第4話

文字数 2,381文字

 昼間のうち三十五度以上まで達した気温は日が落ちてもあまり下がらなかった。午後七時のニュースでは「今夜も熱帯夜。寝苦しい夜」だという。標高の低い盆地である市内は風にとぼしく、空気がまとわりつくように停滞していた。
 葉月は夏休みの宿題に出された算数のテキストを進め、飼っている熱帯魚のようすを見てえさをやった。掃除をしたばかりで水槽のガラスはピカピカしていた。えさは市営の科学館ですすめられたものだった。
 日付が替わる数時間前には彼はベッドに横たわり、腹にタオルケットをかけていた。暑さのせいか身体がだるく、普段より強い眠気と倦怠感があって夕食もあまり食べられなかった。目をつむる間もなくまどろみ始め、寝返りをうった。
 やがて冷気を感じ彼は目をあけた。あたりは真っ暗で、感じた冷気はつめたい風だった。前方から吹きつけてくる、冬の寒さというよりはクーラーボックスや冷蔵庫のなかにいるような寒さだった。だから、ここを真っすぐに行った先、外はきっと暑いのだと彼は直感し一歩を踏み出したが、その踏み出した足がとても重い。早く歩きたいという気持ちが彼を急かすが身体が追いつかない。次の一歩を踏むまでの時がスロー再生のように長く感じる。
 地面が濡れていた。足もとがぬるりと黒光りしていることで彼にそれが分かった。だが雨は降っていない。
 彼は先へ行こうとした。ここから出たかった。
 そのとき後ろから、とんとんと右肩をつつかれた。
 彼は振り向こうとしたが、その首も足と同じに異様に重い。振り向きたいが振り向けない。足もとを見下ろしたまま硬直する。するとやはり右肩をとんとんとつつかれる。首は動かない。するとまたつつかれた。とんとん、とんとん。とんとん、とんとん……とんとんとん……そのスピードはだんだん速くなる。とんとんとんとん、とんとんとん……振り向かなくてはいけないと分かっていた。彼は懸命に首を動かそうとする。つつかれている右肩が痛みを発している気がする。とんとん、とんとん。とんとんとんとんとん……たまらず声を上げた。
 「待ってよ!」
 すっと首が動いた。彼は振り向いた。あるのは闇だったが、彼がそう認識した瞬間それは闇のなかから彼の視界にひゅっと映りこみ、またたく間に眼前へとズームアップした。彼は声が出なかった。それが何なのか……それは人間の女の姿をしている。だが顔は見えない。顔ばかりかその全体像はすこぶるあいまいで、輪郭がなく、髪型も服装も分からないが彼にはそれが「女」もしくは「人間の形をした女」ということだけなぜか確信を持てている。はっきりとそう分かる。
 これは女の人。
 「あ……」
 彼が息をもらすと、女は首から上を左右にゆっくり振り始めた。振り子のようなその動きに合わせて、ぽきん、ぽきん、ぽきんと骨の鳴るかわいた音がする、彼は息をのむ。女の顔のような部分、目も鼻も口も見えない……それはズームを続けとうとうアップになり、彼の視界の大半を奪った。生あたたかい何かが彼の髪にかかった。
 見えない口を女はひらく。かぱっとひらき、彼はそこから発された音を息づかいに乗せて聞き取った。
 どこにある?
 さがせ。
 チョーカーをさがせ。さもなくば闇にのまれてしまえ。私のように。
 さがせ。早く。
 早くしろ。
 それらの音は彼の目に焼きつき、そこから侵入し脳にこびりついた。
 さがせ、さがせ、さがせ。私の――音が反響し、ぷつっと途切れた。
 葉月は両目をあけ、あいたその目をみひらき天井を見つめていた。ひどく汗をかいていたがタオルケットは床に落ちていた。
 彼はベッドに起き上がると、しばし放心した。前髪はひたいに張りつき、汗を吸いこんだ寝巻が背中にまつわる。
 たっぷり五分か十分が過ぎたころ、彼はようやく「まただ」と理解した。ベッドの上に両膝をかかえ、忘れないうちにと夢の内容を思い返し始めたが、忘れられるはずはなかった。
 「チョーカーをさがせ……」
 自身の膝へ向け彼はつぶやいた。刻みこまれた音。怖いという感覚より、なぜという疑問のほうが彼には強かった。なぜ同じような内容の夢ばかり続けて見るの? 夢に出てくるあの女の人はだれ? なぜ「チョーカーをさがせ」なの? そしてそれは、そのチョーカーはどこにあるの? 目をこすり、考える。チョーカーがどういうものかは、きょう泉が教えてくれた。見せてもらった検索結果の画像の数々を頭に浮かべる。
 泉は言っていた、あのライブ配信に参加した際の疲れが、この夢を見せている。「あんな茶番」と泉は表現した。
 あれが茶番だったのか今もって葉月には分からないが、ひとつ確かなのは、先刻のような夢が始まったのは例の配信があったその翌日の夜からだということ。あの日よりも以前には、彼は夢は見ても、覚えているかぎりそれは決してあんな内容ではなかった。チョーカーという言葉も知らなかった。
 充電器に差していたスマートフォンの画面をつけると、もうよほど遅い時間だった。だが泉は起きているかもしれない。窓から通りのはす向かいに建つ泉の家を見ると案の定、彼の部屋のあかりはまだ点いていた。
 電話してみようか。
 葉月は思ったが、やめにした。また後日、話したくなったとき話せばいい。こんな時間に通話するのは健康的な早寝に慣れている彼には気が引けた。彼は泉とちがって口数が少なく、だれに対しても何をしていても控えめで、感情の起伏の小さい、素直で静かな男子だった。
 夢に起こされ、眠ったはずが身は重い。
 思い出すとよみがえるようだった。右肩を背後からつつかれたときの、とんとん、とんとん……という振動。きっと自分を呼んでいた。
 あのまま振り向けなかったら、どうなっただろう。
 葉月は自身の首筋をさわった。無意識にその手は右肩へとくだり、少しのあいだそこをなでさすっていた。
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