第37話
文字数 5,835文字
四人は集中した。互いの姿を近くに見たり、声をかけたりすることも次第になくなった。だが収穫がないまま三、四十分が過ぎたとき――突然だった――風の感じが変わった。彼らはかまわずさがし続けた。だがそのうちぽつぽつと吹き流されるようにこまかいものが、頭上から落ちてきた。
雨――天気予報も言っていた。
彼らはそれでもかまわず、神経の大半を自分たちの足もとやその周辺にそそいでいた。雨天での試合や練習の経験が多々ある光四郎は、とりわけ気にならなかった。泉は立ち上がると手でひさしを作り、勘弁してほしそうに天を仰いだが、葉月は雨が降っていることに気がついてもいないようだった。
そんなふたりを視界に収めたあと、風荷はどこだろうと光四郎は思った。そういえばしばらく姿を見ていないようにも思い、その場に伸び上がって視線を走らす。山林をバックに、白くけぶるような雨。それが邪魔をする。まばたいて、まつげに付く雨粒を落とす。
離れたところに風荷の背中がちらと見えた。横手に木々がそびえ、井戸を起点にだれより遠くにいる。その場にしゃがむような体勢で、動かない。
光四郎は呼ぼうとした口を閉じた。茂みに少々足を取られながら急ぐ。風荷は背を向けており、光四郎が近づく足音が聞こえないのか、振り返らない。
「風荷――?」
すぐ背後まで来ると、茂みのなかで風荷はうずくまるように身を小さく丸めていた。
「風荷」
慌ててその背に手を置くと、風荷はようやく気づいたように顔を上げ、「あ……」と言いかけて上体をぐらつかせ、どんと尻もちをついた。光四郎はその場に膝をつく。
「だいじょうぶ? 気分悪い?」
「ううん、だいじょうぶ……」
「具合悪いんじゃないの?」
「ちょっと、さっきめまいがして。それだけ……なんでもない」
だが肩を上下させ、呼吸がやや不安定だった。
「休みなよ。傘、持ってる?」
風荷はうなずいた。予報を見て、折りたたみを持ってきていた。
「じゃあそれ差して、道のほう戻ってなよ。トンネルのそばなら、ここより雨、来ないと思う」
「だいじょうぶ」
「でも」
「平気。まだ……時間があるなら、私もさがす。だいじょうぶだから……」
と、時刻を知ろうとしたのかスマートフォンを出したが、その爪先がかすかに震えている。
「全然だいじょうぶじゃないじゃん」
光四郎は眉根を寄せた。
「休みなよ。あとは俺らがさがすから」
「いいの、ほんとに平気――平気なの。まだ、やる。さがさなきゃ」
「…………」
「ありがと、光四郎くん」
「なんで?」
「え?」
「なんでそんな、強がんの?」
「え……」
風荷は顔を上げた。少し怖がるようなまなざしに、頬が青白い。
眼鏡のレンズに雨粒がたくさん付いていた。風荷は眼鏡をはずすと、上着の袖で拭こうとした。
「強がってないよ、私……ちがうよ。ほんとに平気なの」
「ウソだ」
「ウソじゃない」
「もうやめろよ、そういうの――なんで言わないの?」
光四郎は眼鏡を拭きかけている風荷の手首をつかんだ。衝動に任せ、強く引いた。
眼鏡が草の上に落ちた。
「なんで言わないの? ……寒いとか疲れたとか、苦しいとか……怖いとか……むかつくとか……」
抱きしめた風荷はつめたかった。
「ほら、やっぱ寒いんじゃん。なんで言わないの? 言いなよ」
「…………」
「言わなきゃ、分かんない。言えってば。寒い?」
「私……」
「言って」
風荷はびくっと震えた。消えそうな声で答えた。
「寒い……」
表情は光四郎に見えなかった。両腕に力をこめると、自分の胸で風荷がますますうつむいたのが分かった。
その不規則な呼吸に合わせ、肩の上下の振動が伝わる。
しっとり濡れていく景色が、雨に香っていた。
「ちゃんと言って。そしたら分かるから。そしたら風荷のこと、もっと……分かるように……なるし……」
光四郎は急に悪い気がしてきて、黙った。
どれくらい経ったか、ふいに身じろぎして上体を引いた風荷の頬に、赤みが差していた。眼鏡を拾って拭き、かけ直すのを光四郎は待った。
「休んでさ、ほんとに平気になったら戻りなよ。まだ時間あるから」
「うん」
「傘」
「うん。持ってる……」
ありがとう、と風荷は小さく言った。そして湿り気を帯びた髪を直した。
光四郎は無言に受け流した。身体の奥が熱かった。
風荷が差した傘に入るか入らないかの肩口を微妙に意識し、光四郎は風荷を連れて戻った。
「泉――」
折よく泉が立ち上がったので、うっとうしげに草を分けながら伝えた。
「風荷、ちょっと休憩。雨だし」
泉は風荷を見ると、気づかわしげにほほえんだ。
「だいじょうぶ?」
「ごめん、泉くん……ちょっと休んだら戻るから」
「いいよ。むしろ休みな。熱、出るよ。――はーくん!」
葉月ははじかれたようにその場に立ち上がり、十数メートルほど向こうから首をかしげこちらを見た。前髪をひたいに張りつけている。泉が風荷のことを言うとこっくりうなずき、茂みのなかを若干よろけ気味に走ってきた。
「風荷、だいじょぶ?」
「うん」
「僕、レインコートあるよ。使う?」
「ううん、平気」
「いいの? 欲しかったら言ってね」
「うん。――言うね」
傘を持ち上げ、かたむけて空をうかがう。雨が顔に当たる。
時間はまだある。
光四郎と葉月が離れたのを見計らい、泉はそっと風荷へ近寄った。
「ねえ、風荷」
泉は意味深長の顔をして風荷を見つめ、その頭にぽんと手を置く。戸惑う風荷に、秘密めいた笑みを浮かべた。
「これが解決したらさ……僕、風荷にメイクしてみてもいい?」
「えっ?」
「だめ? 前から思ってたんだけど」
「えっ……ううん。だめじゃない、けど……」
「それに合う服も一緒に考えていい? 髪も、全部」
「う、うん」
「やった」
泉はうれしそうに言った。
「最高にかわいくしてあげる」
「え……」
「風荷がかわいくないって言ってるんじゃないよ? かわいいから、もっとかわいくしてあげるって意味」
風荷は赤くなった。
「光四郎には内緒ね。おどろかすつもりだから……」
泉はふふと笑って光四郎をいちべつすると、濡れた髪をかき上げ、風荷の耳もとに言った。
「きっと照れて真っ赤になるよ」
風荷はさらに赤くなり、よく分からない返事をして傘に自分を隠す。
ぽたぽたと水滴がしたたった。雨が散る。風荷はトンネルを出たあたりを目指して草むらを戻る。
霧のなかを歩くようだった。さっき、茂みから腰を上げたとき急にめまいを覚え、うずくまったがなかなか治らず、目を閉じて呼吸していた。地震ではないのに自分が揺れているようで、動悸が速まり、寒さと不安に冷や汗を出していた。光四郎が背後に来たのはそんなときだった。
石積みの先端まで戻ると、その石壁と頭上高い木々とがある程度に雨をさえぎっていた。トンネルは見えない。だがそこから来るつめたい風があきらかに空気を変えているせいで、それがすぐそばと感じる。
草むらに点々とする葉月と泉と光四郎を、風荷は立って見つめた。さがすことをしないでいると、身体は休まるが心は落ち着かない気がした。いろいろなことを考えてしまう、これからどうなるのか? チョーカーがここにはないなら、次はどこをさがすべき? 何をすればいい? ほかにやれることは? けれどこうしているうちに、まただれかが死んでしまうのではないか。直弥が助かったのはほんとうによかった……けれど次は分からない。早く見つけなくては。早く。早く……。
五分、十分と経っていく。こんなに頑張ってさがしているのに、見つからないことがもどかしい。
さらに一分。二分。
自分も戻ろうと風荷は決めた。雨に降られながら、傘もなくさがし続ける三人をこれ以上、ただ見ているのが情けなかった。これ以上、休んでいたくない。
時刻を確認したスマートフォンから目を上げる。
「みんな――……」
今からそっちに戻る。
三人へそう声を張りかけたとき、トンネルのほうから音がした。
風荷は左へ顔を向けた。
耳をすます。
自動車の走行音と思われた。トンネル内の石や砂にタイヤがこすれて当たるような、じゃりじゃりした音。
だんだん近づいてくる。まちがいない、トンネルを通行している。
道沿いを風荷は数歩下がった。ヘッドランプの黄色い光が一等星のようにきらめいている。
こちらへ来る。
「みんな! ねえ、みんな!」
風荷は大声を上げていた。
「だれか来てる! 車が――!」
草むらに三人が立ち上がった。びっくりしたようにトンネルのほうを見た。
風荷は爆発的な緊張に胸を押さえた。息が詰まった。なぜこんなに緊張するのか分からなかった。下に「姫神トンネル」があるのに、わざわざここを通行する自動車がいるとは思わなかった。まさか――松原計の名が風荷の脳裏をかすめていく。まさか。あり得ない。あり得ない。でも、もし……もしあり得たら問いただそう――チョーカーはどこ――……?
自動車が現れた。白い車だった。ヘッドランプが消え、それは風荷を通り過ぎ、道端に寄って止まった。停車したことで風荷は息をのんだ。緊張のあまり心臓が痛かった。
なんで?
なんで止まるの……?
運転席側のドアがあいた。にゅっと突き出た足に黒い革靴。黒い長ズボン。
降りてきたのは初老に近い男性だった。四角いフレームの眼鏡をかけ、シャツに作業着のような上着をはおり、温厚そうな顔立ち。男性は車を降りると、傘は持たず風荷のほうへと足早に向かってきた。
「どうかしたの?」
こちらへ近づき、男性が尋ねた。心配しているようだった。
「どうしたの? こんなところで……何してるの。あれは――」
答えない風荷から視線を移した男性は、草むらの葉月と泉と光四郎を見やり、さらに案ずる顔つきになった。
「どうしたの。そっちはあんまり行かんほうがいい、危ないよ。深い井戸があってね――きみたち、何しとるの? 学校は休み?」
風荷は答えられなかった。
「雨のなかこんなとこにひとりでいるから、どうしたかと思ってね……」
そのとき葉月は目をこすった。
だれ?
胸をえぐるような鮮烈な疑問。
だれ?
胸を突き破った疑問は刃を返し、ふたたび彼の胸に刺さった。芯までえぐり、激しく問う。
だれ? だれ? だれ?
葉月は何度もまばたいた。その目が大きくなる。
道沿いに立つ風荷の傘。風荷が困ったように見上げている。その隣に来てこっちを見ている。真っすぐ見ている。
あの人……知らない……だれ? あの顔……あの……あの……。
「あ……あ……」
葉月は喉を震わせた。
霧雨にかすむ。立ってこっちを見ている、あの表情……あの……あの……あのときもそうだった。あのときと同じ……同じ……変わらない……覚えている。
覚えている。
覚えている。
「あ……あ……あ……」
葉月は絶叫した。
「兄さん!」
駆けだすと、また叫んでいた。
「兄さん! ……兄さん!」
息がはずむ。視界が揺れている。
目をこする。
「兄さん……!」
葉月は声のかぎり呼んでいた。
「襄一 兄さん――……!」
そのとき風荷の隣で、男性が一歩、背後によろめいた。
葉月が叫びながら走ってくる。ぎょっとした顔で立ちすくんでいた泉と光四郎が数秒遅れに追う。
「兄さん――!」
よろめいた男性の目に、驚愕が浮かんでいた。半びらきの口が、かすかにわなないている。
風荷は言葉をうしなっていた。草むらを駆けてくる三人と、自分の横にいる男性を、茫然と見比べていた。
泉と光四郎がそれぞれ葉月を呼ぶ。茂みをかき分け、雨に邪魔され、走りづらそうにしている。
はあはあと息を切らし、葉月は風荷の近くまで来て止まった。追いついた泉と光四郎。呼吸をととのえている。
「あの……」
葉月は言いかけ、男性を見つめた。
「あの。……僕たち」
声が詰まった。言いづらい。けれど言いたい。自分たちがしていること。今こそ。
「葉月――」
光四郎が止めようと、膝についていた手を上げ葉月を見る。
「葉月、言わないほうが」
「はーくん」
泉にも制止の思いがよぎる。が、声が続かない。胸を押さえ息を吸う。
「僕たち……」
葉月は苦しそうになった。
「僕たち……あの……あの……あの」
はっと息を継ぎ、上体を起こすと胸を張った。
「さがしてるんです……!」
声が響く。葉月のような、そうでないような。
「僕たち、さがしてるんです! さがしてる……殺された……ここで……あの人の! 優子さんの!」
勢いを得て、彼はふたたび叫んだ。
「穂坂優子さんのチョーカーをさがしてるんです! チョーカーです! 知りませんか?」
男性はまた一歩、背後へよろめいた。立っているのが精いっぱいのようで、狼狽に満ちたまなざしに葉月を眺めた。その顔が徐々に蒼白になっていく……。
「いや……これは……どういう……どう……」
男性は葉月から泉へ、光四郎へ。そして隣の風荷を順に眺めた。井戸のほうを見やり、感慨にふけるように唇をかみ、わけが分からないという顔で最後に、こう言った。
「優子は僕の妹だけども。……」
風荷の頭を電撃がつらぬいた。
『警察によると、優子さんは二年前、一九八二年七月三十一日に自宅を出たきりゆくえが分からなくなっており……』
思い出した。
あの新聞記事。
『……家族が本紙「尋ね人欄」にてその所在をさがしたが見つからず、以来、失踪状態となっていた。
優子さんは……』
そうだった。書いてあった。
『……優子さんは出かける直前、ボーイフレンドからドライブに誘われたと自身の兄へ話していた』
風荷は男性を凝視した。
この人が優子さんのお兄さん……この人が。この人が……この人が……。
男性は深いおどろきと困惑にうたれた顔で、
「チョーカーというのは……それは……」
と、言いかけた声をかすれさせた。
「それはもしかして、僕があの子へ贈ったものかな。あの子が死ぬ以前……」
遠い記憶をさぐるように、言葉を切る。
「あの子が……そう……そうだね……そうだった」
胸を上下させ、男性は気力を保つように継いだ。
「僕が贈ったチョーカーだよ。あの子がいつも着けていた……『お守りにする』と言ってね」
風荷の足から力が抜けた。
「風荷――!」
そばにいた葉月が慌てて支えた。
雨――天気予報も言っていた。
彼らはそれでもかまわず、神経の大半を自分たちの足もとやその周辺にそそいでいた。雨天での試合や練習の経験が多々ある光四郎は、とりわけ気にならなかった。泉は立ち上がると手でひさしを作り、勘弁してほしそうに天を仰いだが、葉月は雨が降っていることに気がついてもいないようだった。
そんなふたりを視界に収めたあと、風荷はどこだろうと光四郎は思った。そういえばしばらく姿を見ていないようにも思い、その場に伸び上がって視線を走らす。山林をバックに、白くけぶるような雨。それが邪魔をする。まばたいて、まつげに付く雨粒を落とす。
離れたところに風荷の背中がちらと見えた。横手に木々がそびえ、井戸を起点にだれより遠くにいる。その場にしゃがむような体勢で、動かない。
光四郎は呼ぼうとした口を閉じた。茂みに少々足を取られながら急ぐ。風荷は背を向けており、光四郎が近づく足音が聞こえないのか、振り返らない。
「風荷――?」
すぐ背後まで来ると、茂みのなかで風荷はうずくまるように身を小さく丸めていた。
「風荷」
慌ててその背に手を置くと、風荷はようやく気づいたように顔を上げ、「あ……」と言いかけて上体をぐらつかせ、どんと尻もちをついた。光四郎はその場に膝をつく。
「だいじょうぶ? 気分悪い?」
「ううん、だいじょうぶ……」
「具合悪いんじゃないの?」
「ちょっと、さっきめまいがして。それだけ……なんでもない」
だが肩を上下させ、呼吸がやや不安定だった。
「休みなよ。傘、持ってる?」
風荷はうなずいた。予報を見て、折りたたみを持ってきていた。
「じゃあそれ差して、道のほう戻ってなよ。トンネルのそばなら、ここより雨、来ないと思う」
「だいじょうぶ」
「でも」
「平気。まだ……時間があるなら、私もさがす。だいじょうぶだから……」
と、時刻を知ろうとしたのかスマートフォンを出したが、その爪先がかすかに震えている。
「全然だいじょうぶじゃないじゃん」
光四郎は眉根を寄せた。
「休みなよ。あとは俺らがさがすから」
「いいの、ほんとに平気――平気なの。まだ、やる。さがさなきゃ」
「…………」
「ありがと、光四郎くん」
「なんで?」
「え?」
「なんでそんな、強がんの?」
「え……」
風荷は顔を上げた。少し怖がるようなまなざしに、頬が青白い。
眼鏡のレンズに雨粒がたくさん付いていた。風荷は眼鏡をはずすと、上着の袖で拭こうとした。
「強がってないよ、私……ちがうよ。ほんとに平気なの」
「ウソだ」
「ウソじゃない」
「もうやめろよ、そういうの――なんで言わないの?」
光四郎は眼鏡を拭きかけている風荷の手首をつかんだ。衝動に任せ、強く引いた。
眼鏡が草の上に落ちた。
「なんで言わないの? ……寒いとか疲れたとか、苦しいとか……怖いとか……むかつくとか……」
抱きしめた風荷はつめたかった。
「ほら、やっぱ寒いんじゃん。なんで言わないの? 言いなよ」
「…………」
「言わなきゃ、分かんない。言えってば。寒い?」
「私……」
「言って」
風荷はびくっと震えた。消えそうな声で答えた。
「寒い……」
表情は光四郎に見えなかった。両腕に力をこめると、自分の胸で風荷がますますうつむいたのが分かった。
その不規則な呼吸に合わせ、肩の上下の振動が伝わる。
しっとり濡れていく景色が、雨に香っていた。
「ちゃんと言って。そしたら分かるから。そしたら風荷のこと、もっと……分かるように……なるし……」
光四郎は急に悪い気がしてきて、黙った。
どれくらい経ったか、ふいに身じろぎして上体を引いた風荷の頬に、赤みが差していた。眼鏡を拾って拭き、かけ直すのを光四郎は待った。
「休んでさ、ほんとに平気になったら戻りなよ。まだ時間あるから」
「うん」
「傘」
「うん。持ってる……」
ありがとう、と風荷は小さく言った。そして湿り気を帯びた髪を直した。
光四郎は無言に受け流した。身体の奥が熱かった。
風荷が差した傘に入るか入らないかの肩口を微妙に意識し、光四郎は風荷を連れて戻った。
「泉――」
折よく泉が立ち上がったので、うっとうしげに草を分けながら伝えた。
「風荷、ちょっと休憩。雨だし」
泉は風荷を見ると、気づかわしげにほほえんだ。
「だいじょうぶ?」
「ごめん、泉くん……ちょっと休んだら戻るから」
「いいよ。むしろ休みな。熱、出るよ。――はーくん!」
葉月ははじかれたようにその場に立ち上がり、十数メートルほど向こうから首をかしげこちらを見た。前髪をひたいに張りつけている。泉が風荷のことを言うとこっくりうなずき、茂みのなかを若干よろけ気味に走ってきた。
「風荷、だいじょぶ?」
「うん」
「僕、レインコートあるよ。使う?」
「ううん、平気」
「いいの? 欲しかったら言ってね」
「うん。――言うね」
傘を持ち上げ、かたむけて空をうかがう。雨が顔に当たる。
時間はまだある。
光四郎と葉月が離れたのを見計らい、泉はそっと風荷へ近寄った。
「ねえ、風荷」
泉は意味深長の顔をして風荷を見つめ、その頭にぽんと手を置く。戸惑う風荷に、秘密めいた笑みを浮かべた。
「これが解決したらさ……僕、風荷にメイクしてみてもいい?」
「えっ?」
「だめ? 前から思ってたんだけど」
「えっ……ううん。だめじゃない、けど……」
「それに合う服も一緒に考えていい? 髪も、全部」
「う、うん」
「やった」
泉はうれしそうに言った。
「最高にかわいくしてあげる」
「え……」
「風荷がかわいくないって言ってるんじゃないよ? かわいいから、もっとかわいくしてあげるって意味」
風荷は赤くなった。
「光四郎には内緒ね。おどろかすつもりだから……」
泉はふふと笑って光四郎をいちべつすると、濡れた髪をかき上げ、風荷の耳もとに言った。
「きっと照れて真っ赤になるよ」
風荷はさらに赤くなり、よく分からない返事をして傘に自分を隠す。
ぽたぽたと水滴がしたたった。雨が散る。風荷はトンネルを出たあたりを目指して草むらを戻る。
霧のなかを歩くようだった。さっき、茂みから腰を上げたとき急にめまいを覚え、うずくまったがなかなか治らず、目を閉じて呼吸していた。地震ではないのに自分が揺れているようで、動悸が速まり、寒さと不安に冷や汗を出していた。光四郎が背後に来たのはそんなときだった。
石積みの先端まで戻ると、その石壁と頭上高い木々とがある程度に雨をさえぎっていた。トンネルは見えない。だがそこから来るつめたい風があきらかに空気を変えているせいで、それがすぐそばと感じる。
草むらに点々とする葉月と泉と光四郎を、風荷は立って見つめた。さがすことをしないでいると、身体は休まるが心は落ち着かない気がした。いろいろなことを考えてしまう、これからどうなるのか? チョーカーがここにはないなら、次はどこをさがすべき? 何をすればいい? ほかにやれることは? けれどこうしているうちに、まただれかが死んでしまうのではないか。直弥が助かったのはほんとうによかった……けれど次は分からない。早く見つけなくては。早く。早く……。
五分、十分と経っていく。こんなに頑張ってさがしているのに、見つからないことがもどかしい。
さらに一分。二分。
自分も戻ろうと風荷は決めた。雨に降られながら、傘もなくさがし続ける三人をこれ以上、ただ見ているのが情けなかった。これ以上、休んでいたくない。
時刻を確認したスマートフォンから目を上げる。
「みんな――……」
今からそっちに戻る。
三人へそう声を張りかけたとき、トンネルのほうから音がした。
風荷は左へ顔を向けた。
耳をすます。
自動車の走行音と思われた。トンネル内の石や砂にタイヤがこすれて当たるような、じゃりじゃりした音。
だんだん近づいてくる。まちがいない、トンネルを通行している。
道沿いを風荷は数歩下がった。ヘッドランプの黄色い光が一等星のようにきらめいている。
こちらへ来る。
「みんな! ねえ、みんな!」
風荷は大声を上げていた。
「だれか来てる! 車が――!」
草むらに三人が立ち上がった。びっくりしたようにトンネルのほうを見た。
風荷は爆発的な緊張に胸を押さえた。息が詰まった。なぜこんなに緊張するのか分からなかった。下に「姫神トンネル」があるのに、わざわざここを通行する自動車がいるとは思わなかった。まさか――松原計の名が風荷の脳裏をかすめていく。まさか。あり得ない。あり得ない。でも、もし……もしあり得たら問いただそう――チョーカーはどこ――……?
自動車が現れた。白い車だった。ヘッドランプが消え、それは風荷を通り過ぎ、道端に寄って止まった。停車したことで風荷は息をのんだ。緊張のあまり心臓が痛かった。
なんで?
なんで止まるの……?
運転席側のドアがあいた。にゅっと突き出た足に黒い革靴。黒い長ズボン。
降りてきたのは初老に近い男性だった。四角いフレームの眼鏡をかけ、シャツに作業着のような上着をはおり、温厚そうな顔立ち。男性は車を降りると、傘は持たず風荷のほうへと足早に向かってきた。
「どうかしたの?」
こちらへ近づき、男性が尋ねた。心配しているようだった。
「どうしたの? こんなところで……何してるの。あれは――」
答えない風荷から視線を移した男性は、草むらの葉月と泉と光四郎を見やり、さらに案ずる顔つきになった。
「どうしたの。そっちはあんまり行かんほうがいい、危ないよ。深い井戸があってね――きみたち、何しとるの? 学校は休み?」
風荷は答えられなかった。
「雨のなかこんなとこにひとりでいるから、どうしたかと思ってね……」
そのとき葉月は目をこすった。
だれ?
胸をえぐるような鮮烈な疑問。
だれ?
胸を突き破った疑問は刃を返し、ふたたび彼の胸に刺さった。芯までえぐり、激しく問う。
だれ? だれ? だれ?
葉月は何度もまばたいた。その目が大きくなる。
道沿いに立つ風荷の傘。風荷が困ったように見上げている。その隣に来てこっちを見ている。真っすぐ見ている。
あの人……知らない……だれ? あの顔……あの……あの……。
「あ……あ……」
葉月は喉を震わせた。
霧雨にかすむ。立ってこっちを見ている、あの表情……あの……あの……あのときもそうだった。あのときと同じ……同じ……変わらない……覚えている。
覚えている。
覚えている。
「あ……あ……あ……」
葉月は絶叫した。
「兄さん!」
駆けだすと、また叫んでいた。
「兄さん! ……兄さん!」
息がはずむ。視界が揺れている。
目をこする。
「兄さん……!」
葉月は声のかぎり呼んでいた。
「
そのとき風荷の隣で、男性が一歩、背後によろめいた。
葉月が叫びながら走ってくる。ぎょっとした顔で立ちすくんでいた泉と光四郎が数秒遅れに追う。
「兄さん――!」
よろめいた男性の目に、驚愕が浮かんでいた。半びらきの口が、かすかにわなないている。
風荷は言葉をうしなっていた。草むらを駆けてくる三人と、自分の横にいる男性を、茫然と見比べていた。
泉と光四郎がそれぞれ葉月を呼ぶ。茂みをかき分け、雨に邪魔され、走りづらそうにしている。
はあはあと息を切らし、葉月は風荷の近くまで来て止まった。追いついた泉と光四郎。呼吸をととのえている。
「あの……」
葉月は言いかけ、男性を見つめた。
「あの。……僕たち」
声が詰まった。言いづらい。けれど言いたい。自分たちがしていること。今こそ。
「葉月――」
光四郎が止めようと、膝についていた手を上げ葉月を見る。
「葉月、言わないほうが」
「はーくん」
泉にも制止の思いがよぎる。が、声が続かない。胸を押さえ息を吸う。
「僕たち……」
葉月は苦しそうになった。
「僕たち……あの……あの……あの」
はっと息を継ぎ、上体を起こすと胸を張った。
「さがしてるんです……!」
声が響く。葉月のような、そうでないような。
「僕たち、さがしてるんです! さがしてる……殺された……ここで……あの人の! 優子さんの!」
勢いを得て、彼はふたたび叫んだ。
「穂坂優子さんのチョーカーをさがしてるんです! チョーカーです! 知りませんか?」
男性はまた一歩、背後へよろめいた。立っているのが精いっぱいのようで、狼狽に満ちたまなざしに葉月を眺めた。その顔が徐々に蒼白になっていく……。
「いや……これは……どういう……どう……」
男性は葉月から泉へ、光四郎へ。そして隣の風荷を順に眺めた。井戸のほうを見やり、感慨にふけるように唇をかみ、わけが分からないという顔で最後に、こう言った。
「優子は僕の妹だけども。……」
風荷の頭を電撃がつらぬいた。
『警察によると、優子さんは二年前、一九八二年七月三十一日に自宅を出たきりゆくえが分からなくなっており……』
思い出した。
あの新聞記事。
『……家族が本紙「尋ね人欄」にてその所在をさがしたが見つからず、以来、失踪状態となっていた。
優子さんは……』
そうだった。書いてあった。
『……優子さんは出かける直前、ボーイフレンドからドライブに誘われたと自身の兄へ話していた』
兄へ話していた
。風荷は男性を凝視した。
この人が優子さんのお兄さん……この人が。この人が……この人が……。
男性は深いおどろきと困惑にうたれた顔で、
「チョーカーというのは……それは……」
と、言いかけた声をかすれさせた。
「それはもしかして、僕があの子へ贈ったものかな。あの子が死ぬ以前……」
遠い記憶をさぐるように、言葉を切る。
「あの子が……そう……そうだね……そうだった」
胸を上下させ、男性は気力を保つように継いだ。
「僕が贈ったチョーカーだよ。あの子がいつも着けていた……『お守りにする』と言ってね」
風荷の足から力が抜けた。
「風荷――!」
そばにいた葉月が慌てて支えた。