第20話

文字数 10,707文字

 カーテンは閉めきってあった。真夜中、あかりの落ちた部屋は静寂に包まれていた。
 葉月は自分がつめたい暗闇に立っていると気づいた。すぐに「あの人の夢だ」と察して、周囲を見回した。
 四方には何もない。暗闇だけ。しかしこの感覚を葉月は何度も経験して分かっていた。
 まるでクーラーボックスや冷蔵庫のなかにいるような寒さ。水気を含んだ冷風が前方から吹いてきて素肌をなでる。
 夢を見ながら、これが夢と理解している。だから怖くない。だから「彼女」に会いたい。
 葉月は目を凝らした。全神経を研ぎ澄ませ、この夢に集中する。
 ひとつものがせない。
 「教えて」
 彼はつぶやいた。
 「教えて。きっと見つける」
 一歩前に踏み出したとき、頭上に一直線のあかりがともった。じわじわとあたりを照らしていった。
 ほの暗いオレンジ色。はちみつ色。ねっとりと重い光。それらの電球はにぶくまたたいている。
 半円を縦に伸ばしたような独特の輪郭が浮かび上がると、かなたに黄色い点が出来た。
 小さな一点、あれが出口? そうだ、外へとつながる出口。だが自分はまだそこへ出ていない。
 葉月はようやく悟った。
 トンネルだ。
 ここはトンネルのなかだ。
 無くしたの――「彼女」の声が耳のそばに聞こえた。
 無くしたの――私のチョーカー。
 無いのよ。
 「うん」
 葉月はうなずいた。若い女性の声だった。やわらかい響きで、まるで生きた音のようだった。
 「教えて」
 闇にささやくと、どんと背中を突かれた。人間の手ではなく、風圧で押された感じだった。彼はよろけ、気づくと出口へ向け全速力で走っていた。
 濡れた地面を蹴る。跳ね上がるしぶきが足にかかる。そのたび、ぱしゃっと音がする。横幅の狭い古いトンネル。手掘りのような左右の壁に、天井からしずくの垂れる音が背後に反響した。
 ぽたん……ぽたっ。
 ここは旧道だった。だからこのトンネルは今は使われていない。これは山道を少しのぼった先にあって、今もぽっかり口をあけている。走りながら、彼にはそれが分かる。
 針の穴ほどの大きさしかなかった出口が近づいてくる。前方に光が迫る――抜けたと思った瞬間、まぶしさに目を細めた。同時に彼は足を取られ、転んだ。とっさに硬い地面を覚悟したが、そうじゃない。そのままどこかへ身体ごと落ちていく。下へ下へ、また闇へ。トンネルよりさらに暗い闇の底が自分を待っている。
 彼はとてつもない恐怖を感じた。死の恐怖。あそこへ落ちたら二度とは這いあがれないから。だが自分はその死をめがけまっしぐらに、風を切って落ちていく。どんどん落ちる。落ちている。
 あまりの怖さに意識が遠のいた。だが底から立ちのぼっている腐臭がそれをつなぎとめる。だが彼はいっそのこと気絶したい。何も分からなくなって死にたい。どうせこのあと死体になるなら。
 もうだめだと悟って目を閉じると、衝撃音がした。背中が何かにぶつかった。勢いよくぶつかったが、しかし音のわりに痛みがない。
 底に突き当たった? だが痛みがないのはおかしい、ずいぶん長く落下していたのに? いや、ちがう……ちがう。
 腐臭はしなかった。まだ死んでいなかった。そうではなく、もっと人工的な――彼もかいだことのある匂いがしていた。
 どこ? 彼は薄目をあけた。たちまち、あっ? ……と気づいた。
 フロントガラスが見えた。そしてハンドル。シートベルト……煙草と消臭剤のきつい匂い。座席の匂い。
 その運転席にだれか座っている。座って運転している。外は闇。
 自動車だ。
 彼の隣で、運転者は何か言っていた。だが少しも聞き取れない。何かしゃべって、笑っている? こちらに話しかけている?
 あなたはだれ? 彼は口を動かそうとしたが、声は出ない。車は走っている。速くもなく遅くもないスピードで、順当に走行している。時折カーブが来て坂が来て、前後左右に揺れる。乗り心地はバスより良く、彼の両親の車より悪い。
 間もなく揺れは止まった。運転者はまだ何か言っている。やはりひとつも聞き取れない。
 あなたはだれ? 彼はどうしても訊きたくて懸命に声を出そうとする。闇のなか、わずかに分かるシルエットを見分けようとする。人の半身、横姿をした暗い縁どりは彼より大きい。
 だれ? あなたは……すると運転者は助手席にいる彼を見た。
 若い大人。
 男の人だった。
 笑っている? 男の口の端がねじれている。隙間にちらりと歯がのぞく。だが嫌悪は感じない。ただ少し……ヘンだなと思っただけ。この男のことはきらいじゃない。むしろ好き……むしろすごく好きだ。この男のためなら何を捨ててもいい。だからここに乗っていた。
 待って――彼の耳に「彼女」の声が響いた。
 待って――何をする気?
 「逃げて!」
 彼は叫んだ。だが遅すぎた。闇から突き出された二本の腕は、彼の首を捕らえていた。
 硬いものがぎりぎりと食いこむ。ほどけない。息ができない苦痛。彼は懸命に目をあけていようとするが、視界が反転し、縄で首を絞めている男の凄惨な形相が上下逆さまになった。男はもう笑っていない。
 悲鳴も上げられなかった。「彼女」にその力は残っていなかった。
 どうして?
 絶望に襲われ、彼は思った。
 だましたの? 私のこと好きじゃなかったの? あなたは私を愛してなかったの?
 私はこんなに愛したのに。
 私はあなたと幸せになりたかっただけなのに。
 涙がこみ上げた。かなしく苦しく、許せない。このうらみ、この怒り、この苦痛、死んでも忘れない。
 ふっと首が楽になった。
 彼は助手席から男へと手を伸ばした。腹から叫びたかった。
 こんなのってない。こんなこと、私は……僕は……こんなのって。
 「ひどすぎるよ――!」
 同時に激しく咳きこんだ。伸ばした手を取られ、彼はまた声を聞いた。遠くに。
 はーくん……はーくん……!
 葉月!
 
 見慣れた天井が映った。自分の部屋。目が闇に慣れていて、それははっきりと葉月に認識できた。
 夢からさめた。たった今。いや、夢じゃない。「彼女」が見せてくれた、「彼女」の最期の記憶を見た。
 耳もとで名を呼ばれていた。ベッドに仰向いて葉月が首を動かすと、そばに人の気配がある。
 「はーくん……はーくん」
 泉の声だった。息づかいが聞こえる。泉は葉月に覆いかぶさるように葉月を見下ろしていた。距離が近すぎるあまり、天井をバックに影となって。
 葉月は返事をせず、やおら起き上がろうとした。泉は離れ、ベッドのふちに指をついて葉月を見た。その葉月を見る目はある種、怯えていた。
 「はーくん、だいじょうぶ……?」
 葉月はまばたきし、さらに暗がりに視界を慣らしてから泉と目が合う。
 すると、ふしぎな思いがした。これまで感じたことのない泉へ対する感覚が、身を起こした葉月にこう言わせた。
 「泉は、僕をだます?」
 「え?」
 泉はうろんな顔でうろんな声をこぼした。
 「どういう意味? はーくん……夢を」
 「どうなの?」
 葉月は尋ねる。
 「僕をだます気でいる? 僕と仲良くするのは、そのうち僕をだますため?」
 考える前に口が動いていた。
 ただ詰問したい。頭は空白。
 「どうなの?」
 「はーくん。ちがうよ。僕はそんな」
 「ほんとは僕を好きじゃないの? そうだったの? そうなんでしょ。好きなふりして、友達のふり」
 「ちがうよ――」
 「ひどい――ひどいよ。ひどすぎるよ。残酷――僕はあの人を愛したのに。あなたもそうだと思ってた、でもそうじゃなかった。私を捨てた、私にウソをついて、でも私はあなたを愛した、こんなにも、こんなにも」
 「はーくん」
 「どうして? ひどい、ひどい、ひどいよ、私を――僕――どうして?」
 「はーくん……!」
 泉はベッドの葉月に飛びついた。だが葉月は自分の首を示し、壊れたように繰り返す。
 「無いの。チョーカー。無いの。私のチョーカー。私のチョーカー。無いの。無いの。無いの」
 「ねえ」
 「無い……無い……無い」
 「葉月」
 泉は彼を抱きしめた。
 「お願い、しっかりして」
 腕に力をこめ、暴走しかける恐怖を封じようとさらに力をこめた。
 「しっかりして、はーくん。はーくんはあの人じゃないんだよ。はーくんは愛してないし、捨てられてない。だって、あの人の愛した人は、はーくんの愛する人とちがうから。だからしっかりして。目を覚まして。あの人にのまれちゃだめ。はーくんは夢を見ただけ。あの人の夢を見て、あの人を知っただけ」
 「…………」
 「戻ってきて、葉月」
 泉の呼吸が聞こえ、葉月は黙った。その首からだらりと手が落ちた。
 「戻って、葉月。僕はだましてない。だます気もない。『フリ』じゃないよ。ほんとう……」
 そのまましばらく、泉も葉月もしゃべらなかった。ささやくような息づかいだけしていた。
 そのあいだに葉月はようやく思い出した。クリアな現実、今の状況。自分がだれか。ついさっき、何を見聞きしたか。
 きょう、土曜日、昼間の記憶が戻ってくる。四人での会議。風荷と駅前で別れてから、葉月は泉と過ごした。そして泉が彼の家に泊まることになり、今まで彼の部屋で一緒に寝ていた。彼はベッドに、その下に敷いた布団に泉。
 泉は葉月の意志を分かっているから、あかりを落として横になるのを承知した。もし葉月に何かあったら、自分がすぐに助けられるから。昼間の話し合いが「彼女」を新たに刺激したかもしれない。泉はそれを警戒していた。
 葉月はそっと尋ねた。
 「今、何時?」
 「二時半くらい」
 泉は静かに答えた。とても冷静な声だった。すぐ答えが返ってきたので葉月はまた尋ねた。
 「僕が寝てるあいだ、ずっと起きてたの?」
 「うん。眠れるわけない」
 「そう……」
 ふたりは黙った。そのあいだ、時計の秒針の進むカチカチという音。
 泉の腕の中で、しばらくして葉月は言った。じつは心底言いたくなかったが、口にした。
 「殺されたの」
 泉はそっと返した。
 「あの人?」
 「うん。好きだった……すごく好きになった男の人にだまされて、車のなかで……首を絞められて殺された」
 「殺人だったんだね」
 「トンネルを出たところで。古いトンネル。覚えてる。その人はあの人を車に乗せて、走って、殺したあと……あの人を……あの人を」
 「うん」
 「どこか、トンネルよりもっと暗いところへ投げた。投げて隠した。小さくて狭いところ。あの人はそこに落ちてった。覚えてる、僕も落ちた」
 「うん」
 「だからさがしてる……だから……」
 葉月は身震いした。その震えは小刻みに続いた。
 「ひどいよね? 泉。……愛してたのに」
 「うん、最低。殺すなんて」
 「ひどい……ほんと……苦しくて、痛くて……息できなかった。怖かった。すごく怖かったよ」
 「うん」
 「怖かったよ」
 葉月は両手で顔を覆った。
 「かなしい……」
 しぼり出たような嘆きが、泉には葉月の声にもそうでないようにも聞こえた。暗い穴の底が自分にも見えたようで、窒息して死ぬ苦痛が分かるようで、どれだけ怖かっただろう? 泉はたまらない気持ちで目を閉じる。
 「見つけなきゃだめだね、はーくん。僕たち、絶対に」
 「うん」
 「きっとあるはず。きっとどこかに。だからあの人はさがしてる。まだ」
 「光四郎と風荷に教えなきゃ。今、知ったこと」
 「うん。あとでメッセージしよ。僕がする」
 葉月の震えはなかなかおさまらなかった。「彼女」の生きた記憶と感覚が奥深くに残り、ひと呼吸ごと彼を震わす。
 葉月はそれらを強く感じていた。夢というより、夢をとおした追体験だった。だからあんなに激烈だった。
 「彼女」が刻みこんだのか、その最期の瞬間を捕らえた驚愕と絶望。孤独と闇。忘れがたい衝撃。
 葉月はぶるりと戦慄した。
 「泉……」
 両手を伸ばす。
 「怖かった……」
 泉の背中は温かく、触れた葉月を安堵させた。生きもののぬくもりだと思った。
 生きて、言葉を話し、動いているものにしかない温度を葉月は腕に閉じこめ、長くため息をついた。
 泉は戸惑ったようだった。それかおどろいたのかもしれない。かすかに身を緊張させたのが葉月に分かった。
 「嫌だったらごめんね」
 葉月は目を閉じて言った。その目がさっき覚めたとき感じたふしぎな思いは、おそらくいつかの「彼女」のもので、そのどろりとした重たい感覚が、今はこの震えを止めてくれる気がした。
 「でも、こうしてると安心する。すごく。泉が嫌でも、今はごめん」
 泉は何も言わず葉月を抱きしめ返した。その圧迫感。だんだん強まる。けれど首を圧迫されるのとは比較にならない。自分は「彼女」ではないけれど、「彼女」を感じる。
 葉月はまた長い長いため息を吐いた。閉じているまぶたが急におとずれた眠気に重みを増した。気づいた泉は葉月を離そうとしたが、葉月のほうが彼へ寄りかかり、ぐったりと体重をあずけて離れようとしないので困って、しばし呼びかけたが、葉月は聞き入れずかぶりを振るばかりだった。
 とうとう泉は葉月を腕にかかえ、彼を寝かせると同時に隣に横たわった。葉月はもうほとんど眠っているようだった。
 葉月の寝顔を見ながら、泉は考えにふけった。「彼女」の影響を受けるようになって、自分はどれだけ変わったのだろう。葉月は。光四郎は。風荷は。りあ、クラスメイト、同級生、顔も名も知らない他校の生徒たちは。
 「彼女」のせいで死ぬ子供がいて、苦しむ子供がいる。
 けれどいつか苦しんだのは「彼女」も同じだった。
 そう思うと、恐れるより見つけなくては。すべてを止めるために見つけなくてはという気持ちがさらに強くなった。だが葉月は自分よりよほど前からそう思い、信じて、行動しようとしていた……。
 「ヘンなの……」
 夢に現れた「彼女」の力とはいえ、葉月の口から「愛」という単語が飛び出すとは、泉は少しも思っていなかった。びっくりした。今もしている。とてもちぐはぐな感じがする。
 葉月が葉月ではないようで、しかし葉月にはちがいない。
 「ヘンなの」
 葉月が身じろぎした。息のような寝言のような謎の声を上げ、泉はつい笑ってしまうと脱力した。
 「あのさ、はーくん……」
 「ん? ……何?」
 「さっき言わなかったけど、僕、嫌じゃないよ」
 「え?」
 葉月が薄目をあけたので、泉はまた笑って目を閉じ、葉月を抱き寄せた。
 「じつを言うとね……これ内緒ね……ほんとはこういうこと、だれかとしてみたくなるときがある」
 「そうなの?」
 「うん。だれかとね……だれでもいいんだけど。好奇心なの。でも、とりあえずはーくんだからうれしい」
 「うん……」
 「でも、ホントにしないでね。真に受けないで。僕、ヘンみたいだから……よく、そう言われてるから」
 「泉、ヘンなの?」
 「みたいよ。僕、こんなだからさ」
 「そう……?」
 葉月はふしぎそうに頭を動かした。
 「でも、僕……泉をヘンって思ったことないよ……」
 泉は答えなかった。間もなく規則的な寝息が聞こえ、彼は今度は声を立てず静かにした。
 抱き枕のように密着した身体が熱かった。子供ひとり用のベッドにふたりでは窮屈だったが、泉はまどろみからさらに深い眠りへと久々に、かなり久々に――引きこまれるような、あらがえない感覚とともに手を握った。
 その手は握り返された。

 明けた日曜の午前中、九時近くまで眠っていたふたりは目を覚ますと、泉が光四郎と風荷にメッセージを送信した。葉月が昨晩の夢で、「彼女」の正体についておぼろげながらも有力なヒントを得た。内容についてはメッセージだと面倒だから追って電話するか、会えるなら会って話し合いたいし、月曜は敬老の日で休みだからその日はどう?
 風荷からはすぐ返事が来た。その日は祖父母と外出の用事がある。行くのやめようかなと彼女は書いてきたが、それならきょう、あとで電話するよと泉は書き返した。そういう外出を直前でほっぽると、それもそれで言い訳が大変だろうし、敬老の日なのだから。おじいちゃんとおばあちゃんに悪いから。
 光四郎はサッカーだと泉は知っていたので、彼が読むのは早くても正午過ぎになる。風荷は祝日の都合がつかなくても学校で会えるが、光四郎はそういかないので、どのみち彼には個別に連絡を取って詳細を話すつもりでいた。
 スマートフォンで地域ニュースをひらくと、ここ一、二ヵ月のあいだ、特に小学生の医療機関の受診率が倍増しているという内容があった。記事の一番下には『こころの相談室』というふれこみで、専門医やボランティアのアカウントや電話番号がいくつか記載されてあった。このごろの突発的な小学生の死の数々に関連しているのだろうと泉と葉月は話したが、この感じだと、やはり自分たちの把握している以上に多くの死が起きている。事件性がなければ報道もされないし、遺族はナイーブな部分は伏せておきたがる。あの動画撮影を担当し、「自殺」して亡くなったとされた光四郎の同級生、明光第一のあの少年の家族もそうだった。
 光四郎から返事が来たのは午後一時半を過ぎたころだった。
 『今、電話できる?』
 という内容で、泉は葉月とまだ一緒だったので、ちょうどいいと思ってオーケーを返した。

 光四郎は泉からの了解を受け取ったあと、そばの風荷を見た。
 「いいって」
 「うん」
 風荷はうなずき、
 「私も一緒って、泉くん、知ってる?」
 「ううん、まだ。電話で言えばいいよ」
 「うん……」
 場所は風荷のマンションと、光四郎のマンションの中間くらいにある小さな公園。周囲には日曜の午後を遊んで過ごす親子連れが何組か。
 泉は、光四郎がサッカーの練習を終えるや前日の約束どおり風荷へメッセージをしたこと、風荷もそれを待っていたことはつゆ知らない。光四郎はそのメッセージを風荷へ送るときに、泉から受け取ったメッセージを読んだ。
 風荷とやりとりして、月曜には予定があるからこのあと泉と電話すると彼女が書くと、光四郎はその返信で彼女に書いた。自分と彼女がふたり一緒にいれば話が簡単になる。マンションも近いし、昼食のあと会わない?
 風荷は大急ぎで勉強を片づけ、服を着替え髪を直し、顔色を気にして、家族には適当なことを言って家を出た。待ち合わせの公園で光四郎と合流したのがついさっき、午後一時半。ドキドキとせわしい自身の鼓動を感じていた。
 人に聞かれたくないのでふたりは公園のもっとも目立たない隅へ移動し、フェンスのそばで、光四郎は泉からの着信に応じた。画面を離しスピーカーをオンにした。
 「あ、もしもし? 泉? ……」
 光四郎が風荷とふたりでいると知り、泉はかなりびっくりしていた。そのびっくりの理由は風荷にはよく分かったので気まずい思いをした。ただ泉は葉月といるので、確かにこれで四人そろったと同じことになる。
 葉月は自分の見た夢の内容を、あらためてゆっくり話した。途中幾度か言葉に詰まるときもあった。光四郎と風荷は慎重にそれらを聞き、得られたヒントを四人でまとめた。「彼女」は殺されたのだということ。殺害の現場は現在では使われていない古いトンネルを出てすぐの地点。絶命した「彼女」は深い穴のような場所へ遺棄された。犯人は若い男。「彼女」の愛した男。
 光四郎も風荷も息をのんだ。具体的な地名や日時は分からず、おぼろではあるが、葉月の話はリアルだった。暗い車内で首を絞められた場面ではまるでほんとうに葉月がそうされたかのようだった。
 「彼女」の力が動いている。それが吉と出るか凶と出るか。
 風荷は自分のスマートフォンを使って検索をかけた。殺害の現場を市内だったと仮定して、過去に殺害された若い女性にまつわる事件がヒットしないか、葉月の言う「旧道」や「トンネル」のキーワードを打ちこんでみたが、ぱっとそれと分かるヒットはまずない。泉は電話の前にすでにそれをひととおりやっていたが、ヒットするのは直近に発生した類似の刑事事件が大半だった。というのは、この市では数年前に女子高生が路上で襲われ殺害されており、それが全国ニュースになるほどいっとき話題を呼んだため、ネットでのランダムな検索では、若い女性の殺害というと第一にそのケースの情報ばかり出てくる。あとは、やはりここ数年ほどのあいだで起きた若者の交通事故や性犯罪。暴行、窃盗、そして自殺など。ざっと見たかぎり、それらは自分たちの知る「彼女」とは関連がない。では現場が市内ではなく県下、あるいは他県、あるいは海の向こうのどこか……と範囲を広げていくと、これでは際限がなくなってしまう。「彼女」が殺された正確な日時も不明なのだから、一件ずつ確認していくには数が膨大すぎるし、時間もかかりすぎる。
 調査範囲を絞るためにも、とにかくもう一度、鈴掛のあの墓地へ行く必要があるということになった。しばらく通話が続いたのち、光四郎はスピーカーをオフにした。
 風荷は周りに目を配った。フェンスの外を通りすぎる人がこちらに注意を向けないか通話中から気にしていたが、それはなかった。子供たちの遊ぶ日なたは暑そうだった。帽子と日傘が人を示す目印になっている。
 光四郎のスマートフォンがふたたび振動を始めたので、ふたりの意識は取られた。着信。泉からかと風荷は思ったが、光四郎が画面を見たまま応じようとしないのでピンと来てしまった。
 「美春ちゃん?」
 出なくていいのと風荷は言ったが、光四郎は「いいよ」と答えて切ろうとし、思い直してミュートにした。切ったらすぐに折り返してくると考えたからだった。
 園内の子供たちの声をBGMに、ふたりは少しのあいだ無言だった。
 「ふたりはこのあと、どうするの?」
 通話を切る前、泉が尋ねていた。ちょっとからかうような口調だったが、光四郎はそれにはっきり答えなかった。風荷も答えられなかった。今、彼女は同じ問いを光四郎にしたかったが、それも言い出せない。美春からの着信が余計に彼女をひるませた。
 「彼女」は愛した人に殺されたのだという。自分の好きな人に、首を縄で絞められて殺されたのだという。
 風荷は胸に痛みを覚えた。この瞬間、だれより自分が、顔も名も知らない「彼女」の気持ちを分かることができるように思ったし、今、光四郎が電話に出てくれない美春の想いも、話したことさえないのに、すごく分かる気がした。
 「じゃあ私、家に戻るね」
 風荷は言った。
 「まだ宿題、残ってるから」
 「帰る?」
 「うん」
 ほんとうは、やり終えた宿題は部屋の机にちゃんと重ねてあった。
 「そういえば、きのう買ったプリン、どうだった? 妹さん……」
 「あ、どっちもすごいおいしかった。妹もそう言ってた。あと、俺がまちがったやつ買ってくると思ってたから……」
 光四郎がフェンスから背を離すと、スマートフォンがまた着信を知らせた。
 「出なきゃだめ」
 風荷は早口に言った。
 「出なきゃだめだよ。だって……じゃ私、行くね。またね」
 急いでその場を去ろうとすると、
 「待って」
 光四郎が呼び止めた。振り向くと、
 「じゃあ俺、またメッセージする」
 風荷は小さくうなずいた。あとは振り返らず走って公園を出た。光四郎のマンションとは反対の方角にある自分のマンションの建つほうへ少し走って、息が切れて立ち止まった。
 呼吸をととのえながら、このまま家に帰りたくないと彼女は思った。しかし光四郎には帰ると言ってしまった手前、帰っておかないと、もしあとで彼に自分の姿を見られたら困るし、もし……もしそのときの彼が美春と一緒だったら、それはもっと困ることだった。
 隣の車道をぐんぐん過ぎていく自動車の列と、その走行音が、いつもなら気にならないのに落ち着かない。
 風荷は通りを渡って近くのコンビニに入ると、間もなくカスタードプリンのひとつ入った袋を持って出てきた。その足でマンションへ戻ると、スマートフォンを自分から遠ざけ、精一杯見ないよう努力することを誓った。
 そのころ、泉のそばではやや不服そうな、あるいはけげんな表情の葉月が、こちらは妙な訳知り顔をしている泉をうかがっていた。通話を切ったあとから、ふたりはそんなようすだった。
 泉が何も言わないので、とうとう葉月は、やっぱり納得いかないといった調子で口をひらいた。
 「ねえ泉。なんで……」
 「僕らには僕らのやるべきことがあるでしょ、はーくん」
 「でも」
 「協力ってそういうことじゃない? ほかにもやれることは――ううん、やっといて損のないことはたくさんあるよ」
 と言って泉はスマートフォンから指を離さない。制限だらけの葉月のスマートフォンではネットでの検索が使えない。だがこのぶんだと……泉は少し調べてみて思った。これはパソコンを使うほうがずっと早い。が、授業で使う学校のパソコンも制限だらけで役に立たないとなると、今週のうちに家にある予備のタブレットを内緒で拝借するか、母親か義父の個人用PCを借りるか……だがあとの選択肢のほうはなるべく使いたくない。
 「はーくんの記憶が頼り。イメージだけでもいい」
 画面を見ながら泉がつぶやく。
 「やらないに越したことはないはず……」
 横から葉月がのぞくと、とあるサイトを泉はひらいている。
 葉月の視線に気づき、彼は言った。
 「全国規模で始めたら終わりがない気がするから、とりあえず市内。それから県内。電話で言ったとおり、あの人が殺された場所はそのふたつのうちのどっちかだったと仮定してね」
 画面に映っているのは県内にあるトンネルをすべてまとめた一覧表だった。国土交通省が一般向けに公開している公式のもので、そんなデータをぱっと引っ張ってくる泉に、葉月は目を丸くした。
 「まあまあ古いデータだけど、使えると思う。トンネルなんてそんなに何個も新しく増えるものじゃないし、はーくんの覚えてるトンネルは、しかも――古かったんだよね? 今は使われてないくらい」
 「うん」
 「でも、通れないことはないんでしょ?」
 「うん。通れる」
 「それ、自信ある?」
 「あるよ。だって僕、そこを走ったって言った」
 「なるほど」
 葉月のかたいうなずきに、泉は画面をスクロールさせて示す。
 「市内に約30個。県内全体で約130個。通行止めを引いたら、もうちょっと少ない。マップの機能でひとつずつ、見られるだけ見ていく。夢の記憶と近いものがあるかどうか。何かはーくんが気づくことはあるか」
 軽い笑みを浮かべ、泉は言った。
 「トンネルマスターになれるかもね」
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