第37話

文字数 1,441文字

              37,
 泥土に塗れたまま、霊安室内の検視用ベッドに載せられた由美子の遺体を、警察医は白衣に着替えながら、その死体概況を眺めていた。泥を被っているが、未だ死後日数が短いせいか、その泥を払い退ければ、全裸の女がベッドで息すやすやと、脚を広げて仰向けに眠っているように観える。
 ただ、注意して観ると、仰向けた口端や、頬、腕や太腿、その他の箇所に、皮膚が裂けたか擦過したかして出来た傷が無数にあり、流れた血が黒く変色して皮膚にこびりついているのがすぐに判った。それが決して、岩から滑り落ちて出来た傷ではないことは一目瞭然だった。医者でなくても普通の男なら、この女の容貌、また死んでもこれだけの色気の漂う女が、生前、それ故にこれ程の暴行を受ける曰くを持って生きていただろうことも容易に想像できる。
 警察医は、メスを手にする前に、遺体に添えられていた、事件発生地の医師が書き留めた診断書を手に取り、その記事に目を通して、
「え…?」
と軽く声が出た。診断書にこれらの傷のついての記録が一切無かったのだ。
 警察医は、少し開いた遺体の口辺りから、嫌な、何か、卵か何かの腐ったような匂いが、心地よく眠る寝息から漏れているのに気づき、鼻先を近付けて嗅いで、その強烈な匂いに蒸せ、そして胃の腑を抉るような吐き気に、思わずマスクの上から口を押さえた。
 添えられた診断書には、死因を、急性心不全、と記録してある。急性心不全、とは町医者には極めて便利な用語で、焼死、非残な事故死以外、布団やベッドの上で死んだ患者には、それがどんな状態であれ、また原因が何であれ、目の前で息を引き取った患者に、俗名から一文字取って坊主が戒名にして貧乏人から大金を毟り取るように、その死因を「急性心不全」と書いて役所に提出すれば全て事は足りる。
 多くの家族に見守られ幸せにあの世に旅立った死者にならそれでいい、のだが、こと事件性を疑われる死体には、責めて何かそれらしい死因を付記してくれていればどれほど警察医の手間が省けるか、と願うのだが、そこまで町医者の誰もそんな思いを馳せてくれない。
 遺体の口から洩れ出るこの腐臭は、過去に何度かこの警察医は嗅がされていて、その匂いの元がなんであるか知っている。詳しく調べてみないと断言出来ないが、警察医はこの遺体の死因を、パラチオン剤、有機燐酸パラチオンによる急性中毒死だとほぼ断定した。
 総じてパラチオン剤は害虫に対して優れた殺虫効果を示すため、果樹園などで重宝多用されるが、一方で人に対する急性毒性も強いことから、果樹園で働く人が誤飲したり、誤用したり、不注意に溝に流したりして鮒や鯉が池や川に浮かび、それを食べてひとの中毒事故が頻発する。その危険性は訴えられているようだが、お役所の人間は、自分が飲んで酷い目に遭わない限り、ひとの注意には無関心、却って反抗的になる、そんな習性、いや遺伝子を持つ、らしい。

 警察医は、死体検案書に、このパラチオン剤による中毒死の疑いが顕著である、と書き、そして無数に着いた傷や擦り傷を、しつこく暴行されたために出来たものと断定できる、と書き添えて、仕事を終えた。
 白衣を脱ぎながら、警察医は、ふと思った、
(体中にあれだけの数の傷がついて、口からはとてもじゃないが我慢できない腐敗臭が撒き散らされていて、診た医者が医者なら、見た警官も警官、そりゃ、俺が幾ら無能でも、こんな死体見せられれば、尋常に死んだとは、思われへん、けどな…)
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