第34話

文字数 6,355文字

 降りた瞬間、山の匂いがした。バスは発車し、トンネルへ入っていった。ここからさらに十キロほど離れた道の駅が終点で、以降はまた別の路線になる。
 考えていたより交通量があるという印象だった。トンネルを出入りする自動車やバイクの流れは、途切れそうで途切れない。市街地をだいぶはずれた田舎なのだが、郊外のエリア同士を連結する重要道路だけあって、そしてここしかルートがないとなれば利用者は分散することなく自然、こうなるらしい。
 予定を少々遅れた到着だったが、バス移動ということを考えれば想像の範囲内だった。藤ヶ丘では今ごろ、午前のみっつめの授業が始まろうとしている。
 ここまで来れば、あとは歩くのみだった。「姫神トンネル」の手前で、それまでの国道を右にそれた先の一本道。舗装はされているが、中央線を引くほどの路幅はない。姫神パーキングを過ぎて山へと入っていく、ここからはバスのルートからも一般のルートからもはずれる。
 ゆるい坂を歩きだして、葉月が言った。
 「この奥にもなんかあるの? お店」
 その言葉どおり、姫神パーキングから階段を上がったすぐ奥に、さらにもう一軒あった。こちらは姫神パーキングよりもっと本格的なレストラン風で、建物もそのデザインもかなり年季の入った感じだが、ガラス扉の前に『営業中』と立て看板が出ていた。ほかに『コーヒー』、『うどん』、『名物よもぎ大福』、『お食事処』とカラフルな旗がやたらにたくさん、出入り口付近の植えこみに突き立っている。
 「え、やってるの?」
 泉がおどろいて言った。彼はマップで見て存在を知ってはいたが、閉業したものと勝手に思っていた。茶色がかったガラス張りのなかを目を凝らして透かし見ると、人の姿はないが確かに営業はしているようだった。駐車場の隅には団体客用の古いマイクロバスが一台と、乗用車が一台きり。

 『ドライブイン姫神』

 と店名が掲げられていた。メインの道路をそれた立地なのに、ここよりも立ち寄りやすい姫神パーキングのほうは閉業して、こっちはつぶれていないらしい。よく見ると、『テイクアウトできます』の色文字がガラス窓に張りつけられて並んでいる。
 「このへん、ニホンカモシカが出るんだって」
 そこを過ぎて、葉月が言った。たまたま視線がぶつかり、「ふうん」と相づちをうった光四郎が言う。
 「シカ、いんの?」
 「ちがうよ光四郎。ニホンカモシカはシカとは別だよ」
 「シカの一種じゃないの? 亜種」
 「ちがうってば。ニホンカモシカはシカじゃなくてウシ科だよ。だから、ウシの仲間」
 「え、マジ? だって名前がシカじゃん。ウシなの?」
 「名前はシカみたいだけど、ちがうよ。ニホンカモシカはシカみたいに角が枝分かれしてないし、生え変わりもしないんだよ。それにウシと同じで胃がちゃんと四つあって」
 「えっ、ウシって胃が四個あんの? マジ?」
 「マジだよ。だってウシは反芻しなくちゃいけないから」
 「はんすう……」
 「光四郎、これ。ニホンカモシカ」
 泉が声に出して笑い、画像を見せる。
 「反芻って、アレでしょ? 一度のみこんだ胃のなかのものをもう一回、口内に戻してかむ」
 「うわ、マジ? やば……」
 光四郎はぎょっとして眉をひそめたが、一緒に画像をのぞいた風荷が言った。 
 「かわいい。もこもこしてる」
 葉月が横からひょっと顔を寄せ、
 「特別天然記念物なんだって。でも最近、数が増えすぎてる。それで困ってる人もいるよ」
 「なんで? 天然記念物なのに、増えちゃだめなの?」
 光四郎。葉月は神妙にうなずき、
 「畑を荒らすんだって。でも天然記念物だと保護の対象になるから、捕獲も駆除も禁止されてる。イノシシだったらできるけど……だから畑の野菜が荒らされても対策が打てなくて、農家の人たちが困ってる。イノシシ用の柵だと簡単に飛び越えてきちゃうんだよ。近づいても逃げないし、シカとか、ほかの動物が食べなかった野菜も、ニホンカモシカはどんどん食べちゃう。ほんとは山の高いところに生息してるはずなのに、餌を求めて下りてきてる」
 「葉月、なんでそんな詳しいの?」
 「科学館で教わったよ」
 「ふうん……」
 最初のカーブに差しかかると、ガードレールが一部途切れ、そこに看板が立っていた。市が設置したものらしい。光四郎が声に出して読んだ。
 「『ツキノワグマに注意。目撃情報あり』。……クマだって」
 「クマもいるんだね」
 と風荷。うっそうとしたガードレールの向こうを立ち止まってのぞき、少し不安そうな顔をした。
 「人を襲うかな」
 葉月が風荷を振り向いて、笑った。
 「話そう。こうやって話してれば、クマはだいじょうぶ」
 「そうなの?」
 「うん。静かにしないほうがいいよ。クマは警戒心が強いから、僕たちが音で存在を知らせれば近寄ってこない。だから山登りするときはカバンに鈴を付けたりするんだよ。携帯ラジオを流したり……そうすればクマのほうから勝手に避けてくれる」
 「はーくん、こういうとき頼りになるね」
 と、葉月の理科の成績を知る泉。四人は看板を過ぎ、ガードレールに沿ってつづら折りの坂をのぼり始める。
 彼らが現在たどっている道は、登山ルートの一部と言えた。正確には登山口までの道で、ここから続くカーブをのぼりきった先の分岐で道がふたてに分かれ、一方は駐車場を備えた登山口へ、もう一方は目的のトンネルへと通じている。
 最初のカーブを過ぎた現在地からトンネルまで、一キロはあるだろうか。泉が道筋を確認する。マップの表示や、一キロという数字で考えると短いように感じるが、その一キロがずっと曲がりくねった急勾配の坂となると、なかなか大変そうだった。
 ふたつ目のカーブのあとから、道は薄暗くなった。陽の光は左右にひしめく高木にさえぎられ、舗装されてあるだけ歩きやすいが、まず山のなかに入ったという感じ。のぼっていくので、そのぶん傾斜もきつくなっているのが坂の下から見上げてよく分かる。登山客は普通ここは歩かず、上の駐車場まで自動車で行くのだろう。
 みっつ目のカーブのあたりで、風荷の息は少し上がっていた。こういう山道に慣れない。全身が内からぽかぽかあたたまり暑いくらいだが、疲れを見せたくなく無言で歩く。
 「風荷、だいじょうぶ?」
 後ろから葉月の声がした。立ち止まり、振り返る。心配そうな葉月がひとり、こちらを見つめている。最後尾を行きたがるのは癖なのか性分か、なんにせよ疲れているせいではないらしい。
 「平気」と笑って、歩きだす。息は上がるが、疲れて動けないという状態にはほど遠い。高熱に苦しんだときの悪寒より、暑いほうがずっといい。さらにのぼっていく。落ち葉や枝が路上の脇に目立ち、このすぐ下を貫通しているのだろう「姫神トンネル」から、断続的に走行音が響いている。わずかだがせせらぎがあり、秋が深まれば色づくイチョウやモミジが、今はまだ緑のまま、間隔をおいて絵のように綺麗に立っている。
 「光四郎、余裕じゃん」
 先頭の光四郎へ、そのやや後方から泉が呼んだ。泉は立ち止まり、
 「待って、めっちゃ暑いんだけど。僕」
 シャツをはたく。光四郎も立ち止まって振り返ると、
 「俺も暑い。汗かいてる」
 「疲れない?」
 「疲れるけど……」
 「想像以上の坂なんだけど。なんか、歩くとちがう」
 「これ、ずっとこの感じ? 坂?」
 「うん。山だもん。――風荷? 平気? 荷物持とうか?」
 泉と目が合い、風荷は急いで首を横に振る。
 「だいじょうぶ!」
 自分だけ足手まといになるのは嫌だった。葉月も泉も光四郎も、なんだかんだ言って三人とも、風荷の目には余裕そうだった。
 泉を透かして、光四郎とも視線がぶつかった。ぱっとそらして風荷は歩きだしたが、光四郎は止まっている。光四郎に追いついた泉も止まった。風荷は息をととのえながら、地面に集中する。
 ふたりはこちらを見やり、風荷と葉月が自分たちに追いつくのを待って、ふたたび歩を進める。光四郎は泉に何か言って先頭をゆずり、風荷のそばを歩いていたが、先刻よりペースが落ちていた。
 気にしないで先に行って。
 そう言いたかったが、言いづらく、風荷はやはり無言に歩く。
 カーブを重ねていくと、随所にいろいろな看板が立っている。

 『よいこはここであそばない』
 『ここは私有林です』
 『火気厳禁』

 どれも相当に年月を経た看板らしく、錆びたり折れ曲がったり、かたむいたりしていた。
 それらを見ながら、最後尾の葉月は先ほどからしきりに夢を思い出していた。前を行く三人が気づかないうち、そっと時折止まっては、視線を前後左右にめぐらす。
 ここを通っていた。自動車の助手席に乗って、穂坂優子の当時の恋人、松原計の運転でこの坂、このカーブをのぼっていた。夜。闇のなか。そのときと現在……現実の今と、この四方の景色はそう変わらないはず。
 夢で通った。ほかにトンネルがあるのに、ずいぶんおかしなところを走る、という疑念がよぎった。けれどそのときは、このあと自分が殺されるなんて思わなかった……思わなかった?
 穂坂優子が?
 それとも自分が?
 葉月は慌てて胸いっぱいに呼吸をした。ほんの一瞬、めまいがした。
 やがて、またひとつヘアピンカーブを曲がりきると、前方に分岐が見えた。大木の下でふたてに分かれている、一方はさらに上へ。もう一方は――それが目的の道だった。
 「あれだ」
 葉月がつぶやいた。見る前からすでに分かっていたような口調に風荷はどきっとしたが、あえて知らないふりで彼の目線を追う。分岐を左へ行く道。
 泉が立ち止まり、振り向いた。「あれだね」と指で差す。
 「うわ……」
 光四郎が小声に言った。
 「なんか、すご……」
 風荷は黙って前を見つめていた。引きつけられるような冷気が、ここまで届いている。
 四人は分岐を左へ折れ、ぽっかり口をあけているその穴へと近づく。すでにそれは彼らの行く手に見えている。手掘りのブラックホール。U字を逆さまにしたような、独特の意匠。
 近づくほど、あきらかに空気が変わっていく。
 細い支柱のような電信柱が立って、トンネル内にかろうじて電気を引き入れていた。山をくり抜いた当時の形が生々しく残っている。本物。画像で見るのとは比較にならない。
 葉月の足が速まっていた。その凝視する先の、点のような光は出口。今もトンネルとしての機能はちゃんとあり、車両のすれちがいは不可能だが、ここを抜けて道なりに進むとちょうど「姫神トンネル」の出口付近にたどり着き、山を出て、もとのとおり国道へ合流できる。だがもちろん、利用者はかぎりなく少ない。
 完成当初は、馬車が通るためのトンネルだったという。だが時代とともに自動車が普及し、その大型の機械を通過させるには道幅も高さも足りなくなって、新たに現在の「姫神トンネル」の着工に至った。
 入り口の前に立つ葉月に追いつき、三人は息をのんだ。
 トンネルの上部、積み上げられた石はすっかり苔むし、入り口全体をその濃い緑色で覆いつくそうとしていたが、そこにはっきり刻まれている。

 『姫神隧道』

 隧道というのはトンネルを意味する。
 明治30年竣工。のちに「姫神トンネル」が出来たことで、ほぼ用済みとなったこちらは「旧姫神トンネル」と呼ばれ区別されるようになって久しい。だがそれまではこのトンネルが唯一の「姫神トンネル」だった。
 水気を含んだなんとも言えない匂いがしている。周囲の木々や土、そしてこのトンネルを構成する岩石そのものが山の水に濡れているせいらしい。内部はうっすら、煙のようなもやがかかっている。
 ちょっと身のすくむような雰囲気が、確かにあった。
 「さすが。心霊スポットって感じ……」
 泉。ひとり言のつもりだったが、聞こえた光四郎が応じる。
 「実際、そうじゃん。かなり有名らしいし、『旧姫神』」
 「あれ、知ってたの? あえて言わなかったのに、僕」
 「知ってるよ。俺だって一応、自分で調べたし。いろんなのが『出る』って……」
 そのこと――この「旧姫神トンネル」が県下、あるいは全国でも有数の心霊スポットのひとつであることは、風荷も事前に調べて承知していた。これまでその存在さえ知らずにいたが、じつはさまざまの真偽不明の心霊現象が起きるとされる有名な遺構らしい。
 いわく……「旧姫神トンネル」には工事のさなかに埋められた人柱の霊がいる。トンネルの完成を祈願して捧げられた生贄がいたということだが、これは地元住民のあいだでは古くから知られたうわさという。
 またいわく……トンネル内を何度か往復すると呪われる。あるいは小さな子供と、和服姿の母親の霊が通行人へ手を振っている。またあるいは、トンネル内からうめき声が聞こえる。後ろからだれかついてくる。自動車で走行すると窓ガラスに人の手形が現れ……などなど。いっとき全国ネットのテレビでくだんの人柱うんぬんが紹介されたとかで、おかげで現在ではその歴史的な価値ではなく霊的なイメージのほうが定着し、面白半分でおとずれては写真を撮ったり、近ごろでは動画を撮影したりしていく若者がたまにいる――……とか。
 風荷はかすかなため息を吐く。あの夜、鈴掛の墓地にも、まさにそんな「若者」が現れた。あの肝試しと動画配信がすべてを変えた。結果、出たのは人柱の霊でも親子の霊でもなかった。
 「でも、いろんなのが出るから怖いとか、もうそういうのないよ。俺は」
 そばで光四郎が言った。やや自嘲の混じった声音が、まるで同じことを考えていたようだった。
 「同感」
 と泉。冷笑するようなまなざしが足もとへ落ちる。
 「そんなうわさ、怖いとかじゃなくて、もう……かわいいよ。ちょっと霊が出て呪われるくらいなら、まだいいよ。『ホンモノ』はちがうから……」
 空がかげった。木々の梢がざわつき、揺れる。
 少し、風が出てきたようだった。
 「葉月くん?」
 呼んだ風荷に答えず、葉月はふらりと歩みだした。そのままためらうことなくふらふら進んでいくので、わずかに顔色を変えた風荷が「待って」と追いかける。泉と光四郎が慌てて続く。
 「葉月くん、待って……だいじょうぶ? 葉月くん」
 風荷に腕を取られはじめて、葉月ははっとしたように振り向いた。暗がりに目をしばたたくと、風荷の不安そうな表情を認識した。
 「あ……風荷?」
 「だいじょうぶ?」
 「うん。ごめん、僕……なんかヘンだった?」
 「うん……ううん。みんなで行こ」
 「うん」
 風荷にやんわりうながされ、葉月が立ち止まる。ようすが若干おかしいが、風荷は口にしない。すでに察している泉と光四郎が、互いに緊張の視線を交わす。彼らが止まったのはちょうど、一部幅が広く掘られているところで、これはほかのトンネルでも大抵目にする。工事の際に必要だったスペースだろうか。
 内部は寒いほどだった。出口へと向かう一直線にはだれの姿も見えない。風音がして、それが反響する音、息を吸うたび、ここへのぼってくるまでにかいた汗が引いていく。
 すべて花こう岩で出来ているという壁面は、そして天井も、なめらかではなくごつごつしていた。城壁のように堅牢に積み固められている。ひとつずつていねいに重なっている。
 ほんとうに人力でこれをやったのか?
 光四郎はそのつめたくざらついた岩肌を指でなぞった。地面に近いほうは濡れている。足もとはとても暗い。
 「葉月?」
 ふと呼ぶ。それに泉と風荷の呼び声が重なる。
 「はーくん」
 「葉月くん?」
 光四郎が壁を振り向く。
 葉月はその場にうつむいていた。両肩が大きく、ゆっくり……おかしなほどゆっくり上下している。
 返事をしない――……。
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