第26話

文字数 6,447文字

 きょうのために寝ておこうと思ったものの、結局はまどろみを繰り返しながらのショートスリープで明け方になった。合間にスマートフォンで動画を見たりゲームをしたり、つまりこのごろの睡眠スタイルとほぼ変わらない。
 その寝不足の頭で自転車を飛ばした光四郎が、まず一番乗りで開館直前の図書館をかかえたビルへ着いた。曇り空で肌寒く、ブルーのウインドブレーカーを着て、足には履き慣れたスニーカー。サッカーはサボるのに早朝から起きてさっさと着替えた息子を見て、母親は奥歯に物がはさまったような、けげんな顔をしていた。
 日曜日のこの時間帯は地下の駐車場も駐輪場もがら空きだった。駅前の人通りも、国道を過ぎていく自動車の数もまだ少ない。
 五分ほどして駅舎に新たな電車が滑りこみ、そのさらに数分後、風荷が来た。白いブラウスにグレーのスカート。前日とちがって彼女の小さな変化に光四郎はすぐ気づいた。だが口には出せず、代わりに笑顔で言った。
 「おはよ」
 「おはよう、光四郎くん。きょうは一番だね」
 風荷も笑顔を返した。
 さらに数分後、最後に葉月と泉が歩いてきた。葉月は少々サイズの大きすぎる無地の長袖、泉は襟付きのシャツのボタンを上まで留めていた。宣言どおり目もとをあわくきらめかせ、その色味は光四郎のウインドブレーカーと似ていた。
 泉は行きがけに葉月へ語ったのと同じ内容、前夜のリサーチで得た結果を光四郎と風荷にも話したが、「彼女」との接触についてはだれにも黙っていた。いつ「彼女」の力にやられるか分からないリスクは全員が承知している。
重要なのは「彼女」に危うく取り殺されそうになったことを怖がるのではなく、特に79年と82年の二年間に発生した主な殺人事件に、少なくともネット上で簡単に検索できる一覧には「彼女」を示すと思われるものは見つからなかったということ。それを踏まえたうえで、注意深く記事をあさるべきということ。
 四人集まると、おのずと緊張が高まっていくのが互いに読み取れた。泉の努力と結果を知ってなおさらそれは強くなり、どの目をのぞいても同じことを言っていた。皆、本気だった。
 やるしかない。
 時計を見て、冷風に髪を揺らした葉月が言った。
 「早く行こう」

 開館と同時に総合受付の前を通ったのは、四人のほかには帽子をかぶった高齢の男性が数人と、小さな男の子を連れたその母親らしい女性だけだった。さすがに朝が早いのだろうが、こんなにひと気がないのもめずらしい。
 女性職員に訊いて確認していたとおり、四人はまずきのう利用したのと同じフロアまでエレベーターで上がった。するとやはり前日と同じ女性職員がカウンターにいて、「ずいぶん早いな」という顔をあからさまにしたが、一分の時間も惜しい葉月が三人を引き連れ、足早にカウンターへ直行した。
 「きのう、友達が予約しました。古い記事を見たくて」
 葉月が言うと、女性は「はいはい」と答えてパソコンを操作し、バインダーをめくった。どう見てもこちらの目的を、学校の調べ学習か何かと思っているような手つきだった。
 「じゃあ使い方を説明しますね。注意事項なんかがいくつかあるので……」
 五分ほど説明を受けた。最後に、保管室の立ち入りを証明するための利用表に四人ぶんの氏名を記入し、葉月が礼を言ってから、さらに上階へとエスカレーターで向かう。そこには新聞だけでなく、各ジャンルの古書や貴重な資料等を集めたスペースもあるらしく、そちらには出入り口のドアにロックがかかっていて、専門の司書の同行がなくては入れないという。「そっちの利用はないですよね?」と、女性は葉月に何度も確認していた。
 保管室は下の階とさして変わらないレイアウトの、無機質なようすだった。ただ常駐の職員がいないので、そのためのカウンターやその他もろもろに割いていたスペースが丸ごともうひとつの部屋になっていて、その小部屋のドアの向こうに薄暗い書棚がぎっしり並んでいる。あそこがおそらく、司書がいないと入れない特別エリアだろう。
 四人はそちらにはほとんど目もくれなかった。目指す左側のエリアには前日とよく似た光景がすでに彼らを待っていて、そこは音もなくひっそりと、まるで空気が止まっている。壁の上部に大きな丸時計。閲覧台とデスクトップパソコンの数は下の階より少ないが、屹立する書架の数では負けていない。むしろ多いかもしれない。これらの書架には県下で発行されてきた地域紙、そのありとあらゆる朝刊や夕刊が時代とともに詰まっている。紙媒体については、デジタルアーカイブからのみ閲覧可能な全国紙をのぞき、直近三十年間の記録はここにはない。
 そのせいか、人の出入りが少ないせいか。時をさかのぼる古本屋のような香りがあたりいっぱいに充満していた。
 「おばあちゃん()の匂い」と葉月は言った。風荷もそう思った。
 始める前に、四人は閲覧台に集まった。
 情報をもう一度整理するためだった。的はずれなさがし方をしている余裕はない。
 風荷のノートがひらいてあり、そこにはおととい、秋分の日に鈴掛の例の墓地で風荷が調べ上げた、「彼女」となり得る五人の候補者リストがある。その享年と没年あるいは没年月日は、あらためて上から、

 享年19 没年1934年(昭和9年)
 享年34 没年月日1955年10月21日(昭和30年10月21日)
 享年25 没年1979年(昭和54年)
 享年21 没年1982年(昭和57年)
 享年27 没年月日1999年7月6日(平成11年7月6日)

 このうち、はじめの話し合いと推測から、34年のヤエと55年のちづ子の優先順位は最下位としている。
 また、99年の伊織についてはきのうの調査によって、その没年月の記事にこれというヒットが見られなかったことからひとまず除外となった。
 残るは79年と82年の二名。どちらも没年月日が不明なので、伊織のように月単位ではなく、年間で記事をさがしていく必要がある。が、どちらの年に関しても、その年のもっとも衝撃的な殺人事件として当時、全国で取り上げられたと思われるケースのなかには、泉が昨夜チェックしたかぎり、ネット上に該当はない。
 だからこそ、どの発行元の記事でも、漏れなくあるだけ、くまなくさらったほうがいい。全国、地域、あるいはさらに狭域のもの。
 ほんとうに「彼女」が、このふたつの年のどこかの時点で殺害されているのなら。
 ちょうど四人なので、振り分けがしやすかった。各自めどがつけばほかを手伝ったり、疲れたら交代したりというのを前提に、79年の地域紙を葉月、デジタル版の全国紙を風荷。同じく、82年の地域紙を光四郎。全国紙を泉。これで二年ぶんを一気に始められる。それだけひとり当たりの負担は大きくなるが……。
 「頑張ろ、みんな」
 首のボタンに触れ、ブルーの目尻をした泉が言うと、四人の表情にかたい決意が現れた。
 「だいじょうぶ」
 葉月が言った。
 「絶対見つかる」

 長方形の閲覧台を丸々ひとりで陣取り、前後に葉月と光四郎はそれぞれファイルというファイルを積み上げ、中身の三面を片っ端からチェックしていた。折々、書架と台とを行き来し、あるいは移動の時間ももったいなくなると、通路に立ったままで読んだ。スクラップされている記事はどれもクリアシートで覆われており、閲覧者が素手で触れられないようになっている。取り出してさわることは厳禁だと、階下の女性職員にも言われた。
 地域紙は全部で五種類あり、これは県内を大きく五つに区切り、区切ったそのエリアごとに一紙が発行されている――あるいは発行されていた、という意味らしい。五紙のうち二紙までが現在では廃刊になっているが、三十年以上前にはまだ勢いもあって、生きていた。これらはきのうの時点で分かっている。
 一方、やや離れた壁際に隣り合う二台のパソコンには泉と風荷が、並んで画面と向き合っていた。まばたきを忘れて見出しを追っていると目が乾き、思い出してまばたきする。経済新聞と名の付くものは除外し、全国紙は三種類。風荷ははじめデジタルアーカイブから検索する操作に手間取ったが、すぐに慣れた。ひたすら記事を表示させ、三面をスクロールしていく。
 無言の時のほうがずっと長かったが、四人はたまに口をひらくと、進捗を確認するように言葉を交わした。特に泉は、すでに有名なケースを二年ぶん一覧で見ているから、これはちがう、あれは近かったけどちがうといった判断を見出しの段階でもうできるようになっていて、その判断をほかの三人にも伝えて記事の選別を助けた。
 リストのふたりの俗名、享年、そして葉月が見た夢に基づいた事件の内容を頭にたたきこんだ状態で、79年の元日と82年の元日からスタートして一日ずつ進めていく。だがヒットする保証はなく、まるであるかどうか分からないゴールがもうけられたフルマラソンをあてもなく走る感覚に近い。しかし光四郎は、ただ走っていればいいマラソンのほうが、それか真冬の雨の日のランニングのほうが、この作業に比べればそれでもまだマシに思えた。

 数時間以上があっという間に過ぎた。収穫はない。少し休憩し、さらに小一時間。記事の日付とともに紙面の季節は新春から新緑、初夏へと移ろっている。梅雨が始まり、明けるころになってもそれらしき記事を見つけたという声はしかし、上がらない。きのうからの連続で、新聞の読み方だけはずいぶんと板についてきたが……。
 そうこうするうち、すでに午前中が終わりかけていることに泉は気づいた。階下には利用客がいるはずだったが、静寂のこの保管室には自分たち以外、だれもいない。来る気配もない。
 振り返ると、やや離れた閲覧台には光四郎がひとり。座っている体勢がきついのか座るのも面倒になったか、広げたファイルの横に両手をつき、覆いかぶさるようにページを見つめている姿に、もはや殺気がある。Tシャツ一枚で、着ていたはずのウインドブレーカーはいつの間にか台上に脱ぎ捨てられている。葉月の姿は見えないが、たぶんどこかの通路に埋もれているはず。あのふたりは地域紙だから、見る紙面の数も多い。
 「風荷。だいじょうぶ?」
 隣の風荷をうかがうと、疲労を押し隠したような小さな笑みが返ってきた。
 「うん、だいじょうぶ。平気……」
 と言いながら、マウスを動かす手は止めない。泉はかすかな笑みを返し、自分も画面に向き直る。
 さらに十五分が経ち、三十分が経った。正午は過ぎていた。
 変化はそのとき、おとずれた。
 79年度の新たなファイルの束をかかえて閲覧台に戻った葉月は、そこに立っていた光四郎が石像のように静止したままぴくりともせず、両手のあいだに広げたページの一点を凝視しているのに気がついた。表情は見えなかったが、そのようすがさっきまでとちがっていたので「光四郎?」とささやくと、光四郎は顔を上げず言った。
 「あのさ。……これ……」
 ただならぬトーンを察し、葉月は駆け寄った。
 「どうしたの?」
 「この記事なんだけど見て。これ、ここ……」
 葉月がのぞきこむと、光四郎がひらいていたページは1982年8月6日付け、金曜日の朝刊の三面で、発行元は県下最大手の新聞社だった。
 光四郎は紙面下部を爪の色が変わるほど指で強く示していて、その見出しは、

 『さがしています』

 見出しのすぐ横に『尋ね人』。続く内容は、

 『先月、七月三十一日(土)より連絡のつかない娘へ。貴女のゆくえをさがしています。
 満二十一歳、中肉中背、縦縞の半袖ワンピース。
 三十一日夕方、ボーイフレンドとドライブへ出かけて以降、どうしていますか。どこにいますか。
 父も母も怒りません。話し合いましょう。至急、鈴掛の自宅へ電話ください』

 「この人……!」
 葉月が切迫した声を上げ、同時に泉と風荷が振り返った。
 「はーくん?」
 「泉、風荷――光四郎が今」
 「えっ?」
 と風荷が立ち上がる。ふたりは閲覧台へ走ってくると、光四郎の示す箇所に目を通す。にわかに表情が変わり、四人は息をのんだ。わずかな沈黙。
 泉が光四郎を見て、言った。
 「よく見つけたね。こんな小さな記事」
 光四郎は紙面を見たまま、
 「偶然だよ。たまたま……目に入って。さがしてるって……」
 「でも待って、みんな」
 緊張のみなぎった顔で、努めて自分を落ち着かせるふうに風荷が言った。
 「いろいろ考えなきゃ。まだ分かんない。まだ……まず名前が書いてない」
 「そう。書きたくなかったか、書く必要がないと思ったか……」
 すかさず泉が答えた。
 「だってこれ、この人の親が、この人に向けて出した記事だよね。文章の感じがそうだよね、話しかけてるみたいだもん。いなくなった娘がどこかでこの記事を読むかも、って期待して載せた。本人なら、名前がなくても自分のことだって分かるから」
 「仲直りしようとしたのかな」
 早口に風荷が応じる。
 「『父も母も怒りません』……お父さんとお母さんがこの人とケンカして、そのままこの人がいなくなっちゃって、心配して記事を載せたのかな……?」
 記事の情報はこちらの情報と一致している。年齢、性別、そして文章から読み取れる状況。
 「82年」8月6日当時、「満21歳」だったこの女性は、「ボーイフレンド」と「ドライブ」へ出かけて以降、居どころが不明。そしてゆくえをさがす両親が示した電話先は「鈴掛」の自宅。
 キーワードがぴったり合っているのは偶然か?
 娘の名を記事に載せなかったのは、泉や風荷の考えが当たっている可能性が高い。女性の両親は、娘の居場所について第三者への情報提供を求めていたというよりかは、記事の文言から推測すると、仲たがいした娘へ直接語りかけ、その帰宅をうながすために寄稿したような感じがある。目的がそれなら、こちらのプライバシーを明かさず本人と連絡をつけられるに越したことはない。携帯電話のない時代、新聞はひとつの通信手段でもあったはずだが、新聞はだれが読むか分からない。注意しなくては、伏せておきたい事柄や個人情報が全部ダダ漏れになる。
 女性の両親は自分たちや娘の氏名を公開せず、娘にだけ分かるような記事の載せ方をした。そしてこの記事が掲載された時点では、女性の両親は娘に何が起きているかを知らない。
 ではこの女性はその後、どうなったのか?
 「先にほかの新聞も見よう、県内の」
 風荷がすぐさま動いた。
 「同じ記事が掲載されてるかも。この『尋ね人欄』に」
 光四郎は五紙を一度にまとめてチェックしていなかった。数ヵ月単位で区切り、一紙ごと分けて追っていたため未確認の発行元がまだあった。
 その未確認の三紙のファイルを急いで取ってくる。光四郎がひらいていたのと同日の記事、つまり82年8月6日付けの三面から同様に「尋ね人欄」をたどる。
 すると、二紙に見つけた。レイアウトはちがったが、先刻発見した記事とまったく同じ文言だった。
 まとめると、この女性の両親は当時、県下で発行されていた地域紙のうち三紙を利用し、その「尋ね人欄」で女性に呼びかけている。どこにいるのかと。記事の掲載は女性が7月31日に出かけたのち、連絡が取れなくなってから六日後。順当な推測をすれば、五日後の時点で掲載の依頼があり、翌日の朝刊に載ったという流れだろう。
 「次は――」
 と、やるべきことを悟った葉月は早くも手もとのページをめくっていた。
 「この人が、あの人かどうかを確かめなきゃ。名前を知らなきゃ。もしそうなら……もしそうだったら」
 この氏名不詳の女性について「尋ね人欄」に掲載があったのは、1982年8月6日付けの三面。
 もしこの女性が「彼女」なら。
 もしそうであれば、どうなる?
 この日付――6日より近い未来のどれかしらの三面に、この失踪した女性が、葉月が夢で体験したような状況下によって殺害されたと報じる記事があるのでは――?
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