第29話
文字数 4,267文字
帰り道は思ったほど寒くなかった。光四郎はウインドブレーカーをはおらず自転車を押していた。
隣を風荷が歩く。歩行者よりもはるかに自動車の数の多いこの市街は、暗くなると、ヘッドライトやウインカーや、ブレーキランプやハザードの点滅が車道に列を成してちかちか輝きだす。スピードを上げて駆け過ぎていく機械音。排気音。街灯や信号機、ビルやマンションのあかりがそれらに色を加える。
時折ほかの通行人や自転車とすれちがい、光四郎と風荷は大通りの歩道の暗がりを、自分たちのマンションの方角へと向かっていた。話題のほとんどは自然、この三日間の出来事で、さっき葉月や泉と話した内容とあまり変わらない。だが疲れと空腹からか会話は途切れがちだった。たくさんの情報と予想と、期待と不安が入り混じって、これからどうなるのか、何が起こるのか分からない。ほんとうにチョーカーを発見できるのか?
だがそれをあえて口に出すことは、どちらにもためらわれた。皆、不安でいる。葉月でさえ不安だったと言った。
風荷はスマートフォンに届く新着メッセージを見た。母親から。今どこにいるのかと、さっきの未返信に連続して訊いてきている。このぶんだと次は電話。急いで短く返信する。
「だいじょうぶ?」
ふいに光四郎が言ったので、風荷は顔を向けた。
「うん。平気」
「親?」
「うん。お母さん。でも平気、ちゃんと帰ってるから。光四郎くんはだいじょうぶ?」
「うん。ナイターだと、これより遅いし」
「ナイター?」
「そう。夜に試合とか練習やるやつ」
「サッカー? 夜もやるの?」
「うん。いつもじゃないけど」
「そう……」
言葉が消え、夜の喧騒が耳に戻る。風荷も、たまには夜遅くまで塾にいて授業を受けたり、自習したりすることがあるが、暗くなってまで屋外でサッカーをやるというイメージは持っていなかった。だがそう言われてみれば確かに、ここからほど近い大きなスタジアムでナイトゲームが行われているのを、外まで漏れだすその煌々とした白いあかりで知ることがある。
「まあ、まだやる気起きないけど。サッカー」
かなりの間のあと、光四郎が言った。
「きょうも練習休んだし。今、それどこじゃないから」
風荷は肯定も否定もできない。
光四郎の所属するクラブチームは、風荷が以前聞いた話によると、けっこう「ガチ」らしい。コーチの数も多ければ所属するジュニアメンバーも大勢いて、練習や試合ごと優劣を競い合う。定期的にセレクションと呼ばれる試験みたいなものがあって、レギュラーになれるかどうかはそれで決まったりする。だから親同士も本気になって自分の子供を応援する。学校のクラブ活動とは比にならない独特の厳しさと雰囲気がある。
将来はサッカー選手になりたいのと風荷はそのとき、尋ねた。だが光四郎は首を振って「さあ」と答えた。中学ではサッカー部に入るつもりでいる。低学年のころはプロになりたかったし、それが夢だった。でも今は分からない。最近になってますます分からなくなった。地元のプロチームのサポーターをしている父親の影響で、物心ついたときからボールは蹴っていたが、いくら好きでも、それはほんとうにプロを目指すほどの「好き」なのか。「好き」だけでプロになれるならみんなプロになっているし、同じプロでも、現役をとおしてずっと活躍し続けられるプレーヤーはほんのひと握りもいない。
通りを曲がり、進む。赤信号が見える。ラッシュより少し遅い時刻帯の片側二車線を横目に、折しも吹きつけてきた夜風が背筋を抜ける。
風荷が思わず身をすくませると、「寒いの?」と光四郎が言った。赤信号の光る横断歩道の手前で、立ち止まった。「平気」と風荷はかぶりを振ったが、光四郎は全然納得していない顔をして、
「寒いんだったら、言って。どっち?」
と風荷を見る。
「ちょっとだけ……」
目を伏せた風荷に、光四郎はハンドルを片方の手で押さえながら、丸めてぐしゃぐしゃになっていた自分のウインドブレーカーを突き出した。
「俺、別に寒くないから」
風荷はそれをはおりかけたが、そのときには風のつめたさも寒気も、ウソのように何も感じられなくなっていた。
まただ、と風荷は思った。
光四郎といるとそれが起きる。青信号に変わった交差点が、伸びていく横断歩道の白線が、何度も見てきたはずのものが自分の知らない景色に映り始める。心臓の奥が締めつけられる。
「大人っぽいね。光四郎くん」
歩きだして言った。すると光四郎は、
「前はこんなじゃなかったよ」
自覚があるふうに答えた。
「でも、もういい。俺、ずっとヘンだから」
「そう?」
「うん」
「それなら、私のほうがヘンだよ」
「なんで?」
「それは……」
言えなかった。風荷は視線をそらし、足もとを見て、少し切なくなって答えた。
「分かんない。ヘンだから」
そして話題を変えた。
「泉くんのあざ、だいじょうぶかな。痛そうだった。指の跡みたいだったね」
光四郎は前を見ながら、
「だいじょうぶだよ。チョーカーが見つかれば消えるよ」
「自然に?」
「うん。それかあの人が消す。だってあのあざ付けたの、優子さんだし」
「うん……」
「泉もたぶんそう思ってる。だからそんなに気にしてない感じだったんだよ」
「チョーカーを見つければ消える、って? ほんとに?」
「うん。俺がそう思ったってことは、泉もそう考えたと思う。葉月も」
「そっか……」
風荷はそっと息をついた。
「みんな、強いね。葉月くんも泉くんも、光四郎くんも。今までいっぱい怖い目に遭ってるのに」
「俺は、そんなでもないよ。葉月と泉がやばいんだよ」
「ううん。みんな、強いよ。どんどん強くなってる。すごいと思う。私だったら……私だったら、きっと無理……」
そのとき着信が来て、おどろいてスマートフォンを見た。母親からだった。
「ごめん。お母さん。……」
画面を耳に当て、しびれを切らしたような母親の声が遠く響いてくるのを聞く。
どこなの? だれと帰ってるの? ……怒りを抑えている、少し甲高いトーンはほぼ小言に近い。
「今、歩いてるよ。もうすぐ着くから。……うん、友達と一緒……ううん、マンションが近いの。……ちがうよ、その子じゃなくて……だいじょうぶだから。ちゃんと明るいとこ歩いてる。……分かったよ。もう切るね」
いくつか聞き取れない単語があったまま、風荷は強引に通話を終わらせた。
重たい不快感が胸を突き上げる。母親の干渉を、これまではいつだって心強く感じていた。第一志望の柊学院を最初にすすめたのも、女子校がいいと最初に言ったのも母親だった。受験勉強のサポートを惜しまずしてくれ、今もこうして自分の帰宅が遅いことを死ぬほど心配している。あとどれくらいで家に着くのか。友達というのはクラスのお友達? 塾のお友達? だれなの? ……
光四郎は黙って自転車を押していた。風を切って、いくつものライトが次々と背後から過ぎていく。
風荷の口数は減った。このあと家に帰って母親からあれこれ訊かれる未来が、苦痛だった。光四郎の言うように、今はそれどころではないのに、こんなことでつらくなっている自分の弱さも苦痛だった。
ゆるやかな傾斜の向こうに、目指すマンションの窓群が見えた。住民用のパーキングのそばで風荷は立ち止まると、ここからまだいくらか先へ行く光四郎へ、
「じゃあ、ありがとう」
と無理に笑顔を作って、言った。
「またね」
「うん」
「気をつけてね」
「うん……」
光四郎は逡巡するような顔つきで風荷を見た。一瞬黙って、「あのさ……」と視線でうかがった。
「さっきのことだけどさ。何がヘンなの?」
「え?」
「さっき言ったじゃん。俺がずっとヘンって言ったら、自分のほうがヘン、って」
「あ……」
「なんかヘンなの? でも俺、別にヘンじゃないと思う」
「私が?」
「うん」
「ちがうよ。私……私だって……」
風荷はぱっと目をそむけると、
「私だって、前はこんなじゃなかったから」
うつむいて言った。すると締めつけられていた胸が回転し、中身がごっちゃになった。
「光四郎くんが知らないだけだよ。私、ヘンなの」
「なんで? 何がヘンなの?」
「ヘンな気持ちなの」
風荷はうつむけた目を上げず、自分の足先を見た。
「でも私、みんなみたいに強くないから、どうしたらいいか分からない。でも、前には思わなかったことを思うの。こんな気持ちになるの、優子さんのせい? 私のせい? そうじゃないなら……」
息を吸って、「じゃあ行くね」と吐いた。
「またね」
「風荷――」
「もう行く」
背を向けようとして、腕をつかまれた。
「光四郎くん」
「あのさ――」
目が合い、風荷はどきっとした。光四郎はつかんだ風荷の腕を放さず、真剣なまなざしを彼女にそそいでいた。
「何かあったら電話して。俺に」
「え……何かって?」
「分かんない。何か。なんでも。なんでもいいよ」
風荷にとっては想像以上の強い力が、つかまれた腕にかかっていた。彼女は当惑し、光四郎を見つめた。
「電話?」
「うん。電話」
「どうして? 分かったけど……」
「いつでもいいから」
「うん」
「じゃあ……」
光四郎は手を離した。
「あと……あと、分からないのは俺もそうだよ。俺も。……」
光四郎はサドルにまたがると、「じゃあね」と言った。ちょうどパーキングに入ってきたミニバンのライトが、あたりを一瞬、ペダルを踏んだ光四郎の顔を一瞬、ぱっと照らした。
自転車に乗った背中が暗がりに遠ざかる。そのときあっと気づいて、風荷は思わず声を上げた。
「光四郎くん! これ! 上着!」
声は届いたらしく、立ちこぎの光四郎はハンドルの上から風荷を見た。
「いいよ!」
何が「いい」のか分からなかった。だが返事ができないまま、彼の姿はすでに通りに消えていた。
このまま持っていて、いいということ?
次に会ったとき返せば、いいということ?
そのどちらでも、いいということ?
風荷は着ていた青色のウインドブレーカーをそっとつかんだ。彼女にはサイズが大きい。だぶついてしわくちゃで、こういう色の上着も持っていない。脱いで手早く丸めると、バッグにしまった。次に会ったとき、返すつもりで。
胸のなかがぐるぐる回転を続けていた。一回転ごと今の気持ちをごちゃ混ぜにして、沈んでいく。
玄関をあけて母親の出てくる音を聞いたとき、その回転数はさらに上がった。
隣を風荷が歩く。歩行者よりもはるかに自動車の数の多いこの市街は、暗くなると、ヘッドライトやウインカーや、ブレーキランプやハザードの点滅が車道に列を成してちかちか輝きだす。スピードを上げて駆け過ぎていく機械音。排気音。街灯や信号機、ビルやマンションのあかりがそれらに色を加える。
時折ほかの通行人や自転車とすれちがい、光四郎と風荷は大通りの歩道の暗がりを、自分たちのマンションの方角へと向かっていた。話題のほとんどは自然、この三日間の出来事で、さっき葉月や泉と話した内容とあまり変わらない。だが疲れと空腹からか会話は途切れがちだった。たくさんの情報と予想と、期待と不安が入り混じって、これからどうなるのか、何が起こるのか分からない。ほんとうにチョーカーを発見できるのか?
だがそれをあえて口に出すことは、どちらにもためらわれた。皆、不安でいる。葉月でさえ不安だったと言った。
風荷はスマートフォンに届く新着メッセージを見た。母親から。今どこにいるのかと、さっきの未返信に連続して訊いてきている。このぶんだと次は電話。急いで短く返信する。
「だいじょうぶ?」
ふいに光四郎が言ったので、風荷は顔を向けた。
「うん。平気」
「親?」
「うん。お母さん。でも平気、ちゃんと帰ってるから。光四郎くんはだいじょうぶ?」
「うん。ナイターだと、これより遅いし」
「ナイター?」
「そう。夜に試合とか練習やるやつ」
「サッカー? 夜もやるの?」
「うん。いつもじゃないけど」
「そう……」
言葉が消え、夜の喧騒が耳に戻る。風荷も、たまには夜遅くまで塾にいて授業を受けたり、自習したりすることがあるが、暗くなってまで屋外でサッカーをやるというイメージは持っていなかった。だがそう言われてみれば確かに、ここからほど近い大きなスタジアムでナイトゲームが行われているのを、外まで漏れだすその煌々とした白いあかりで知ることがある。
「まあ、まだやる気起きないけど。サッカー」
かなりの間のあと、光四郎が言った。
「きょうも練習休んだし。今、それどこじゃないから」
風荷は肯定も否定もできない。
光四郎の所属するクラブチームは、風荷が以前聞いた話によると、けっこう「ガチ」らしい。コーチの数も多ければ所属するジュニアメンバーも大勢いて、練習や試合ごと優劣を競い合う。定期的にセレクションと呼ばれる試験みたいなものがあって、レギュラーになれるかどうかはそれで決まったりする。だから親同士も本気になって自分の子供を応援する。学校のクラブ活動とは比にならない独特の厳しさと雰囲気がある。
将来はサッカー選手になりたいのと風荷はそのとき、尋ねた。だが光四郎は首を振って「さあ」と答えた。中学ではサッカー部に入るつもりでいる。低学年のころはプロになりたかったし、それが夢だった。でも今は分からない。最近になってますます分からなくなった。地元のプロチームのサポーターをしている父親の影響で、物心ついたときからボールは蹴っていたが、いくら好きでも、それはほんとうにプロを目指すほどの「好き」なのか。「好き」だけでプロになれるならみんなプロになっているし、同じプロでも、現役をとおしてずっと活躍し続けられるプレーヤーはほんのひと握りもいない。
通りを曲がり、進む。赤信号が見える。ラッシュより少し遅い時刻帯の片側二車線を横目に、折しも吹きつけてきた夜風が背筋を抜ける。
風荷が思わず身をすくませると、「寒いの?」と光四郎が言った。赤信号の光る横断歩道の手前で、立ち止まった。「平気」と風荷はかぶりを振ったが、光四郎は全然納得していない顔をして、
「寒いんだったら、言って。どっち?」
と風荷を見る。
「ちょっとだけ……」
目を伏せた風荷に、光四郎はハンドルを片方の手で押さえながら、丸めてぐしゃぐしゃになっていた自分のウインドブレーカーを突き出した。
「俺、別に寒くないから」
風荷はそれをはおりかけたが、そのときには風のつめたさも寒気も、ウソのように何も感じられなくなっていた。
まただ、と風荷は思った。
光四郎といるとそれが起きる。青信号に変わった交差点が、伸びていく横断歩道の白線が、何度も見てきたはずのものが自分の知らない景色に映り始める。心臓の奥が締めつけられる。
「大人っぽいね。光四郎くん」
歩きだして言った。すると光四郎は、
「前はこんなじゃなかったよ」
自覚があるふうに答えた。
「でも、もういい。俺、ずっとヘンだから」
「そう?」
「うん」
「それなら、私のほうがヘンだよ」
「なんで?」
「それは……」
言えなかった。風荷は視線をそらし、足もとを見て、少し切なくなって答えた。
「分かんない。ヘンだから」
そして話題を変えた。
「泉くんのあざ、だいじょうぶかな。痛そうだった。指の跡みたいだったね」
光四郎は前を見ながら、
「だいじょうぶだよ。チョーカーが見つかれば消えるよ」
「自然に?」
「うん。それかあの人が消す。だってあのあざ付けたの、優子さんだし」
「うん……」
「泉もたぶんそう思ってる。だからそんなに気にしてない感じだったんだよ」
「チョーカーを見つければ消える、って? ほんとに?」
「うん。俺がそう思ったってことは、泉もそう考えたと思う。葉月も」
「そっか……」
風荷はそっと息をついた。
「みんな、強いね。葉月くんも泉くんも、光四郎くんも。今までいっぱい怖い目に遭ってるのに」
「俺は、そんなでもないよ。葉月と泉がやばいんだよ」
「ううん。みんな、強いよ。どんどん強くなってる。すごいと思う。私だったら……私だったら、きっと無理……」
そのとき着信が来て、おどろいてスマートフォンを見た。母親からだった。
「ごめん。お母さん。……」
画面を耳に当て、しびれを切らしたような母親の声が遠く響いてくるのを聞く。
どこなの? だれと帰ってるの? ……怒りを抑えている、少し甲高いトーンはほぼ小言に近い。
「今、歩いてるよ。もうすぐ着くから。……うん、友達と一緒……ううん、マンションが近いの。……ちがうよ、その子じゃなくて……だいじょうぶだから。ちゃんと明るいとこ歩いてる。……分かったよ。もう切るね」
いくつか聞き取れない単語があったまま、風荷は強引に通話を終わらせた。
重たい不快感が胸を突き上げる。母親の干渉を、これまではいつだって心強く感じていた。第一志望の柊学院を最初にすすめたのも、女子校がいいと最初に言ったのも母親だった。受験勉強のサポートを惜しまずしてくれ、今もこうして自分の帰宅が遅いことを死ぬほど心配している。あとどれくらいで家に着くのか。友達というのはクラスのお友達? 塾のお友達? だれなの? ……
光四郎は黙って自転車を押していた。風を切って、いくつものライトが次々と背後から過ぎていく。
風荷の口数は減った。このあと家に帰って母親からあれこれ訊かれる未来が、苦痛だった。光四郎の言うように、今はそれどころではないのに、こんなことでつらくなっている自分の弱さも苦痛だった。
ゆるやかな傾斜の向こうに、目指すマンションの窓群が見えた。住民用のパーキングのそばで風荷は立ち止まると、ここからまだいくらか先へ行く光四郎へ、
「じゃあ、ありがとう」
と無理に笑顔を作って、言った。
「またね」
「うん」
「気をつけてね」
「うん……」
光四郎は逡巡するような顔つきで風荷を見た。一瞬黙って、「あのさ……」と視線でうかがった。
「さっきのことだけどさ。何がヘンなの?」
「え?」
「さっき言ったじゃん。俺がずっとヘンって言ったら、自分のほうがヘン、って」
「あ……」
「なんかヘンなの? でも俺、別にヘンじゃないと思う」
「私が?」
「うん」
「ちがうよ。私……私だって……」
風荷はぱっと目をそむけると、
「私だって、前はこんなじゃなかったから」
うつむいて言った。すると締めつけられていた胸が回転し、中身がごっちゃになった。
「光四郎くんが知らないだけだよ。私、ヘンなの」
「なんで? 何がヘンなの?」
「ヘンな気持ちなの」
風荷はうつむけた目を上げず、自分の足先を見た。
「でも私、みんなみたいに強くないから、どうしたらいいか分からない。でも、前には思わなかったことを思うの。こんな気持ちになるの、優子さんのせい? 私のせい? そうじゃないなら……」
息を吸って、「じゃあ行くね」と吐いた。
「またね」
「風荷――」
「もう行く」
背を向けようとして、腕をつかまれた。
「光四郎くん」
「あのさ――」
目が合い、風荷はどきっとした。光四郎はつかんだ風荷の腕を放さず、真剣なまなざしを彼女にそそいでいた。
「何かあったら電話して。俺に」
「え……何かって?」
「分かんない。何か。なんでも。なんでもいいよ」
風荷にとっては想像以上の強い力が、つかまれた腕にかかっていた。彼女は当惑し、光四郎を見つめた。
「電話?」
「うん。電話」
「どうして? 分かったけど……」
「いつでもいいから」
「うん」
「じゃあ……」
光四郎は手を離した。
「あと……あと、分からないのは俺もそうだよ。俺も。……」
光四郎はサドルにまたがると、「じゃあね」と言った。ちょうどパーキングに入ってきたミニバンのライトが、あたりを一瞬、ペダルを踏んだ光四郎の顔を一瞬、ぱっと照らした。
自転車に乗った背中が暗がりに遠ざかる。そのときあっと気づいて、風荷は思わず声を上げた。
「光四郎くん! これ! 上着!」
声は届いたらしく、立ちこぎの光四郎はハンドルの上から風荷を見た。
「いいよ!」
何が「いい」のか分からなかった。だが返事ができないまま、彼の姿はすでに通りに消えていた。
このまま持っていて、いいということ?
次に会ったとき返せば、いいということ?
そのどちらでも、いいということ?
風荷は着ていた青色のウインドブレーカーをそっとつかんだ。彼女にはサイズが大きい。だぶついてしわくちゃで、こういう色の上着も持っていない。脱いで手早く丸めると、バッグにしまった。次に会ったとき、返すつもりで。
胸のなかがぐるぐる回転を続けていた。一回転ごと今の気持ちをごちゃ混ぜにして、沈んでいく。
玄関をあけて母親の出てくる音を聞いたとき、その回転数はさらに上がった。