第60話

文字数 1,718文字


             60,
 鹿木は、国道の、岬の先端、ヘアピンカーブ、その真下の磯の岩場を歩いていた。見上げれば、国道の、鋭角に曲ったカーブには白いガードレールが取り付けられている。
 岩場の合間に汐が寄せ、その波音が心地よい。何度も嵐の大波に洗われて、磯の砂場の何処にも、幼い子供二人を載せて墜落した事故車の破片は欠片も何もない。鹿木は、スカイラインが頭から突っ込み、岩と岩に挟まれたその下辺りを覗いてみたが、ごみや海藻の屑、小さな枯れ枝などが波に浮かぶだけで、あの水筒は見当たらなかった。
 こんな場所に今も有る筈は無いのは判ってはいる。鹿木はここに来るまでに、吉信と由美子が住んだ部屋も何日か掛けて、棚や押し入れの隅、床下も、また天井も板を剥がして覗いたが、水筒は無かった。
 何処を探しても水筒は無い。吉信が「水筒の水」と号しているのは、もしやただの、当てずっぽうな脅しではないのかと鹿木は思い始めるようになった。この磯の岩場を見に来たのは、ここで見つからなければ、水筒云々は、ただの脅しだと確証できる、と思ったからだった。
 もしこの岩場の何処かの、岩の穴や、窪みに隠したとしても、あれからもう何年、波に浚われて、沖の果てまで流されたに違いない。
 何処にも、あの旧日本兵用の水筒は無い、鹿木は確信した。第一、思い返せば吉信は、あの大事故で大怪我をし、救出されてそのまま病院に担ぎ込まれて治療を受けた、が、それは手足、肋骨などの骨折、そして皮膚の擦過傷の治療だけであり、胃の洗浄とかは一切されていなかった。吉信は、水筒の水を一滴も飲んでいなかったのだ。本人は、持病のてんかん発作で、一瞬気を失い、運転を誤った、と供述している。吉信はあの水筒を開けてはいない、だから中に何が入っていたか知らない、気付いてもいない…



 日が経つにつれ、吉信の現状が気に成り始めた。もし体の機能が回復し、言語障害も改善されてくれば、あの男が、いつまでも施設暮らしで我慢出来る訳がない、そして何かと鹿木に因縁つけて、何を要求してくるか分らない。
 鹿木の事業も、政治活動も、漸く軌道に乗ってきている、しかし、まだ更に発展させて、富子の将来の為にも、また富子の姉二人の、幼い命を奪ったことへの贖罪の為にも、未だ道半ばで、あんな男に邪魔などされてはならなかった。


 鹿木は、不安に駆られ、また不眠の夜が続くようになった、溜まらず決心した、。
最寄りの駅からタクシーで、吉信が入所する介護施設に向かった、だが施設の白い建物が見えて来た辺りでタクシーを止めて降りた。タクシーは来た道を戻る。それを見送りながら、鹿木は周囲を見回した。
 紀州山地、山々のうねり、その山合いに、一つの山の中腹を削って、そこに白い棟が二つ、三つ並んでいる。タクシー運転手は、あれが、そうです、と指さして教えた、吉信が入居する施設の建物。
 少し遠くに、高い煙突が聳え、土色に濁った煙を吐き出している、煙突に~クリーンセンターと大書きしてある。施設を挟んで反対側に目を遣れば、4本の高い煙突、事前に調べた地図では火葬場となっている。4本の内3本の煙突から、半透明の白い煙が風に靡いている。
 議員仲間で時に訪問する老人施設が、ほぼここと似た環境に立地している、要するに、入居者は家庭から捨てられた生ゴミであり、施設はこれら廃棄物の一時保管場所であり、息絶えるのを待って近くの火葬場に持込んで、その体に染みついた悪臭と一緒に焼却してこの世から葬り去る。老廃物の処理にリンクした絶好の環境に在る。
 しかし、あの口の歪んだ生ゴミは、未だ生きている…
 刑期を終えて出所した吉信は、鹿木が手配しておいたタクシーに、不具合ながらも、車椅子と杖を使ってタクシーに自ら乗り込み、海を越えて紀州の山奥に在るこの施設に入居した。鹿木は理由を付けて迎えには立ち会っていなかった。
 施設は、鹿木の議員仲間の紹介で、姪の富子の名前で契約し、月々の費用も、富子の名前で送金している。しかし、入居するに当たり、鹿木は、割増の費用を払う代わりに、余程のことが無い限り、連絡は不要、極端な話、死亡通知以外は一切連絡不要と条件を付けた。
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