第6話

文字数 4,959文字

 翌日、時刻はすでに午前零時を回っていたが彼は起きていた。彼女から聞いた妙な話を葉月へすることはまだできておらず、そもそも話すべきかどうか迷っていた。
 机上にはやりかけの宿題が無造作にページをあけている。彼は窓辺から通りの向かいの葉月の家へと目をやったが、葉月の部屋の電気は消えていた。
 眠れているだろうか。彼は表情を暗くし、ため息をついた。なんとも取れない嫌な予感がしていた。そう何度も同じ内容の夢ばかり見るわけがない、その人間が健康であれば……電話での葉月のようすは普段と変わらないようでいてどこかちがっていた。きのうコーヒーショップで彼女から聞いた話も引っかかる、彼女は何も知らないようだったがそれはひょっとすると、例の動画を彼女は「見ていない」ということが関係しているのではないか……?
 脈絡のない予感だった。そしてそれはあり得そうにもない推測だったが、しかし仮にそうだとしたらどうなるだろう? しかし、そんなバカな。
 彼は自分に言い聞かせた。そんなことが……考えすぎている、きっと……。
 カーテンの閉じた葉月の部屋の窓を見つめていると、部屋のドアがノックされた。
 彼は反射で尋ねた。
 「母さん?」
 義父のことは呼び慣れなかった。返答はなかったが彼は窓を離れ、ドアをあけた。
 「何?」
 立っていたのはやはり母親だった。今年に入って彼はまた背が伸び、母親との目線は今ではほぼ同じ高さにある。
 こんな時間にドアがノックされるのはめずらしかった。すでに眠っていたところを、義父との寝室から出てきたのだと彼は思って尋ねた。
 「もう寝てたんじゃないの? どしたの」
 パジャマ姿の母親はにこりと笑った。そして唐突に尋ねた。
 「チョーカーがどこにあるか、知らない?」
 「――え?」
 「チョーカーがどこにあるか、知らない?」
 彼はあぜんとして母親を見つめた。だが母親はいつもどおりの笑顔を保ったまま、にこにことまた尋ねた。
 「チョーカーがどこにあるか、知らない?」
 「母さん」
 「知らない?」
 「ねえ――」
 「知らない?」
 直感的な恐怖が彼を満たした。次に本能が彼へ警告した、「離れろ。これは母親ではない」。だがその姿形はまちがいなく彼の知る母親だった。彼は無言にためらったが、母親は自身の喉もとを指差すとがくんと首をかしげにこにこと壊れたように繰り返した。
 「知らない? 知らない? 知らない?」
 その声音、そのようすはすでに母親ではなかった。それは「母親のような何か」だった。
 「ねえー、知らない? 知らない? 知らない?」
 「知らないよ……知らない」
 彼は震え声に答えた。だがそれは止まらない。
 「ねえー、知らない? ねえー、ねえー、ねえー、知らない?」
 「知らない、知らない!」
 「ねえー、ねえー、ねえー」
 そのとき彼の眼前で首がぱくっと裂けた。真一文字のその裂け目は笑った口のような形に上下にひらくと、ぶしゅっと鈍い音を立て、彼の顔めがけ大量の血を噴出した。人肌のものが彼にかかった。
 「知らない? 知らない? チョーカー知らない?」
 それは赤いしぶきをまき散らしながら彼へと手を伸ばした。部屋へ入ろうとしている。
 「ひっ……」
 声にならない悲鳴を上げ彼は叫んだ。
 「やめて!」
 ドアを閉めようとするが血で濡れた目に、前が見えない。夢中にノブをつかんで引いた。
 「ねえー、知らない? 知らない?」
 閉めたドアの向こうで声がする。もはや母親のものとは似ても似つかない何かの声、何か分からない。それは激しくドアを叩き始めた。ドンドンドンドンとこぶしを打ちつける音。間隔は次第に短く、強さを増していく。
 「知らない? 知らない? 知らない? 知らない?」
 懸命に目をこすり、両手をノブにかけ押さえた。
 「あけてー、あけてー、あけてー」
 ドンドンドンドンと叩かれる。ドア越しに振動が伝わる。渾身の力でノブをつかんでいた彼のおぼろげな視界が自身の足もとをとらえた。
 「ねえー、ねえー、ねえー!」
 そこに赤黒い血だまりが、そしてそのなかにおびただしい数の白濁したウジ虫がうごめいているのを見た瞬間、彼の意識は途切れた。
 「知らない? 知らない? チョーカー知らない? ……」
 耳に何度もこだましていた。
 気づくと彼はベッドに仰向いて横たわり、はあはあとこの上なく荒い呼吸をしていた。
 まず顔に手をやった。その手を天井にかざすと、何の変哲もない見慣れた自分のてのひらだった。濡れていないしよごれていない。あれだけの血を浴びたのに、あの母親じみた、しかし母親ではない何かの鮮血。人の体温ほどの生ぬるい感覚がまだ身体じゅうに残っている、まるで噴水のようだった……彼はかざした手で顔を覆った。
 しばらくそのまま動けなかった。どんなに吸っても息がしづらく、しばらく苦しんだが、そうか、夢だったのだと理解できるようになってからは急速に収まった。上体を起こしかけると窓から薄い白光が差しこんでいる。スマートフォンの画面をつけると、明け方。母親の姿をした何かの首が裂けていく映像は、覚醒と同時におぼろにはなったが、しかしあまりに強烈だった。虫のたぐいは苦手だった。夢とはいえ、あの光景を目の当たりにしてよく失神程度で済んだと思う。記憶に起こそうとすると鼓動が速まる。
 茫然と時刻を見つめていると、ふいにドアがノックされた。控えめなノックだった。彼ははっとそちらを見やり、硬直した。母親の声がする。
 「泉? ……泉? だいじょうぶ?」
 彼がドアを凝視したまま答えずいると、
 「入るよー?」
 ノブが動く。
 「やめろ!」
 彼は蒼白になり叫んだ。
 「入るな!」
 「ちょっと、どうしたの? もう……」
 がちゃんとドアがひらかれ、彼の呼吸が止まりかける。
 あいたドアの先に、心配そうな顔をした母親が立っていた。先刻と同じパジャマを着て、無傷の喉を襟のあいだにのぞかせている。寝癖に茶髪が乱れている。今しがた起きた、もしくは起こされたらしい。
 うなされていたみたいだったからと母親は彼へ言った。そして恐ろしいものを見る目つきに、ベッドからこちらを見つめている息子をけげんそうにうかがい、小首をかしげ尋ねた。
 「怖い夢でも見たの?」
 彼は目をそらした。今はこの人と話したくない。訊かないでほしいという気持ちがこみあげた。
 「なんでもないよ。なんでも」
 「ほんとう? だってこっちまで聞こえたよ、何か叫んでた?」
 「ごめん。なんでもないってば、ほんとに……なんでも……気にしないで」
 先刻の凄まじいイメージと現在の母親の姿が重なり、彼はそらした視線をもとに戻せなかった。ふたたびひとりになったとき、彼は葉月の言う「親に話したくない」という感覚、あるいはきのうクラスメイトの彼女が言っていたところの「怖い夢の内容を話したがらない友人たち」の心境が分かった気がした。確かにそうだった、話したくない。口に出すと、まるで夢に見たことよりも恐ろしい何かが起きるように思える。……そしてもっと現実的に考えるなら、たとえば親に話したとしておそらく無駄骨に終わる。それではきっと何の解決にもならない、これは……。葉月が見たという夢の内容と、自分が見たばかりの内容はかなりちがっていた。だが母親の姿をした何か――知らない女性が――「チョーカーをさがしている」という部分は一致している。しかし別々に見た夢の中身にそんな一致があるという時点でもうおかしい。普通じゃない。
 同じ夢が広がっている? 彼は努力して頭をはたらかせた。それか同じでなくとも、似たような主旨の夢が広がっている……伝染している? きのう店で彼女が話した、彼女の友人数名が見たという怖い夢、それらもやはり……? 彼はスマートフォンをつかんだ。動画投稿サイトをひらき視聴履歴からタイトルをたどったが、すぐさま動揺の息をついた。
 「消されてる……」
 数日前までは確かに視聴できたはずのその動画、『肝試しのはずが途中からパーティーに……!?』……それはすでに視聴不可となっていた。投稿者によって削除されたようだった。運営側から注意を受けたか、第三者から通報されたか投稿者自身が削除したくなったのか、それなりに過激と言っていい内容の動画だったから、それらのうちどれかが当たっている可能性は高いが真意は不明。投稿者の少年と直接連絡が取れたら話を聞けるのだが、しかし彼はその少年とは面識がなかった。動画投稿サイトには当人へつながるメールアドレスやSNS等のURLも見当たらず、足がかりがない。会ってみようにも通っている小学校が分からない。市内の小学生ということのほかは何も知らない。市内と言ってもこの市は東京二十三区よりも広く、点在する小学校の数は規模の差こそあれ少なくなかった。撮影隊のメンバーであった葉月なら、名前くらい聞いて覚えているだろうか。
 そろそろ限界だった。すっかり考え疲れ彼はベッドに倒れた。夢も見ず眠ったが、目にはクマができていた。

 数時間後、ふたたび起き出した彼は寝ぼけまなこに、ほとんど習慣のようにスマートフォンを手にしたが、ニュースアプリから入ってきた地域情報、そのヘッドラインを見るなり一気に目がさめ、がばと身を起こした。しわくちゃのシーツにあぐらをかき、その短い記事をひと息に読んだ。それによると本日未明、彼がおとずれたばかりのショッピングビルからいくらも離れていない、駅のそばのマンションの高層階のベランダから男児が転落、即死した。通りがかった人が発見した。男児は小学五年生、家族の証言では転落したと思われる時間帯は自室で就寝していた。事故または自殺の線も含め警察が捜査を進めている。……「就寝していた」?
 彼はのろりとベッドを下り、冷めやらぬ動揺を鎮めようとしながら部屋のドアをあけた。階下から物音がしている。母親と義父はまだ家にいるらしい。
 週明け、月曜日。朝の全国ニュースがテレビから流れていた。夏休み中にもかかわらず彼の起きてくるのがだいぶ早いことに母親と義父がおどろいている。そしてその顔色がすぐれないことにも。
 朝食を口にする気には無論なれず、身体はだるいがベッドへ戻る気にもなれなかった。座ってぼんやりテレビを眺めていると、折しも画面が切り替わった。速報だという。
 「えー、今入ってきた情報です……」
 手もとの原稿を見下ろした男性キャスターが言った。
 「先ほど午前七時過ぎ、JR東日本……」
 画面に大写しとなっているのは東京のどこかの駅舎で、通勤ラッシュとかち合っているのか人でごった返しているホームに、ブルーシート、警察の制服がちらばり、救急隊員の姿もある。
 キャスターの読み上げが進むごとに、彼の表情はみるみる変わっていった。
 「えー、繰り返します。小学生の女の子が先ほど午前七時過ぎ、現在画面に映っております駅のホームへと進入してきた電車に接触、電車は減速していましたが間に合わずひかれたということです。これにより一部の路線が運転を見合わせており、運行再開は現時点では未定、朝のラッシュということもあり現場は大変に混雑しているということです。……えー、ひかれた女の子は小学生、紫色のランドセルに白い帽子をかぶってひとりで歩いている姿が駅構内で目撃されておりましたが、現在こちらに入っております情報によりますと、女の子はひかれる少し前、ホームにいた駅員に『さがしものがある』、『さがしているものがある』と繰り返しうったえていたようで、その後間もなく女の子は進入してきた電車にひかれたということですが関連は不明です……現場は東京都……」
 彼は食い入るように画面を見つめていた。映像がスタジオのキャスターへ戻るとスマートフォンを手にメッセージアプリをひらき、はやる思いで葉月とのタイムラインを表示させたがそれももどかしくなり立ち上がった。母親と義父には黙ってリビングを出た。
 電話をかけるつもりだった。少々朝が早いが出るまでかけよう、そうしなくてはならない。そして一刻も早く葉月へ伝えなくてはならない。落ち着いて考えなければ。
 何かがおかしい。
 彼は画面を耳に当てた。コール音が響く。
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