第35話

文字数 4,123文字

 ここを通った。
 つめたい風を身体に受け、水滴が落ちる。
 このあたり。
 このへんで背中を突かれた。そう、確かに。
 そうだった。

 怖いわ。
 もとの道に戻れるかしら。
 そしたら彼は答えた。
 戻れるよ。この先も通じているからね。
 ほんとう?
 ああ。
 「ウソつき……」
 もごもごと葉月はつぶやく。頭をかかえて繰り返す。
 「ウソつき……ウソつき……ウソつき……ウソつき」
 ここを通った。
 あの夏、7月31日の夜、私はここを通った。
 ここは変わらないね。
 それから……。
 「ウソつき」
 ごめんね。
 「ウソつき……」
 かなしませてごめんね。
 「ちがうよ」
 私がバカだったの。
 「ちがう……!」
 私が言うことを聞かなかった。
 「ちがう!」
 がばと顔を上げ、葉月は出口を見据え地面を蹴った。
 「ちがうよ!」
 無くしたの。無くしたの。
 私のチョーカー。
 無いのよ。
 「葉月くん!」
 早く。
 「はーくん――」
 私の。
 「葉月!」
 叫んだのはほぼ同時だった。それは大きくこだまし、突如走りだした葉月を三人は追う。
 だが葉月の足にしては速すぎた。取りつかれたような異様の速度で葉月は疾走し、背後を突き放す。
 「葉月――」
 ついていけたのは光四郎だけだった。
 「待てよ!」
 全力、いやそれ以上で走っていた。飛ぶように、地面の石ころさえ次の踏み台にして風を切る。
 久しぶりの感覚を取り戻す。
 追いつけ。食らいつけ。奪い返せ。
 光四郎は本気になって駆け、距離を詰め、ぐんぐん迫る出口の光を浴びた葉月の影を視界にとらえた。
 目を細める。
 「葉月!」
 タッチの差で葉月が最初に飛び出した。そして急停止のすえ、つんのめって派手に転んだ。一方、スピードをならし数メートル先で順当に足を止めた光四郎は振り返ってぎょっとし、「バカ――」と駆け寄る。
 葉月は横向きに倒れていた。抱き起こしているところへ息を切らした泉と風荷が追いついた。
 「はーくん!」
 「は、葉月くん……!」
 光四郎に支えられている葉月のそばに膝をつき、呼びかけると葉月は薄目をあけた。泉が光四郎へ、
 「怪我してる?」
 「や、たぶんだいじょうぶ……血は出てない」
 「はーくん」
 「葉月、平気? 分かる?」
 葉月はうろんな表情で、光四郎から泉、そして胸に手を当て呼吸をしずめている風荷を見上げた。少し考えるようにまばたきしたあと、こくんとうなずき、光四郎の助けを借りて半身を起こす。
 「みんな……」
 熱を測るように手でひたいを押さえ、ゆるりとかぶりを振る。葉月自身、何が起きたのか状況が定まらないようだった。
 「僕……さっき……」
 それきり口をつぐんだ葉月をかこみ、当惑して三人も黙る。
 葉月の衣服に付いたこまかい土や泥に気づき、風荷が払った。
 湿った冷風が彼らのすぐ背後に当たっている。トンネルを抜けたこちら側にも陽光はあまり届かず、外はほの暗い。青々とした苔が出口のあとにも続く左右の石積みを這いめぐり、その上にそびえる高木が緑のドームを作っている。前方にややカーブを取った狭い舗装路が伸び、その先は細く山中に消えていた。
 「無事ならいいよ。はーくん。ただ……」
 やおら泉が言った。
 「ほんとにはーくんなの?」
 はっとした顔で、光四郎と風荷は硬直した。沈黙とともに空気が凍った。
 「信じていい? 今のはーくんは、ほんとにはーくん?」
 葉月は動揺を隠せなかった。言いのがれできないという顔で、青ざめて三人を見る。
 分からない……。
 「ねえ答えて」
 泉は詰め寄る。
 「だれ? あなたは、はーくん? だれ? それとも――」
 「泉、やめろ」
 「光四郎。でもはっきりさせなきゃ」
 「でもそれ言いだしたら終わりじゃん。もうどっちでもいいよ、『これ』が葉月でも、あの人でも」
 「よくないよ。だって『これ』がはーくんじゃないなら、はーくんのふりして僕たちにいつ何するか――」
 「そのときは、そのときだよ。じゃあどうすんの? 殺すの? 動けないようにしとくの?」
 「知らないよ。でも手遅れになるよりいい。やられてからじゃ遅いんだよ」
 「分かってるよ。だったら泉、やれよ。押さえてるから」
 「やだよ、僕は」
 「俺だってやだよ」
 「やってよ。あれ持ってるの、光四郎でしょ? ――やって」
 「やだよ、なんで俺だけ? だって見た目が葉月じゃん、やりづらいんだよ」
 「見なきゃいいじゃん、やってよ。僕が出すから」
 「だったら手伝えよ」
 「僕が?」
 「そうだよ、ほら早く押さえろよ、できないなら言うなよ。俺は知らない。だからどっちでもいいって――」
 「やめて……!」
 風荷だった。葉月の腕をつかんでいる光四郎と、光四郎のリュックをつかみかかっていた泉を、だれよりも蒼白になって代わるがわるに見た。葉月はほとんどふたりの下敷きだった。
 「ふたりとも……しっかりして。ひどいこと、やめて……」
 光四郎と泉は静止し、我に返ったように口を閉じた。風荷の声はかすかに震え、怯えを含んでいた。
 「葉月くんは……葉月くんだよ。『これ』なんて言わないで……そんなの、だめ。ふたりとも、どうしたの? しっかりして……こんなのちがう……こんなのヘン。こんなの……殺すなんて……」
 あざ笑うような木々のざわめき。そして風音。
 だれの姿もない。
 「いつもみたいに戻ってよ……」
 今、ふたりの頭に浮かんでいたものが何だったか風荷は分かっていた。井戸に遺棄されたかもしれないチョーカーの捜索に使う可能性を考え、ロープをひと巻き持ってきていた。なるべく頑丈なものを。
 風荷の脳裏に、松原計が穂坂優子の首を縄で絞めているイメージが現れ、広がる。光四郎と泉の言い合いが、それに重なる。ウソみたいに。ふたりが葉月を押さえつけ、首をロープで絞めている――……。
 「やめて……同じになる。同じになる。……同じになっちゃう……」
 恐怖にめまいがした。
 光四郎と泉は黙りこみ、決まり悪げにお互いを見た。
 風荷はふたりを直視できなかった。
 怖かった。
 やりきれない沈黙に胸が締めつけられる。
 「ごめん。……風荷」
 ややあって、泉が苦しげに謝った。
 「僕、何言ってたんだろ……そんなつもり、なかった。ほんとだよ。ごめん。はーくんも。光四郎も。さっきは……」
 「俺もごめん……」
 光四郎。葉月の腕を放し、少し後ろめたそうに、
 「わけ分かんないこと、言った……気がする。ごめん」
 「ちがうよ」
 押し倒されていた身を起こし、葉月が声を張った。
 「僕がヘンだったんだよ。あの人のことがいっぱい流れこんできて……気づいたら転んでた。でも、だいじょうぶ。もっと気をつける。次は――次は絶対、僕でいる。でも……でも……もしだめだったら、僕を動けなくして」
 葉月以外の顔がこわばる。
 光四郎は自分の手もとを見た。リュックサックの中身を思い出して血の気が引いた。さっき、この手で何をする気だったのか?
 はあ……と脱力したような長いため息をつき、悄然と泉が答えた。
 「そんなことしないよ――……ごめんね。はーくん……」
 風荷は頭上をあおいだ。しっかりしてと自分に言い聞かして目を閉じ、風を感じ、木々の揺れを聞く。
 心地いい音だった。心霊とも殺人とも無縁の、澄んだ自然の綺麗な音がする。
 鳥が鳴いて……怖くない。
 怖くない。怖くない……怖くない……。
 「風荷?」
 目をあける。
 光四郎が静かに見つめていた。
 「だいじょうぶ?」
 風荷はあいまいに笑う。
 葉月が腰を上げ、ゆっくりと立った。その場であたりを見回していき、ある地点で視線を止めると、言った。
 「それから、ここで殺された……」

 それは石積みの途切れた左手、前方に伸びる道のはじまりのあたりだった。「旧姫神トンネル」を抜け峠を越え、そこから国道へとくだっていく山林に入る直前の、少しひらけた間隙のような場所。
 トンネルからいくらも離れていない。「幅員減少」の錆びた標識を過ぎて間もなく、石積みが終わるとそこへ出る。
 葉月はぴたりと立ち止まった。
 左を見ると、そこにも山林へと向かう道がある。だがこれは獣道で自動車は通行できそうにない。泉がマップで確認すると、わずかに衛星がとらえており、どうやら登山者のための遊歩道の一部のようだった。この先で登山道とふたたび合流しており、トンネルの反対側に通じている。
 その遊歩道と、トンネル側の山林とのあいだに、野草が一面に生い茂っている平地があった。かつては田畑だったのかもしれない。平地と言ってもまったいらではないが、傾斜がゆるく、傾斜というより段になっていて、まるでそこだけ故意に切りひらかれたように見える。……と、いうことは、もしかするとこの遊歩道は、その昔には農道として使用されていたかもしれない。「姫神隧道」が開通するより前――明治30年より以前は、現在の登山道がこのあたりの人々にとっての、いわゆる生活道路に当たっていた。
 立ち尽くす葉月へ、張りつめた表情の風荷が尋ねた。
 「ここ……?」
 葉月は平地を凝視したまま、肯定も否定もせず、
 「たぶん。……たぶん? ……車はこのへんで止まって……そう、止まった。止まったの。でも暗かったな」
 「夜だったからだよね?」
 「そう」
 「葉月くん、私のこと分かる?」
 「うん、分かる。風荷」
 葉月は隣の風荷を見やり、にこと笑った。
 「平気だよ」
 ここで止まった。
 目を戻し、考える。風荷の視線をすぐそばに、泉と光四郎の視線を近くに感じる。
 闇のなかだと思っていたのは自動車のなかだった。トンネルを過ぎ、おもむろにそれは停止して揺れを止めた。
 車内で何が起きたか知っている。だがその先が見えないのは、穂坂優子の意識がこの時点で消えてなくなっているから。その先を知るのは穂坂優子ではなく、犯人の松原計だから。
 とても愛した人だった。愛したと思っていた。……だまされていたけれど……。
 松原計はここで穂坂優子を絞殺したあと、何をした?
 「井戸……は……どこだろう?」
 夢で落ちた記憶がある。あの落ちていく恐怖を覚えている。
 「はーくん。みんなで、さがそう」
 一歩踏み出す前、泉が言った。
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