第32話

文字数 1,361文字

            32,
 町の人の噂は本当のようだ。保険金は降りていないのだ。保険屋が偽装を疑っているのに違いない。青木刑事は、何か疑っているような口振りだったが、実際には何も調べていない、何もそんな疑念に応えるような調査はしているようには見えなかった。なのに保険屋は何を疑う?
 通報があった?しかし誰が?何を?どんな証拠があって?しかも保険屋が保険金支払いを躊躇するようなそんな重大な情報を誰が持つ?
 派手な事故、2人の幼い女の子が焼死した、町の人に大きな衝撃を与えた、しかも事故を起こしたのは、この土地には直接には全くの無縁の人物、しかし通りすがりの事故でもない、そこに何か疚しい事情を勘ぐって面白おかしく云うのは田舎者の常。
 単なる噂で保険屋が保険金支払いを渋る筈が無い。誰かが、何か確たる証拠を握っている?どんな証拠を?幾ら考えても思い付かない、元から有り得ない。のだ。
 ふと、鹿木は、若い看護婦の姿が思い出した、え、まさか、あの子?
定信が急死した時、あの看護婦は、定信のベッドの下から湯飲みを見つけ、すごい嫌な匂い、卵の腐ったような匂いがしたと鹿木に告げた、だが医師はそんな疑わしい物は何も検出されなかったと否定しているとも云っていた、
 また、吉信が、事故直後、診療所に担ぎ込まれて来た時にも、吉信の口辺に泡の跡があり、定信の時と同じ、あの、卵の腐った匂いがした、とも鹿木に教えた。しかしそのことも医者は否定したとも云っていた。
 まさか、根拠もなく、まして医者が否定するようなことを、しかもわざわざ保険屋に告げる筈はない。そんなことすれば自身が大騒動に巻き込まれるだろうことは幾ら何でも予想出来る筈。
 他に、なにか?やはり事故の大きさ、異常性が、保険屋に何か躊躇させるものがあるのかも知れない。
 しかし、保険金が下りようが下りまいが鹿木にはどうでもよいこと、気にする必要は何もない、と忘れようとする鹿木の心の隅を針先で刺すような、小さな不安を刺激するものがある。
 あの、水筒、のことが気に成った。農薬を入れた、旧軍人用のあの水筒、まだ見つかっていない、何処に在る?蓋はどうなっている?水筒は衝突の衝撃で潰れて割れ、中からお茶が流れ出た?それとも無傷で、あの磯の岩の間で、寄せる波に浮かんでいる?それとも沖に流され、海原で漂っている?それを誰かが見つけた?
 あの事故現場、事故から数日して、鹿木も気に成って二度ほど見に行った。崖上の道路には数人の野次馬が下を覗いていた。警官数人が、砂浜を、岩の間を練り歩きながら、飛散した車の部品を拾い集めていた。鹿木は、どんなものを拾っているのか、大きなカゴを道の上から覗いてみた。
 殆どが大型部品の破片が詰め込まれていた。砂浜には収集されずに多くの部品が散乱している、それらはそこそこ大きな部品類、だが、その横を警官の靴は素通りする、この程度の大きさのものは無視してよいと指示されているようだ。
 警官達の動きに、何か特別なものを見つけてはしゃぐような様子も無さそうだった。
事故現場で、もし水筒など、車の部品以外に何か見つかれば、一々調べられたと想像出来る。現場検証は警察の本分である、そんな“異”なものを見つけて決して疎かに扱う筈が無い。
 鹿木は胸を撫でおろして帰った。
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