足を加えた。襄一氏はそのたび信じがたいといった顔でほうと驚嘆の息をつき、四人をうかがい、少しでも理解しようと努めるように問いを重ねた。
 「けれども……けれども、すごいねえ。その夢に見ていたという女の人が、なぜうちの優子と知れたの? 何も知らないうちから、図書館で調べたの?」
 「あ、それは……えっと、そうじゃなくて」
 「泉くん。……あの、それは私が先に調べたんです」
 口ごもりながら風荷が言った。
 「葉月くんの見た夢を頼りに、お寺のお墓をひとつずつ見ていって、若いうちに亡くなった女の人をできるかぎり、さがしたんです。優子さんのことはそのとき、見つけました。もしかしたらこの人かもしれないって、その、お墓に書いてあった名前と年齢を見て……」
 風荷は赤くなった。
 「ごめんなさい。勝手に……」
 「いや、いや。いいんだよ。僕なんか最近、すっかり足が遠のいていたから。ご先祖様に申し訳が立たないよ。それじゃお墓にあった優子の名前から、図書館であの子のことを調べてくれたんだね」
 「はい」
 「あんな古い記事が、よく見つかったもんだよ。取ってあるとは思わなかった」
 「はい。でも、古いものは予約しないと閲覧できなかったです。だから予約して、たくさん……たくさん調べました……」
 その際のあの一大苦労を風荷は言わなかったが、襄一氏は察したようだった。穂坂優子の失踪から遺体の発見に至るまでの一連の記事を、ほとんどその穂坂優子という名前と享年のみを手がかりにさがし当てた四人の根性と執念に、襄一氏は圧倒されたようにまたひとつ、息を吐く。
 夢に見るとはいえよくまあ、そこまで……という困惑の色も折々、表情ににじんでいた。穂坂優子の影響によって自分たちがどれだけの目に遭ってきたか、どんな死や悲劇があったかを四人は言わなかったので、その鬼気迫る異様な必死さに襄一氏がうろたえ、戸惑うのも仕方ない。
 「きのうの午後は、仕事があんまり手につかなくなっちゃってね」
 信号待ちの静寂で、襄一氏はふいに言った。
 「お客さんには申し訳なかったけどね……早めに上がって、帰りにもう一度、あのトンネルを通ったよ。それで当時のことをいろいろ思い出してね……一時期は、どうにか考えんようにしていたときもあったけど……うちへ帰ってから切り抜きをさがして、引っ張り出してね。じっくり読み返してまた、思い出した。……」
 景色は郊外から次第に田舎のそれへと変わっていた。
 ひと言ものがすまいと、四人は耳をかたむける。
 「あの子が死んだのは、僕が東京の大学を出て最初にはたらき始めたばかりの年でね。鈴掛のうちには住んでいなくて、そこには優子と両親が暮らしていた。……両親はあの子に手を焼いていてね。しょっちゅう、うちをあけては夜遅く、時には朝まで帰らないから、困っていたんだね。……そんなときだね……あの子が行方不明になったのは。あのときは、まさかあんなことになるとは考えもしなかったから、僕は……だから行かせちゃったんだけれども……ほんとうにね……行かせなきゃよかった。止めていればよかったと思うよ。あのとき……。
 ……あの日……7月の最後の日だった。暑くてねえ……僕はたまたま、前日から実家に帰省していてね。その年の正月以来、半年ぶりで会ったんだった。あの子に……」
 風荷の脳裏に、あざやかによみがえる映像があった。
 両親に叱られ、飛び出した屋外。確かに暑かった。暑い日だった。
 襄一氏から目を離せず、じっと見つめて聞き入る。
 「あの子に……なんて言えばいいかな……当時、好きな人がいたということや、普段どんな人と付き合っていたかということは、僕はほとんど知らなくてね。あの子の交友関係は、僕も両親もよく知らなかった。僕自身、仕事に一生懸命で連絡を取っていなかったというのもあるし、両親にはあの子もなかなか話そうとしなかった。言いたくなかったんだろうねえ、まだ若かったから。
 ……だから……知らなくてね。優子を死なせた人の名前も、顔も……見たことがなかった。僕も両親も、面識がなかったからね。だけども、やっぱり一緒に暮らしているから、両親は知らないなりにとても心配してた。どうも悪い人と付き合いがあるらしいなんて、僕んとこに電話かけてきたりしてね……うちの近所まで車で乗りつけてきて、あの子を迎えに来たりしてたそうでね。なんだかこう、ヤンキーみたいな格好でね。サングラスかけて……どう言ったらいいか……今の子らには、ちょっと想像のつかん感じかもしれんね。
 ……せめて名前だけでもね、あの子に訊いておくんだった……そしたら……ボーイフレンドというほか何も知らないんじゃ、さがすにさがせない。当時はそれでも、どうにかと思って、あの子の周りの人にいろいろ訊いて回ったりしたけども分からなかった。自供を聞いてようやく本人を知ってね。ああこの人が優子を……と思ってね……」
 言葉を選ぶように慎重な間をおきつつ、襄一氏はやりきれない笑みを浮かべていた。
 「僕よりいくつか年が上の、後ろ暗いことをたくさん、かかえていた人だった。お金はいっぱい持っていたけども、どれも綺麗なお金じゃないような……言ってしまえば、悪い奴だったんだね。けどもあの子にとっては、そうじゃなかった。恋人として、好きで付き合っていたくらいだから……街で遊んでいたあの子に偶然出会って、そっから交際するようになったと本人は話したそうだけどもね。取り調べで」
 「あの……」
 遠慮がちに泉が言った。
 「その人、優子さんの……松原計という人は、逮捕されたあと、今は……」
 「それがねえ。あの人は……」
 襄一氏はやんわり答えた。
 「服役して数年のうちに、病気で死んでしまってね。麻薬だのなんだの、いろんなものに手を出していたせいで、逮捕されたときにはすでに内臓がめちゃめちゃだったそうでね。どうせ死んじゃうんだからってことで、優子の件についても認める気になったんじゃないかなと僕は思ったんだけれども……実際どうだったかは分からないね。死んじゃったら話も何もできないから……だから、あの人のことは、僕は裁判のときに一度、見たきりになっちゃってね。かといって直接話ができたのだとしても、僕がどうしたかは分からないけども……どうだろうね。話せなかったかもしれんねえ。とても……」
 心中を察そうと、泉がうなずく。
 犯人の松原計は服役中に獄死していたことが分かった。麻薬所持等の別件で、すでに逮捕されていた松原計が穂坂優子の殺害および死体遺棄を自供したのは1984年7月のこと。そこから数年のうちに死んだのであれば、その死ももはや三十年以上前の話になる。
 いくらかの沈黙のあと、襄一氏は言葉を継いだ。
 「妹が。……あの子がなぜだってああいう人に惹かれたんだか、僕には最後まで分からなかったねえ。今、こうして時が過ぎて久しぶりで考えてみても、やっぱり……なんとも。女性の心はむつかしいのかな。あの子とは、たくさん話をしてきたつもりだったのだけど……僕が東京へ出るまでは、ほんとによく話してね。こんな話、興味がなかったらごめんね。……」
 風荷はとっさにかぶりを振った。
 「そんなことない、です。私、あの……知りたかったから。すごく。優子さんのこと。だから……」
 襄一氏はかすかに笑って、ハンドルを切る。
 「ありがとうね。……うちは、死んだ両親がふたりとも厳しい人たちだったから、そのぶんあの子は小さいときから、親より僕のほうになついてね。僕もそれがうれしくてね。よく面倒を見た……おてんばでねえ。いつも叱られては泣くんだけども、懲りなくてね。けれども明るくてね……うん。いい子だった……きょうだいが、ほかに僕しかいなかったせいもあるのかもしれないけども、ほんとうに慕ってくれてね……僕が大学に入るってことで、東京に行くのが決まったときはずいぶん嫌がって泣いてくれたっけねえ……兄さんは私をおいていくのかと……あのときは……うん……まったくね、どうも……思い出すとキリがないけども……いい妹だった。僕には……あのころ僕にとっては……なんと言うかね、だれより……親以上に――……」
 襄一氏は先を言わず、黙った。独白のような響きが途絶え、ふたたびカーブが来る。
 葉月は続きがとても気になった。なぜか知りたくてたまらない衝動が胸に突き上げ、慌てて尋ねようと身を乗り出したが、「葉月」と小声に、光四郎に制された。光四郎は光四郎で、訊いてはいけないような気が本能的にしたのだった。なぜかは分からなかったが……。
 葉月は仕方なく身を戻し、それでもやっぱり先を聞きたいと思いながら、不承不承に山あいの緑を眺める。
 泉は背筋を伸ばしていた。唇を引き結び、真剣な顔をしていた。
 カーブを過ぎ、下り坂も過ぎて速度がゆるむと、襄一氏はふたたび言葉を始めた。
 「あの日は、僕は昼のあいだ出かけていて、夕方帰ってくるとあの子が両親と言い合いをしていてね。だからなかに入らず、しばらく外にいたんだけども……やがてあの子が玄関を飛び出してきてね。僕を見ると、またなかへ戻った。それからもう一度出てきたと思ったら、今度はなんだか急いでいてね。さっきは起きたばかりみたいな顔をしてたのが、もうそのときはすっかり出かけるしたくがしてあった。
 僕はどこへ行くのかと尋ねてね……ボーイフレンドとドライブへ行くとあの子が言ったのは、そのときだった。親とのあんな言い合いのあとで、僕はやめたほうがいいじゃないかと一度は止めたんだけども……あの子は笑って、聞いてくれなかった。そんなら兄さんも来たらいい、なんて言われてね。僕が困っているうちに、駆けだして、それきり……その後ろ姿が、僕が生きているあの子を見た最後だった。……当時は……戻れるのならあのときに戻りたいと何度思ったか知れんね。なぜ止めてやれなかったのかと。あのとき、僕が……」
 風荷は胸中をわしづかみにされた気持ちがした。眉尻を下げ、大きくした目をそっと伏せた。
 襄一氏はふと思い当たったように、「ああ……」と声を変えた。
 「きみたちがあの井戸のあたりをさがしていたのは、そこにあの子のチョーカーが落ちているかもしれない、と考えてくれたからだね?」
 だれも答えない一瞬の間のあと、我に返ったように「そうです」と泉が言った。
 「きっと、ないと思ったんですけど……」
 「でも、念のためと思ってくれたのかな」
 「はい」
 「いや、ありがとう。大変だっただろうにね、あんな雨のなか……僕はきみらに会って、ほんとうに久しぶりであの子のチョーカーのことを聞いてね。あのときはただただ、もうびっくりするだけだったんだけども、それからあらためて考えてみてね。それで、僕の記憶が正しければなんだけども……何せ古いことだから……」
 襄一氏はゆっくりと言った。
 「あの日、優子が最後に出かけたとき……あの子はチョーカーを着けていなかったと思うんだよ」
 ぴくっと葉月が反応した。
 風荷が伏せていた目を上げる。
 着けていなかった……?
 「そうなんですか?」
 横顔に襄一氏は肯定した。
 「そうだね、何度思い出してみても、やっぱり……うん。着けていなかった。僕がうちを出てきたあの子を最後に見たとき、あの子は遺体で見つかったのと同じ柄の服を着ていたけれども、首には何もなかったと思うよ。それに身体が井戸から上がったあと、服や靴なんかはもうなんもかも腐ってね、ほとんど残っていなかったけれども、その残ったもんのなかにもチョーカーはなかった気がするねえ。僕は当時あの子の所持品を警察から返されて、それを全部よく見たんだけども」
 「だから、さがしてるんだ」
 葉月だった。
 「そう思う。きっとそうです。あの……あのとき急いでた。急いでて、忘れて……だからさがしてる。だから……」
 泉が取りなすように、
 「まだ家にあると思いますか? そのとき、優子さんが着けてなかったなら」
 「そうだねえ……約束はできないけど、あるんじゃないかと思ってるけどもね。ただ……」
 声音に後悔を含ませ、襄一氏は言った。
 「数年前に母が他界したとき、一度、大きな片づけをしてね。要らないもんは大概、処分しちゃったんだけれども……あの子が使ってた家具や、すぐに捨てられない大きなもんはそのとき、まとめて蔵のなかに移してね。だから、そのなかにあればいいんだけど……まちがって捨てていなければ……遺品はよっぽど取ってあったと思うんだけどねえ。僕も、妹のものはちゃんと整理できないまま、ここまで来ちゃったもんだから……」
 葉月は外の景色へ目を戻し、移ろう木々を真顔に見つめた。
 だから、さがしてる。だからさがしてる……頭のなかに繰り返し響くのを、自分で聞いていた。
 あのとき。着けていると思って出かけたら、そうじゃなかった……それきり、うしなっている。兄さんがくれた……だからさがしてる。だから……。
 「お守り」だったのに。
 葉月は唇をかんだ。
 うずくような小さな痛みを感じる。
 だから、さがしてる……。
 山の色はすでに夏ではなく、紅葉を待っていた。きのうの雨の影響か、川の水が増えて流れがある。
 後続していた大型バイクに襄一氏は先を譲った。ヘルメットをかぶったライダーが追い抜きざま、こちらに見えるよう左手を出して礼を示す。高まるエンジン音が遠ざかる。
 車内は静かになった。「そろそろだよ」と襄一氏が言ったとき、あの花火大会の会場となった河川敷が、カーブの先に四人の目に入ってきた。だんだんと見慣れてきている。何度目かの鈴掛の町。
 風鈴の音をどこからか、葉月は耳に留めた気がして言った。
 「あの……ちょっとだけ窓をあけてもいいですか?」
 「もちろん」
 さわやかな山の匂いが吹きこむ。
 襄一氏はスピードを落とした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み