第10話

文字数 1,673文字

              10,
 ひと月もせず、養生していた邸から、容態の急変に備えて島を出、町の病院に入院していたが、定信はそこで息を引き取った。
 葬儀の最中、弁護士が遺族を集めて、遺言書を披露した。読み進めていくうち、吉信と由美子が次第と顔色を変え、読み終えた弁護士に食って掛かった。揉めに揉めた。特に、由美子と吉信は自分達への取り分の少なさ、遺産を金に換えるには鹿木公男の認可が要ると知って、読み終わって立ち上がる弁護士に殺生やと罵った。一緒にいた、定信の娘の上の二人、佳代と佳子は、大人たちの突然の喚き合い、罵り合いに驚いて泣き叫んだ。末娘の富子は姉二人の大泣きにつられて泣いた。

 それから数日後、鹿木は、熱が出て、診療所に行った。軽い風邪だとして薬を受け取って帰る鹿木は誰かに呼び止められて振り向いた。先程、診察室で、医者に付き添っていた若い看護師だった。怪訝な顔で看護師を待っていると、看護師は鹿木の袖を引っ張り、診療所の壁に隠れるよう促した、そして、
「私の云うこと、鹿木さん、誰にも云わないで欲しい、私ひとりで勝手に疑っているだけで、何も証拠がない、でも私、自分一人で黙っているの、とても怖くて」
云っている意味が分らず、きょとんとしていると、看護師は続けた、
「上村さん、死ぬ直前まで、ほんとお元気で、冗談ばっかり言って笑わしていたの。部屋に、ノックもせずに奥さんが入って来られて、私、すぐ部屋、出たんですけど、何だか、私と上村さんが笑っていたことが気にくわないみたいに、私、睨みつけられて、でも上村さん、奥さんが暫くして病室出られて行くの私見て、そのすぐ後、上村さんの部屋から呼び出しのベル、鳴って、私らが駆け付けた時には、口から泡を出して、心臓マッサージする先生の手を跳ねのけるぐらい苦しんで、それからすぐに心臓停まってしまって」
定信の死は突然だったとは聞いていたが…?
看護師はそこで言葉が詰まり、押し黙ってしまった、何か云い難いことを云おうとしている、ようで鹿木は次の言葉を待った、
「上村さんの遺体を運び出した後、ベッドの下、掃除していたら、床に湯飲み椀が落ちてるの見えて、それ拾ってみると、普段、上村さんが自分専用に持ち込んでいた高級な湯飲みじゃなく病院で入院患者さんに支給している安物の湯飲み、転がって倒れていたけど、湯飲みの底に白い粉薬みたいなのが、残った水で固まって残っていたの。
 その湯飲みの底に溜まっていた水の匂い嗅いでみたの、とても嫌な臭い、何て云っていいか、そう、何か、腐った卵のような匂い、吐きそうになった。
 上村さんには、普段は錠剤か点滴だけ、粉薬は出していなかった。変に思って、その湯飲み、家に持って帰って、金魚の水槽にその固まっていた粉薬、溶かしてみたら、二匹、飼っていたんだけど、二匹ともすぐ腹を上向けて浮いて来ちゃったんです。誰かにこのこと云おうとしたんだけど、先生は、ただの心不全、多臓器不全、癌があちこち転移していて、それで、と仰っていたし診断書にもそう書いて。
 私の知っている誰かが殺されるなんて、考えられないし、それにその湯飲みの底に固まっていたのが毒薬だった証拠も無いし、もしそれが本当に毒だったとしてもそれを呑んで死んだかどうか、何も証拠がないし調べようもないし」
鹿木は、由美子の仕業を想像した。弁護士が定信の遺言書を読み上げた時の由美子のあの時に見せた顔は正に、狂った鬼のような顔だった。鹿木はひとがあんなにまで怒りに狂う顔を初めて見て、余程に強情の女だと恐ろしく思ったことを思い出した。
 あの由美子なら、やりかねない…鹿木は、看護師に他に誰にも云わないよう説得した、自分は法律に詳しい、その自分から見て、今更騒ぎ立てても、それを証明しようもない、まして疑いだけで、ひとを訴えたりすれば却ってあなたが名誉棄損で訴えられて、飛んでもないことになってしまう、と諭した。
「判りました、でも、良かった、このこと、ずっと誰にも云えず、このまま黙ってたら私、本当に病気になってしまうとこ、でした」
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