第39話

文字数 1,600文字

           39,
 初回の捜査会議は、明日早朝から、各班に分かれ、各班に課せられた行動指針に沿って起動することを期して終了した。
 私服に着替えた青木は庁舎を出て、その足で町外れの、国道沿いの柚子農園を、散歩を装って歩いてみた。
 西の山に沈み始めた夕日が、東の水平線をその朱色で真っ赤に染めて、その夕映えの照り返しを受けて山沿いの柚子農園一帯が同じ色で塗ったように赤く染まっている。
 青木は柚子の木の枝の下に屈んで何やら作業をしている農夫を見つけた。竹中茂、歳の差もあって、話したことはなかったが、地元民としてまんざら見知らぬ訳ではない。
 竹中茂は、不意に果樹園に入ってきた青木に当初警戒したげな物言いをしていたが、不意に、何か、意を決してかのように話し始めた、
「定信さんの嫁さん、農薬で殺されたんやないか、みたいなこと皆云うとるが、それ聞いた時、あんた見掛けたら云うたらなあかん思うてたんや。
いやな、その嫁さんがいつ殺されたんかよう知らんので、それの後のことか先のことか、どっちなんかわからんし、云うてええのんか悪いのんか、悩んでたとこへあんたがこないして来てくれたんで、一遍、云うてみよ、と今、思うたところや。
 いや、それもな、いつのことで、どれぐらい盗まれたのかはっきりわからんで、そこんとこは、了解して聞いてほしいんじゃ。
 ほれ、あそこに小屋、見えるじゃろ、そや、ついでや、あそこで説明した方が判り易い」
青木は竹中老人の後を、低木の柚子の枝下を、きつい酸味の匂いに包まれて、腰を屈めて従いて行く。
 板張りの粗末な入口戸の、汐風で錆び切った、戸口にぶら下げた錠前を取り外すと、中に農機具が乱雑に押し込まれているのが見えた。青木は手持ちの懐中電灯で中を照らすと、赤いラベルを貼った20L缶が数缶そこに積み上げてある。照明で照らすと、赤いラベルに
「有機燐酸パラチオン」
と読めた。青木は我が推理が的中した喜びを大声を出して表現したかったが、その衝動を何とか抑えた。
 老農夫は積み上げた20L缶一つを抱えて降ろし、アルミで出来たような、しかし熱で溶けた飴のようにぐにゃっと曲った蓋を手に取って青木に見せた。
 途端に、卵の腐ったような匂いが溢れ出て青木の鼻を包みこみ、青木は思わず嘔吐しそうになって鼻を押さえた。その匂いに蒸せながら、青木は、この匂い、どこかで、嗅いだ記憶が蘇った。
 これは、正しく、あの女の口辺に溜まった白い泡、これをあの山代の大ヤブは口に溢れて出た胃液、だと抜かしやがった。お陰で、俺は今日、皆の前で、一生うだつの上がらない程の大恥をかかされた、呪い殺してやりたい程腹が立って来た青木、何んとか抑えて、老農夫の話を待った、
「見てみ、この缶の蓋、バールがドライバーかでこじ開けられてぐにゃっと曲がって、中から、1Lぐらい盗まれとった。盗まれたんは間違いないんや。このパラチオンは、春先にしか使わへんし、去年の分使い切って新しいの買うて、ああ、これ全部、新品や、こないして保管しといたんや。
 それに、な、この缶、二回も開けられてたんや。1回目に、蓋開けられて、せやけど、何ぼも中身、盗まれてない、開けた拍子に零れた程度の量や。しかしワシには開けた覚えもない。しよう無いんで、ビニールの切れ端で蓋塞いでこの曲った蓋で押さえとったんやが、この前、見たら、蓋しとったビニールが無うなって、この蓋がそこら辺に捨てられとった」
「それがいつか、判りませんか?」
「それ、無理やで、朝飯、食うたんか、何食うたかさえ思い出されへんねんで」
ふと青木、思い出して、
「あの納屋の鍵、いつもどうしてます?さっき、鍵、初めっから開いてたように見えてましたけど?」
「せや、あれ、鍵、錆で利かんなって、長い間鍵したことない」
青木は、老農夫から借りた縄と竹杭で現場保全のために、納屋を囲んで立ち入り禁止を依頼した。
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