第25話

文字数 5,927文字

 リストの残り二名が亡くなったとされる年、1979年と1982年に発生した、あるいはその年を含む前後の一定期間にわたって続いた殺人事件というくくりでインターネットで検索をかけると、殺人のみにかぎらずそのほか当時の日本をさわがせたいろいろなタイプの刑事事件が、よく聞くフリーの百科事典や、カテゴリー別のまとめサイトで一覧で見られる。だが、ほんとうにその一覧が当時報道された殺人をすべて網羅しているのか、それとも、現在でも情報の多く残っている一部だけを選んで掲載しているのか判断はつかない。だれが作成し、編集を加えたものか判断がつかない。また掲載されているそれらの情報がどれほど正しいか、それも判断がつかない。
 インターネットでのランダムな検索では、どうしてもこういうことになる。情報が雑多すぎて、調べようとしているこちらの手がかりが少ないからこそ、かえって調べづらい。特定の事件名が分かっていてそれを検索するのと、概要だけなんとなく分かっていて、そこからそれが何の事件に当たるのかさぐっていくのとでは難易度がちがう。霧のなかから見つけだした道が必ずしもゴールへと続く正解であるとはかぎらないように、広大なネットの世界でなんとか見当をつけた情報がじつはまったくのミスリードだった場合、「彼女」の力が強まっている現段階では、悪くすると、二度とスタート地点に「物理的に」戻ってこられなくなる可能性すらある。つまり、「彼女」の力にやられるのが先か、「彼女」の望みをかなえるのが先か。「彼女」はそういつまでも待ってはくれない。
 少なくとも泉は、心ひそかにそう思っていた。口に出すとほんとうになりそうで、そしてほかの三人の恐怖を無駄にあおりたくないから言わないでいるが、そんな気がしていた。あるいはきっと全員分かっている。暗黙の了解。時間は無制限ではない、と。「彼女」に屈して死ぬだれかは、今このときにもきっとどこかにいる。チョーカーを発見しないかぎり、それは決して止まらない。

 その晩遅く、母親と義父が寝室へ行ってから、泉は家にある予備のタブレットを自室に持ちこんでいた。母親がたまに使うが、仕事用ではないので特にロックはかかっていない。
 図書館を出て入ったファストフードの店に居座り、スマートフォンで検索したときは、真っ先にヒットした一覧表をざっと見ただけだった。事件名からいくつか気になるものがあったが、内容は葉月が夢で得た体験とはどれも合わなかった。被害者の事件発生当時の年齢には多少の一致があったが、名前は伏せられていた。ただ、内容は合わなかったにしろ「女性が何者かに殺される」というケース自体は当初、自分たちが考えたより多いようだった。
 それで泉は、追加のリサーチをする気になった。身体は疲れていたがそう簡単に眠りたくはなかったし、タブレットやパソコンをだれにも知られず家で自由に使える可能性があるのは、四人のうち彼だけだった。
 伊織の死んだ99年については、きょうあれだけその没年月の新聞を追い、それでもヒットがなかったので手を出さず、彼は79年と82年に起きたという殺人事件の一覧表をあらためて見返していた。どれにもリンクがあり、クリックすればサイト内の別ページに記載された概要を読める。画面が大きいぶん、スマートフォンより楽に進む。
 今度は事件名に関係なく一件ずつクリックし、泉はていねいに内容をさらっていった。
 ファストフード店で知ったとおり、月単位ではなく年間で見ると、表に記載されているものだけでも、思う以上の殺人がある。そして印象として、けっこう残忍な内容が多い。もし現代の日本でこんな事件が起きたら、メディアというメディアが飛びつき、しばらくはもうそのことしか報道しないかもしれない。
 それくらいショッキングなこと、まるで映画やドラマや小説の題材になりそうなことを加害者側はしている。さらには未解決のまま時効を迎えたいわゆる迷宮入りも多く、これには彼はびっくりした。人を殺した犯人が捕まらないというのが、今の感覚からするとなんだかあり得ない事態に思える。
 だがこれは、やはりこうした有名で大きな事件ばかりが、ネットに長く生きているというあかしかもしれない。あとの事件はすでに世間から忘れ去られているか、それこそ当時の新聞や雑誌にまぎれて、その記録の一部がひっそりと残されているだけかもしれない。
 ともあれ、一覧にはさまざまなケースが載っていた。
 79年、大阪で起きた強姦殺人および死体遺棄事件。警察の捜査がかなりずさんだったようで、証拠不十分のまま容疑者グループを逮捕、起訴。裁判を進めた結果、冤罪。未解決。
 熊本では若い主婦が白昼の畑で暴行を受けたすえ殺害された。首を絞められ、刃物でメッタ刺し。
 東京の幼女殺人。犯人は自宅で被害者の首を絞め、死体をマンションの植えこみに遺棄。
 精神科医の妻とその母親が殺された強盗殺人。犯行動機は「被害者の夫が執刀した精神外科手術によって人間性を奪われたから」。
 彼の住む県下では連続保険金殺人が起きている。犯人二名は国外へ飛んだが、現地の警察に射殺された。
 82年、女子中学生殺害事件。首を切られたことによる失血死。二名が襲われ、ひとりは軽傷で済み助かった。時効が成立し未解決。
 女子高生刺殺事件。被害者は老舗の温泉ホテルの経営者の娘。犯人はそのホテルの元従業員。供述によると被害者の母親に深い恨みがあり、その娘である被害者を就寝中に襲撃した。
 佐賀県で起きた連続女性殺人事件。七名の女性が殺され、そんなに被害者がいたのになんとすべて未解決。五名は絞殺。二名は白骨化していたため死因不明。
 ……その他もろもろ。ほかにも男女五名が相次いで殺されるという連続殺人が起きている。「裏切り者は消す」という犯行目的で……当時の社会に大きな衝撃を与えた事件だったという。犯人は捕まったが、その後の裁判が長かったらしい……。
 いつしか泉は没頭していた。時間を忘れて読んでいた。被害者Aや加害者X。伏せ字にされた当事者の数々。読み進めるうち面白さを感じてしまい、その被害者が自分の求める「彼女」であるかどうかに関係なく、ついページを離れられない。夏休みの読書感想文のために読まされる小説や、国語の教科書に出てくる穏やかなフィクションより、ずっと興味深い。
 これらの被害者のうちのだれかが「彼女」だったとは、しかしどうしても思えなかった。
 自動車で連れていかれた先で殺されるというケースはあった。だがそのほかの点は葉月の主張とちがっている。殺害時の状況や背景を読むほど、その差異ははっきりしてくる。旧道もトンネルもどこにも登場してこない。無差別に狙われたり見ず知らずの男にナンパされたり、そんな場合はいくつかあった。だがこちらのさがす「彼女」は「犯人の男」を愛していなければならないのに、急に出会った赤の他人に対してその感情はおそらくない……「チョーカー」という単語にいたっては、どの事件にも一度も出てこなかった。
 二年ぶんの一覧表、そのリンク先の概要まで含めてひととおり目を通し、「ちがうな」と彼は結論づけた。
 このなかに「彼女」はいない。少なくとも、ここに載っているこれらのメジャーな事件は「彼女」を示していない。
 しかし、そうなると?
 彼は考えた。自分たちの推測は合っているのだろうか。ただでさえ子供だけの非力な、ギリギリの捜索なのに、五人の候補者にもし正解がいなかったら、ほんとうに「彼女」を突きとめられるのか。突きとめられなければチョーカーも何もない。そのありかなんて分かるはずがない。
 風荷のリストに抜けがある? いやそれより、「彼女」はそもそも実在した女性なのか?
 ほんとうに殺されたのか?
 何もかもまちがっているとしたら?
 彼は急に不安を覚えた。もともと期待してはいなかったが、調べるほど不安になっていく。
 どこかの地方新聞のみに掲載があり、その発行元がこの県下ではなかったらきょうの図書館に記録は保管されていない。するとさらに大変なことになる。時間がかかる。「彼女」を示す事件が全国レベルのネタではなくなるほど、特定はむずかしい。しかし殺人であったなら……葉月の夢の体験が正しければ……正しいと信じている。必ずどこかに……必ず……。
 「ああ、もう」
 ため息とともに泉はタブレットを置いた。
 「分かんないな。……分かんない……」
 コツコツと爪で机をたたく。椅子にもたれてまた深い息をつき、刺殺や絞殺でいっぱいになった頭を休めようとする。
 「やっぱネットだけじゃ足りない。これだけで決めつけたら……でも……でも……」
 ちらと時計を見る。時刻を確認した、そのとき。
 それは唐突にやってきた。異変を感じ、泉は硬直した。
 背後でドアのあく音がしたのだった。母親と義父ならまずノックをする。それより前に廊下を歩く足音も聞こえる。
 どちらもなかった。ただ、ドアノブの回る音だけした。
 泉はとっさには振り向けなかったが、振り向かずとも分かっていた。
 気配がする。近い。もう、すぐそこ。背中に近づいている。
 「やばい」と直感した瞬間、バチっと音がして電気が消えた。部屋が真っ暗になった。
 次の呼吸をするのがやっとだった。気づくと、心臓が張り裂けんばかりに激しく脈打っている。
 泉は、画面を点けたままのタブレットに置いていた自分の指がかすかに震えているのを見てとった。恐怖にけいれんしているらしい。心臓が痛い。だから息を吸うのがつらいのかと、理解が遅れてやってくる。
 「彼女」は椅子に座る彼の真後ろに立っているようだった。
 彼のうなじにつめたいものがかかる。吐息のような夜風のような、常温に近い冷気が彼の皮膚をなで、徐々に彼の全身を包み、締め上げていく。背中から腰。肩から腕。首筋を這い、そして喉――そこはひりついて乾いていた。
 発光していたタブレットの画面が消え、視界が闇と化す。
 静寂。
 そこに「彼女」がいる。
 「やめてよ」
 泉はささやいた。喉がからからだった。
 「殺してもだめ。あなたに僕は殺せない」
 まとわりつく冷気が、人の手のようにも思える。夢か現実か分からない、だが触れられている。
 悲鳴をこらえ、次の呼吸をした。
 「殺さないで。それより、あなたも力を貸して。僕たちは、あなたのためにさがしてる。あなたのために見つけたいと思ってる。だからこんなに一生懸命になってるでしょ。僕たちみんな必死なの、あなたがとても強いから。分かってくれるといいんだけど……」
 汗をつたわせ、ささやく間に彼は知らず笑っていた。
 「だれもあなたを傷つけたくない。あなたはちがうの? あなたがだれか知りたい。あなたが教えてくれないなら、僕たちから見つけに行く。約束する。必ず。だから力を貸して。僕らを信じてよ。――おねえさん」
 返答はなかった。だが顎下に指でタッチされたような、ふいのやわらかい感触があり、すっと冷気が引くと、全身に回っていた締めつけが消えた。ドクドクという脈動が、耳の奥底に響いている。
 数秒後、部屋の電気が点いた。それは音もなく復旧し、だがタブレットの画面は暗いままで、彼は椅子から少しも動けずその画面のなかに映る自分の背後を凝視した。
 いない。人の姿はないように見える。だが油断できない。深呼吸をして振り返る。
 やはりいない。まるで何事もなかったかのように、見慣れた自室の景色がある。しかしドア――確かにノブが回された音を聞いたが、それは閉まっていた。
 泉は脱力し、はあと大きく息をついた。汗をぐっしょりかいていた。時計を見ると、さっき時刻を確認したときから、二分と経っていない。
 「彼女」は去った。だが自分たちは「彼女」の手中にある。夢か幻覚か、覚醒しているか眠っているか、こちらの状態はもはや問題ではなくなっている。その証拠に自分は今、起きていた。そして「彼女」を身体に感じた。
 「彼女」はいつでも現れることができる。
 泉の背筋をさらなる冷や汗がつたった。
 ひょっとして危なかった? あそこで「やめて」と制止をかけていなかったら、やられていた?
 危なかった――。
 心臓が落ち着きを取り戻すと、今度は首にうずきを感じ始めた。思い出すたび感じるような、筋肉痛に似ている。
 彼は立ち上がるとミラーを手に取った。首もとを映してみて、はっとした。
 「うわ……」
 紫色の小さな斑点が五つ、喉の上に並んでいた。指で非常に強く押した跡のような……さわると、ズキンとにぶい痛みが走った。あざになっている。さっきには分からなかったが、相当の力がここにかかっていたらしい。
 ほんとうに危なかったのだと彼は悟った。まぎれもない「彼女」の痕跡だと思った。
 これは「彼女」の指?
 五つの斑点に自分の指を重ねてみる。「彼女」の存在を実感する痛みが、彼の表情を動かす。
 名前を知らないから「おねえさん」と呼んだ。自分たちは味方だと分かってくれただろうか? あざになっているのはショックだったが、最後にここに触れられたときの感覚にこんな痛みはなかった。それはむしろやわらかくて……。
 「ふしぎ……」
 そのときスマートフォンがアプリケーションを通じて着信を知らせて、彼はびくっと肩を上げた。
 真夜中のコール。すっかり当たり前になっている。発信者の名前を見て安堵すると、彼はすぐに応じた。
 「りあ?」
 「あ、泉くん」
 「どうしたの」
 「なんにも。何してるかなーって思って……いつもと同じ理由だよ。寝てた?」
 「ううん」
 りあの声を聞くと、泉は自分が完全に現実へと戻された気がした。りあは彼へプレゼントしたアイシャドウのことを話し、彼は「きょう付けたよ」と言って、きょうの出来事をまた思い返す。
 「電話、迷惑じゃなかった?」
 「全然。ナイスタイミング」
 しばらく話して通話を切る。そのあいだに汗が引き、寒くなっていた。シャワーを浴びて着替えるつもりで、静かに部屋を出る。
 洗面台の鏡の前で上半身を裸にしたとき、彼はあらためて自分の姿と向き合い、よく見てみた。すると「彼女」が刻んだ感触を思い出し、わけもなく目をそらしたくなった。
 表現に困る、気まずいような恥ずかしいような戸惑い。今は筋肉痛みたいだが、さっきはやわらかかった。たぶんそのせいで、思い出している。「彼女」の手……「おねえさん」の指。あざになって残っている……。
 ひそかに、ゆっくり呼吸をした。そして鏡をそっと見る。
 「うん」
 彼は苦笑を浮かべ、つぶやいた。
 「やっぱり男の子だな。……」
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