第23話

文字数 10,416文字

 出入り口の大きなガラスドアをくぐると、公共施設の特有の匂いとともに静かな空間が広がっている。貸し出しに関する大抵の用事を済ますことのできる受付カウンターがすぐ横手にあるが、そこに用はない。
 この図書館はビルとしての構造上、エスカレーターでつながった各フロアごとに、その蔵書や各種サービスが細かく分かれていた。
 一般の書籍を借りに来ているでも、読書や勉強をしに来ているでもない四人は、総合案内の掲示を見て目的のフロアへとエスカレーターを上がっていく。全員、はじめて行く上階になる。
 エスカレーターを下りて少し左右をさがすと、目当てのエリアがもう見えていた。一階ぶんをほぼ丸ごと、このサービスにあてているようだった。
 『新聞閲覧サービス』
 経年した銀のプレートに刻まれている。そばに手書きの張り紙。
 『ご利用の際はフロア職員へお知らせください』
 日常的な利用者が少ないのだろう。のぼってきたほかのフロアと比べてさらに静かで、ここから見える範囲の通路に人の姿はない。閲覧用の台が整然と並び、背の高いグレーの書架がスペースの大半をぎっしりと陣取って、迷路のようになっているそのさらに奥には黒のデスクトップパソコンが一列、別の小机に並べて設置してある。
 「だれが行く?」
 光四郎が言うと、
 「僕が行く」
 葉月が振り返り、ひとりフロアカウンターへ向かった。青いエプロンを着けた、どこかしら偏屈そうな印象の女性職員が単身、そこに座っている。四、五十代と思われるその女性は四人がのぼってきたとき、ちらと視線を彼らのほうへ投げたきりだった。
 「なんか面倒な手続きとか、なきゃいいけど……てか、めっちゃすいてるね。需要ないんじゃない?」
 椅子を立ち上がった女性と話し始めた葉月を眺め、泉が言う。距離があるのでふたりの会話までは聞こえない。あらかじめ市の公式サイトで調べたかぎり、この図書館での閲覧サービスは無料で、図書カードを所持してさえいればだれでも自由に使えるはずだった。そして四人ともカードは持っている。
 五分ほど、女性が身ぶりとともに話すあいだ、葉月は何度かうなずいていた。説明を受けているらしい。それからお辞儀をしてこちらへ戻ってくると、手に紙を持っている。
 「使い方の説明だって。分からなかったら訊きに来て、って」
 葉月は三人へ説明書きを見せた。
 「手伝ったほうがいいか訊かれたけど、だいじょうぶですって言った。あとは何も言われなかったよ」
 「私、もらっていい?」
 泉と光四郎がのぞきこんだあと、風荷が紙を受け取った。
 端の大きな閲覧台まで来ると、説明を読み終えた風荷が言った。
 「まず全国紙と地域紙に分かれてる。全国紙は全部で三紙。地域紙は――この県だけで発行されてるローカル紙ってことだけど――日刊と朝刊のみを合わせて五紙。大体、県域別にあるみたい」
 と、ずらりと並ぶ書架へ目をやる。
 「棚には、えっと、紙面ごとに分けてファイルに切り抜きが保管されてる。一面、二面、三面っていうふうに……私たちが見たい記事は社会面のはずだから、三面。刑事事件とかが載ってる」
 「デジタルじゃ見られない? あると思ったんだけど。あのパソコンがそれかな」
 泉が言うと風荷はうなずき、
 「そう、あのパソコンで見られるみたい。でも、デジタル……デジタルアーカイブが使えるのは全国紙だけだって。使うにはパスワードが必要。でも地域紙はデジタルがないから、紙でさがすしかない。その代わり、こっちはだいぶ古い記録からスクラップされてるみたい……あ、ううん、一部デジタルもあるって。小さく書いてある」
 「ふうん……じゃ、とりあえず手分けしたほうがいいよね」
 光四郎が言った。そして書架の壁を見回す。
 全国で三紙、県域別に合わせて五紙。トータルで八紙となる。取りそろえは悪くない。そしてどのみちここより規模のある図書館は市内にはないので、さらに多くの発行紙を参照したければ市を出てほかへ行くことになる。
 参照したい発行年は、風荷のリストのとおり全部で五年ぶん。そのうち、優先順位の高い三年ぶんから始める。古いほうから順に1979年、1982年、1999年。ラストの99年だけは月日まで分かっている。
 ひとりずつ一年を担当し、残りひとりがデジタルアーカイブを担当するということで話は決まりそうだったが、そのとき先ほどから書架のあいだを見て回っていた葉月が閲覧台へ戻ってきて、
 「ねえ……」
 と目の合った泉へ困惑顔に言った。
 「これって、古いやつはどこにしまってあるか分かる? 僕、見つけられなくて。95年、とかそのへんまではあるんだけど、昔のが……」
 「棚をまちがえてるんじゃないの、はーくん」
 「そんなことないよ。地域紙のほうには絶対ないよ。全国版はあっちだから、まだ見てないけど」
 「ほんと? 見方がちがうだけじゃない? これだけあるんだから、ちゃんとさがせば……」
 四人はそれぞれ分かれて地域紙の書架をめぐり、そこに示されているインデックスをチェックしていったが、確かに葉月の言うとおり、インデックスの振り分けは1990年代を最後に、それより以前が見つからない。
 「古いからって、どっか適当にまとめてあるんじゃないの?」
 光四郎はそう言って別の書架も確認したがやっぱり見当たらない。そうなると全国紙も同じ状況だろうか? だがそれでは困る。
 泉が、自分のいた通路に集まってきた三人へ言った。
 「訊いたほうが早いよ。ちょっと嫌だけど僕、行ってくる。どうせアーカイブのパスも訊かなきゃだし」
 「泉くん、私も行く」
 メイクをした泉の特殊オーラを思って、風荷がカウンターへついていった。案の定、カウンターで泉を間近に見た女性職員は一瞬、目をみはったが、あえて気にしないよう努めているのが分かった。
 十分ほどしてふたりは戻ると、あきれたような表情の泉がため息をつき、女性から説明されたという内容を葉月と光四郎へ話した。
 それによると、現在より三十年以上前の記録はここではなく別のフロアに保管してある。全国紙に関してはデジタルアーカイブから検索できるので、紙媒体の保存があるのは地域紙のみ。しかしここからが問題で、それらの古い記録を参照または閲覧するには、紙媒体についてもデジタル版についても事前の予約が必要で、その予約がないと基本的には開示できないことになっているのだという。
 予約はカウンターでできる。図書カードがあればいい。だが、今から予約すると図書館のシステムに反映されるのがあすの朝になるため、きょうのうちは開示することができない……やむを得ず、泉と風荷は予約の申しこみ用紙に記入をした。
 「じゃあ、あしたまた来なきゃだめってことじゃん」
 光四郎が言った。
 「しかも三十年以上前からって、それじゃ……」
 「そう」
 と泉。またため息をついて、
 「80年代の時点でアウト。システムに反映されるまでは見せられないって。何それ? って感じ……そんなこと、サイトに書いてあったかな。なかったと思うけど。……あの人にも訊いたけど、よく分かんなかった。決まりだからって、それしか言わない。アーカイブのパスはもらえたけど」
 「しょうがないよ、泉くん。きっと、そんな昔の記事を見たがる人なんて、そんなにいないんだよ。あの人もいろいろファイルめくってたもん」
 「優しいな、風荷は。まあね……」
 「じゃあ、どうする?」
 光四郎が尋ねる。
 「99年だけ調べる? きょうはそれしかできないし……ちがったらまた来る」
 「うん」
 葉月が答えた。
 「あしたが日曜でよかった」
 やむなく、きょう調べることができるのは1999年に亡くなったひとりのみになった。あとはすべて三十年以上前の年になる。リストの五人のなかではもっとも最近の没年で、月日も判明しているので比較的やりやすい。
 「伊織(いおり)」という名前だった。享年27。風荷には、先ほど自分で気のついたことをこの名に重ねると、墓碑を見たときには真っ先に女性と思ったが、今は一概にそうと言えない。世のなかには「伊織ちゃん」も「伊織くん」もどちらもあり得るだろう。だがやってみるほかはない。
 泉と光四郎が全国紙をアーカイブで、葉月と風荷が地域紙のスクラップを手分けして確認することになった。没年月日が7月6日なので、その日を中心に焦点を当てる。
 チェックすべきは三面とも呼ばれる社会面。よほどの大事件だった場合は一面に大きく見出しが来るが、必ずしもそうとかぎらない。1999年夏ごろ、どこかで、「伊織」という名の当時27歳だった女性が、何者かによって殺害された事件が報じられているかどうか。または被害者の氏名が公開されていない場合、葉月が夢で体験した「彼女」の記憶と似通った事件かどうか。キーワードは「旧道」や「トンネル」あるいは「自動車」。犯人は彼女の愛した男性――その男は運転していた自動車を停止させてから、彼女の首を縄で絞めている。
 四人は各自、記録をさがした。当然7月6日の記事から始めたが、全国紙にも地域紙にもそうと思わしきものはなく、どうやらハズレ。その翌日の朝刊と夕刊、そのさらに翌日の朝刊……と見ていく。やはりハズレ。
 99年という年代のおかげか保管方法がいいのか、紙媒体でも記事の傷みは少なかった。記者の書きぶりは、表現に多少のむずかしさはあるが、使われているフォントや言葉づかい自体は見慣れたもので、ひたすら紙面の印字を目で追うしかない葉月と風荷は助けられた。見出しには大きなものも小さなものもあり、初報や続報があったりで、油断すると見落としそうになる。特に地域紙の三面ともなると取り上げられているネタも排他的で個性が強く、新聞社ごとレイアウトも異なり、記事の概要をつかむまでに時間がかかる。
 「ひと月って、なんで三十日もあるのかな」
 閲覧台にかじりついて葉月と風荷が黙々と読みまくる一方、しばらくして泉がつぶやいた。目がちかちかする。彼は全国紙のデジタル版、三紙を光四郎とシェアしていたが、8日以降の記事を何日ぶんか確認しても当たりがないので、99年の「伊織」の死因に、少なくとも全国ニュースになるほどの事件性はなかったのだとうすうすあきらめていた。
 「もう伊織さんは殺されてないよ。たぶん」
 泉は疲れたようにデスクにひじをつき、
 「きっと病死だったんだよ。それか事故……でもどっかに報道されるような派手な死に方じゃなかった。――ね? 伊織さん。そうなんでしょ?」
 「知らないよ。ていうかやめろよ。返事あったらどうすんの」
 と、光四郎が隣の椅子から伸びをして答えた。集中が切れ、時計を見る。思った以上の時があっという間に過ぎている。
 スクラップ組のふたりも、各々ひろげていたファイルから顔を上げた。どちらの表情もくもっていた。泉と光四郎はふたりを手伝い、五種類もある地域紙の残りを分け、全国紙と同様、8日以降の数日ぶんまでをまた確認したが、それらすべてを合わせても気になる見出しや記事はない。何も発見がないと疲労も大きい。
 先が思いやられた。ネットとちがって新聞の場合、特定の年、あるいは特定の月に発生した殺人事件について、ある程度に信頼性のあるまとまった量の情報を、その当時の報道のままに系統立ててチェックできるというのが大きなメリットになる。とりわけ相応の時を経た昔の出来事となると、だれが掲載したかも分からないどこかのサイトの記事を読むより、どうせならリアルタイムで書かれたオフィシャルな情報のほうがいい。
 が、それはそうとしても、これは想定を超える重労働だった。没年の月日まで分かっていてもこれだけ大変なのだから、そうでない残りの候補者については一年ぶんを丸ごと見ていく必要があり、そうなると、とてもちょっとやそっとの仕事では済まされない……というのを、もはや全員が身にしみて悟っていた。
 「俺、人生ではじめてこんなに文字読んでる」
 光四郎はぱちぱちとまばたきし、見下ろしていた紙面から目を離した。印刷されている文字の羅列が、ひとりでに動き出した気がしたのだった。
 葉月がかすかにうなった。
 「暑い……」
 「はーくん、休んだほうがいいよ。頑張りすぎ。ていうか、やっぱり伊織さんはちがうんじゃない? みんな、どう思う? だって7月6日に殺された人の事件を、その月の中旬になってもまだ新聞が書かないなんてさ。そもそも殺人事件だったら大概、全国紙にも載るはず……」
 「じゃあ僕と光四郎が肝試しのときに見た布きれみたいなやつは、伊織さんのお墓から落ちたんじゃなかったのかな」
 「葉月くん、それは……」
 風荷が口をひらく。そして伊織が葬られている一族の墓石は、供え物が荒らされた地点から離れた地点に建っていたことを彼に思い出させた。つまりあのとき葉月と光四郎の目撃した、布のようなひらりとした何かは伊織の墓石から落ちたとは考えにくい。風荷は言葉を継ぎ、
 「ほかの四人のお墓でもそう。どのお墓も、撮影隊のメンバーがいたあたりとは別の、離れた通路に建ってる。だからあのとき何か落ちたのは、きっとリストの五人のお墓からじゃないと思う。もしそれが風に乗って舞ってきたなら、あり得たかもしれないけど。……」
 と言って、考えこむ顔つきをして黙った。話が途切れ、ひとまず休憩という泉の提案に、風荷は沈思しているらしく返答せず、光四郎は一も二もなく賛成したが、葉月は「もう少し」とあきらめきれない表情でかぶりを振った。
 「僕、7月ぶんは、見られるだけ見ておこうと思う。全国紙だけでも、念のため。みんなは休んでて。……」
 「私も付き合う、葉月くん。ひとりじゃ無理だよ」
 と、風荷は葉月とともにふたたび書架へ視線を移してしまい、ふたりともほんとうにやる気らしい。
 泉と光四郎は顔を見合わせ、光四郎の目顔にうながされた泉が言った。
 「じゃあ、僕と光四郎はちょっと下に行ってくる。息抜き。また戻るから」
 静寂の通路を抜けると、女性職員は変わらずカウンターにいたが、座って何か熱心に読んでいた。四人が調べているあいだ、新たな利用者はひとりも現れなかったようだった。
 葉月と風荷を残し、泉と光四郎はエスカレーターを使わずエレベーターを待った。待ちながら泉が尋ねた。
 「どうする? 外行く?」
 「それでもいいけど……とりあえず俺、こっから出たい。静かすぎて疲れる」
 「僕は水分、欲してるんだけど。どっか近くで買えないかな」
 「地下に自販なかったっけ」
 「ああ、あるね。じゃ、地下でいっか。あんま遠く行くと時間かかるし」
 やってきた無人のエレベーターに乗りこむと、泉が「B1」と表示されたボタンを押した。
 総合受付のフロアまで来てドアがあくと、乗りこんできた数人と同時に、静けさのなかにも人の気配と動きが伝わってきた。ふたりは話すのをやめ、泉は鏡を見て、髪を直した。背後に映ったフロアは来たときより混んでいて、それだけ時間が進んだということらしい。
 エレベーターはさらにくだり、「B1」で止まった。地下はパーキングになっていて、ここの一角にある駐輪場に、泉や光四郎の自転車も置いてある。
 途中から乗ってきた人々はエレベーターホールからパーキングへ出て、駐車券の精算へ向かったがふたりはホールに残った。そこの隅に並んでいる自動販売機。それぞれにペットボトルを買ってパーキングへ出る。
 精算機のそばを避け、ホールを出た横手にある車止めの柵を手ごろな休憩所にした。ふたりの前には車椅子マークが描かれたスペースが数台ぶんと、電気自動車用の充電スペースが数台分。どれも空いている。
 パーキングへ入っては出ていく車のノイズが、断続的に響いているような場所だった。エンジン音やタイヤのグリップ音。ドアが開閉する音。地下だからかよく聞こえる。
 目の覚めるような濃いオレンジ色の小さなスポーツカーが一台、向こうから回ってきてふたりの前を通りすぎた。その四つの丸いテールランプを、光四郎が長く目で追っているのを泉は隣に見て、尋ねた。
 「今の、知ってる車?」
 光四郎は車から目を離さず、それが出口のほうへ消えるのを見届けてから「うん」と答えた。
 「たぶん『エリーゼ』。それか『エキシージ』。どっちか分かんない。あのふたつ、ほぼ見た目一緒だから。でも、『エキシージ』のほうがすごい」
 「どっちも車の名前?」
 「そう。あのとき走ってたやつと同じ――俺が鈴掛で、はじめてそっちに会ったとき」
 「ああ、僕とはーくんに?」
 「そう」
 「そういえば、さっきみたいな車、あのとき坂にいた気がする。山から下りてきたんだよね。光四郎を見つける前。でもオレンジじゃなかったな」
 「緑だった」
 「そうだっけ?」
 「うん」
 光四郎は少し息をついた。
 「疲れた。……マジで。画面見すぎて、目がヘン」
 と、ぼやくように言って目もとへ手をやり、柵に座り直した。
 「俺も、99年の人はちがうと思う。死んだ日付が分かってるのにヒットしないんだから。99年の人、えっと――」
 「伊織さん、ね」
 「だれでもいいよ。とにかく、その人じゃないよ。葉月も風荷も、よくあんな続けられるなって思う」
 「あのふたり、真面目だから。ピュアだし」
 「ふうん? ……何それ。俺、たまに泉の言うこと分かんない」
 「そう?」
 泉はさらりとほほえみ、柵の下段に両足を引っかけた。すぐ隣で同じようにしている光四郎をのぞきこむと、彼は目をそらした。
 「こっち見てよ、光四郎。ねえってば――」
 泉はさらに口角を上げ、自信に満ちたほほえみを浮かべた。こぶしで光四郎の腕を小突くと、むすっとした目が返ってきた。
 「僕に照れてる?」
 「全然。意味分かんない。なんで俺が照れなきゃいけないの」
 「え、マジ? 風荷には照れたのに、僕には照れないの?」
 「えっ? いや、何言ってんの? なんで俺が」
 「さっき、ここに入る前、そうしてなかった? ――え、光四郎、気づいてるよね? 風荷がいつもとちがうの」
 「え? ちがう?」
 「えっ、ウソでしょ? なんで?」
 「そっちこそ、なんで?」
 「もう、光四郎。風荷、きょう、ちょっとだけメイクしてるじゃん。目の下とか頬とか、いつもより血色いいじゃん」
 泉は鼻を鳴らし、こいつ信じられないという顔で光四郎を見つめた。
 「髪だってそう。ちょっとだけ巻いてる。ほんのちょっとだけど――でも、ちゃんと変えてる。だから僕、風荷が僕のメイク褒めてくれたとき、風荷のことも『かわいい』って言ったの。ていうか実際あの子、かわいいじゃん? ……え? そう思わない? なんかだれも何も言わないけど、風荷って普通にかわいいよね?」
 「え……」
 光四郎は言葉に詰まり、微妙な相づちを打った。それを知ってか知らずか泉は続けて、
 「僕はね、まず風荷は眼鏡を変えるかコンタクトにすれば、もっとかわいくなると思う。もとはいいのに自信がないから、わざと地味でいようとしてるみたいで、すごくもったいないよ。せっかくの素材を生かせてない。僕、この件が無事に全部終わったら、プロデュースしようかな。任せてくれないかな」
 「やだって言うと思うけど」
 「光四郎、ほんとに気づいてなかった? きょうの風荷」
 「うん」
 「じゃ、なんであのとき、入り口のとこでさ、入る前、めっちゃ照れたみたいにあの子から目そらしたの?」
 「俺、そんなことしてた?」
 「してたよ。僕、見てたもん。きみ、風荷のこと、恥ずかしくて見てられないみたいだった。ねえ、なんで?」
 「なんでって。知らないよ」
 「ウソ。知ってるくせに。教えなよ」
 「知らないって」
 光四郎はぱっと顔をそむけた。そして昨夜の夢を思い出し、自分の振る舞いと風荷に扮した「彼女」を思い出し、泉の視線を感じてあせった。風荷にじっと見つめられてまともに見返せなかったのは、もちろんその夢のせいだった。
 「あのさ、光四郎。僕、きのうの電話では言わないで、直接きみに訊いてみようと思ってたことがあるんだけど。訊いてもいい? ……」
 口をつぐむ光四郎をさぐるように見、小さく笑うと、泉はさも親しげに彼の肩を抱き始めた。
 「やめろよ」
 「まあまあ。仲良くしようよ。ね? 僕たち、同い年じゃん。そんなめちゃくちゃバリア張らないでよ。あのさ、光四郎って……」
 光四郎がスマートフォンを出したので泉はあとを止めた。光四郎は肩から泉をどかそうとしながら、泉に見えないよう画面を離してだれかとのタイムラインをひらいている。
 「だれ?」
 わざとらしいトーンで泉が訊いた。
 「妹? 友達? それとも美春?」
 「だれでもいいじゃん」
 「よくないよ、光四郎。だってそれが僕の訊きたいことだから。美春でしょ? メッセージ?」
 「うん」
 「さすが一軍。モテる男は大変だねえ。光四郎って絶対、女を泣かすタイプになるよね。もう今からそんな感じだもんね」
 「何それ?」
 「言ったとおりの意味だよ。あのさ、はっきりしないのはわざと? ちゃんと考えたことあるの?」
 「何を?」
 「相手の気持ちだよ、バカ。美春のこと、どう思ってるの?」
 「え……」
 「それと僕、きのうの鈴掛に風荷ときみだけ行くようにしたけど、なんでか分かってる? 分かってなかったら引く」
 「それは……なんとなく……分かるけど」
 「ちゃんと言いなよ、なんで?」
 「えっと……」
 光四郎はうろたえ、「もういいじゃん」と流そうとした。
 「泉には関係ないし」
 「でも僕、風荷と友達だからさ。でも、きみは知らないうちに僕の友達を泣かしそうな気がして。今じゃなくても、そのうち」
 「それ、俺が風荷を泣かすって意味?」
 「さあ? そうとは言ってないけど」
 「言ってるよ。そんなことしない」
 「ほんと? 口だけでしょ?」
 「ちがうよ。ほんとだよ。俺、風荷のこと泣かせたくないし。そんなつもりないよ。勝手なこと言うなよ」
 光四郎は次第に熱くなってきて、むきになって言った。
 「美春はあの人の力で前とちがくなってるけど、美春は俺の友達だよ。俺、女子のことは、みんな普通に友達とかクラスメイトだと思ってるよ。付き合うとか……好きとか思って話したことない。そういうの分かんないよ。あの人が出てくるまで考えたことなかったから、急に言われても知らない。だから風荷のことも、分かんない。分かんないけど、でも――泣かせたいとか思ってない。全然思ってない。俺、泣かさないよ。ちゃんとするよ」
 泉はまばたきした。光四郎がにらんでいる。笑っちゃいけないと思って泉は一瞬ぎゅっと唇を結んだ。が、すぐにほどけた。くすくす忍び笑いがこぼれた。
 「笑ってごめん」
 「なんで笑うの?」
 「なんか恥ずかしくなっちゃった。ごめん。光四郎、きみは男だよ」
 「はあ?」
 「あー、恥ずかしい。あー、もう。びっくり。やめてよ、ドキドキしちゃう」
 「え……」
 「ジョークだけど。ほんとにドキドキしたらやばいでしょ。僕も困るし、きみも今より僕に対してバリア張るでしょ。チームプレーが大事ってときにさ」
 「泉ってさ、葉月といてもそんな感じなの? 葉月、引かない?」
 「え? んー、どうだろ? はーくんとはちっちゃいころから遊んでたから、今さら気にならないんじゃない? はーくん、もとからちょっと変わった子だったし。昔は全然しゃべんなかった。ほんと静かで、じっとしてて」
 「今も静かなほうじゃん。しゃべるけど、静か。あの撮影のときも、俺、葉月には全然気づかなかった」
 「でもはーくん、優しいよ。優しいっていうか……僕さ、じつは低学年のときはもっと男の子らしくしてたんだよね。でも途中からちょっとずつ変わってきて。学校でもいろいろ言われるようになったけど、はーくんだけ、ずうっと同じだった」
 「泉、いじめられてんの?」
 「さあ、いじめなのかな。まあ、ほかの男子にからかわれたり、陰でなんか言われたりはしてるよ。たまに仲良くしてくれる子もいるんだけどね、僕みたいにメイクとかファッションが好きな女子とか。中学行ったらもっと言われるのかなって、前は考えたりしたけど……最近は思わないな。なんでだろ? いつも同じでいてくれるはーくんのおかげかもしれないし、もしかしたらあの人の影響かもしれないし? ……でも、僕がチョーカーをさがすって決めたのは、やっぱりはーくんに頼まれたからだよ。はーくんのためならしょうがないな、って。だってはーくんがいなかったら僕、こんなに自由にできてないと思うからさ」
 「ふうん。……」
 「ていうか、そろそろ戻ったほうがよくない?」
 泉は時計を見て、意外そうに言った。
 「きのうの電話もそうだったけど。なんかきみと話すと、長くなるんだよね。……」
 だれもいないホールで、矢印のボタンを押してのぼりのエレベーターを待つしばしのあいだ、ふたりは無言だった。閉まっているホールの自動ドアを通じて、パーキングのノイズがかすかに聞こえる。
 ボタンの横にある階数表示が着実に地下へとくだってくるのを泉は見ていたが、ようやくそれが一階まで来たとき、ふいに光四郎が言った。
 「あのさ」
 「ん?」
 「あのさ……」
 泉は振り向いた。光四郎はやや離れた位置に立って、泉を見ていた。
 「その顔。その……メイク」
 「え?」
 「そのメイク。顔――。俺、別に似合わないとは言ってないよ」
 彼はそれだけ言うと、急ぐようにそっぽを向いた。
 泉はまばたきした。一度、二度……三度。そのときちょうど下りてきた、エレベーター到着の合図。点灯サインがともる。
 「光四郎……」
 泉は笑顔になった。
 「ありがと!」
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