第55話

文字数 1,936文字

第五部
「水筒の水」

          55,
「じゃあ、おじさん、行ってきます、次の連休は無理、クラブの合宿、もうすぐ定例演奏会、ちょっと私も、遊んでばかりしてないで頑張らないと」
「いいよ、富子の予定で決めてくれれば。どうせ、要るんだろ、何やかや、と。電話でもしてくれれば、すぐ振り込むよ」
 富子は、東京の音大に通う。長い休みには鹿木島の、鹿木の家で殆ど過ごす。時には友達を連れて来て、邸内には泊まらず、磯の浜辺でテントを張ってキャンプする。この夏も、大勢の友たちを招んでいた。その夏休みを終えて東京に戻る富子は迎えに頼んだ舟に、桟橋から飛び乗って手を振った。真っ白い歯が、海の青さにひと際輝く。
「あ、鹿木先生、これ、篠田に頼まれた手紙です」
常には隣町の郵便局に私書箱を借りてあり、そこに殆どの郵便物が入る。島を出た時に、ほぼ毎日出掛けるので、そこに溜まった郵便物を取り出してくる。鹿木島の住所地番で送られてくる郵便物は、配達員の篠田が舟に乗って届けてくれる。時間の無い時は、時にこうして舟の船頭に頼んで送ってくれる。勿論、往復する舟賃は鹿木が月極で出している。
 港に戻る小舟に立って手を振る富子に手を振って応え、港の防潮堤に舟が隠れたのを見届けて鹿木は、脇に挟んでいた封筒の差出人名を見た。が、そこには何も記されていなかった。宛名はそこそこに達筆の文字で書かれている。切手の消印を見たが、インクが擦れて滲んでいるため、受付局名が読み取れない。
 何かの通販か。最近はやたらと多いこの種の郵便物、差出人名をわざと書かず、読まずに棄てられるのを防ぐ狙いか。
 桟橋を下りて、島を登る階段の手前でふと立ち止まり、今日の予定がどうだったか、手櫛で髪の毛を梳きながら鹿木は階段を登った。髪は、近頃白い毛も増えて来てはいるが、まだまだふさふさと、禿げ頭の多い議員仲間からは、その若見えを羨望されて、独身の鹿木はからかわれたりもする。
 階段を登り切り、右手に鹿木家の墓地、その横を通りながら、それがもう殆ど条件反射的に、そこに並ぶ粗末な墓石に一瞬ながら視線を流して鹿木は通り過ぎる。
 その時、不意に鹿木は胸が締め付けられるような痛みを覚え、変な不安感に煽られて立ち停まった。
息を整えて動悸が、気持ちが落ち着くのを待った。脇に抱えた封筒、その封を切ると、派手な通販カタログを予想したが、中に2,3枚の便箋。取り出して、最初の数文字で、鹿木の体は凍り付いた。
「この手紙は、上村吉信さんから頼まれて、上村吉信さんの話す声を、私、~刑務所看守田所正一が代筆したものです」
最初のたった二行、視線を走らせただけで、鹿木の心臓は一瞬にして動きを停めた。鹿木の手が震え、便箋が風も無いのに震える。
(あいつは、未だ生きていた…)
その事実に、鹿木の思考は麻痺して停止した。鹿木は、漸く、気を取り直し、邸の母屋まで歩き、玄関手前の椅子に腰かけた。
『兄さん、お久しぶりです、吉信です。近頃になって、辛いリハビリの効果が漸く出て来まして、ちょっとした歩きや、普段の、歯磨きや入浴も、それに難儀していましたトイレも、オムツ無しで、何とか自分で出来るようになり、もっとこの先、出所の日まで、まだ数年を残しているのですが、その日まで、訓練を積んで、何んとか社会に出た時に一人で何でもできるようにと頑張るつもりです。
 当時は、本当に兄さんに大変な迷惑を掛けてしまい、また兄・定信や鹿木兄さんたちが頑張って支えてきました鹿木家の長い伝統を、自分一人の馬鹿な行動で、一切の努力を灰にしてしまったことを、心の底からお詫びしなければと思いながら、なかなか手紙の一つも出せずにいました、ここに改めて深くお詫びします。
 まだ、発声機能が十分ではないですが、震えながらでも何とか字が書けるようになり、こうして看守さんに無理を言って、汚い字と、何んとか出せる声を拾って頂いて手紙を書くことが出来るようにもなりました。
 
 一度、鹿木兄さんにお会い出来ればと思っています、あれだけの大きな迷惑を掛けてしまった兄さんに、こんなこと云えた義理ではないですが、あと数年、なんとか耐えて乗り切るためにも、また自分なりに何か夢のような、希望のような、社会に復帰する目標が出来ればと、それには是非兄さんに直接お会いしてお詫びすることから始めるべきだと思い、勝手ながら、是非、お会い出来ればと願っております。
 最近は、俳句にも凝っており、世の中にこんな面白い字遊びがあることも知らなかったんですが、いつしかハマってしまい、「水筒の水」と云う俳号で、日々句作に励んでおります。いつか自分でも、自己満足でも出来るものがあれば、葉書にでも書いて送らせて貰います…』
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