第1話

文字数 2,806文字


「火男さんの一生」
 
           1、
 この施設の入所者で、火男さん、が、朝、食事の時間に食堂に起きて来ないので担当職員が起こしに行った、いつもならベッドを揺すれば閉じた目をゆっくり開けて、職員の顔を無表情に見つめるのだが、この朝は、布団をめくって耳元で名前を呼んでも、目を覚まさない、頬を抓っても目を開けない、抓られて伸び切った頬の皮膚が伸び切って、何となく冷たい、揺り動かすと、体はどことなく固い。死人を扱い慣れた職員、慌てもせず、部屋の外に出て、廊下を通って事務所に戻り、
「誰か、あとで、先生に連絡しといて、火男さん、死んでるって。あ、私は駄目、朝食の介助で手が一杯、お願い、ね」

 今は、施設で暮らすが、夜半には必ず脱け出して、街へ、そしてひょいと長い顔を出し、その口はひょっとこ面の口か、タコの口のように、竹筒の節を抜いて作った火吹き竹を咥えて、自転車置き場やあ、ゴミ箱、郵便受けからはみ出した新聞など、あちこちに火をつけて、自分から、大声で
「火事やあ~火事やでえ~」
と近所に知らせる。警察では、火男爺さんと呼んで、その出没情報に常から神経を尖らせていた。

 だが、火男爺さん、必ずしも、生まれてからずーっと爺さんだったのではなく、人並みにおギャーと生まれ、学校へも行き、何処までの学校、卒業したかどうかは別に、人並みに、この施設に収容されるまでは人に紛れてどこかで働いていたんだろうし、家族も持っていたかも知れない、何時頃からこの、はた迷惑な奇癖を持つようになったのかは、多分本人さえ記憶が定かではなかったのに違いない、何故なら、火男さんは、ほぼ一切記憶の無い、完全認知症患者であり、警察も本人からの通報を受けて署に連行するも、最初の一言二言の問答だけで、こんなの逮捕したところで、その病気故、即刻無罪釈放、指紋とかの照合で、これが彼の有名な火男爺さんと判ると、すぐにこの施設へとパトカーで送ってきた。
 火男さんの身柄を受け取る施設の職員でも、火男さんがこの施設に入所した経緯も、何処かで保護され、しかしその認知症状のひどさと悪癖を怖れて、無理にこの施設に収容されてきた程度にしか、誰も知る者はないし、火男さん本人にも、当然ながらその辺りの事情について全く記憶はない。
 夕方の、夏でも冬でも、西の空が朱く染まる頃、火男さんは決まってそわそわし始める。警察からの指導を受けて鉄格子付きの特別待遇の部屋に監禁されているが、どこをどうするのか、必ず脱出して、数日後は、警官に、サンマを盗み食いして捕まった猫のように首根っこを掴み上げられて送り返されてくる。
 その厄介者、火男さんが遂に死んだ、それを聞いた職員一同、自分の体が如何に緊張で血の流れが滞っていたか、脳の血が途端に心地よく流れ、凝り固まっていた肩の筋肉が温泉に浸かって温めたように一気にほぐれ、そして何かしらに怯えたように心臓の不整脈が忽ち消えて、心臓は規則的に心地よく鼓動を打ち始めた。


登場人物
上村吉信 後に認知症を患い、火男さん、と称される。
上村定信 吉信の兄 名家鹿木家の分家の長男、実業家
娘3人、佳代、佳子、富子 
由美子 定信の妻、 
鹿木公男 伝説の海賊の子孫、旧領主鹿木家の惣領。

            
 山裾の集落から離れた、山合いの町営火葬場。その駐車場で時山重雄は、勤務する老人介護施設のネーム入りのライトバンの中で、椅子を倒して、先日死んだ入所者、通称、火男さんの火葬が終わるのを待っていた。
昨日、火男さんの遺体を納めた棺を運び入れ、火葬場職員と時山二人だけの焼香など簡単な手続きを終えて帰る時山に、火葬場職員が声を掛けた、
「ちょっと混んでるんで、時間、ちょっとズレる」
そう聞いてはいたが、一晩おいて来てみると、確かに、駐車場にはいつもより多くの車が並び遺骨拾いの順番を待つ人の数も結構多い。ここ数か月猛威振るう流感の影響か。
別に何も急いで帰る必要も理由も時山には無かった、有るとすれば時山が乗って来たこの車、職員の誰かが、車使いたくて帰って来るのを待っているかも知れない。
事務所に電話入れて状況を伝えた時山は、特に今は急用はないと聞き、倒した椅子に頭の後ろに腕を組み、窓の外を何気に見遣っていた。
4本の、まるで工場のような大きな煙突の内、3本が黒煙を噴き出していて、残りの1本の煙突から、陽炎のように雲の形を歪めて熱風が吐き出されている。この3号煙突が、火男さんの遺体を納めた棺を焼く窯の煙突、だった。
 荼毘に付されているのは、通称「火男さん」、昨夜火葬場に手続きに来て役所の書類を見て初めて知ったのだが、本名上村吉信の遺体、享年八一歳。時山が長く務めたバス会社を或る不祥事がばれて首になり、この施設でデイケア、訪問介護等施設利用者のマイクロバスの運転手を求めていることを知り、応募して、時山もそこそこに高齢ながら、すぐに採用されたのだが、その時には、この「火男さん」こと上村吉信はこの施設に既に入所していた。
 施設の行事で、春は桜、秋は紅葉、コスモス鑑賞と、入所者をマイクロバスで送迎するのだが、この火男さんも何度か乗せた。だが火男さん当人には、その日、何処へ何しに、何を見て、何を食ったかさえ覚えていないように、マイクロバスの運転手が誰だったか、全く記憶にないと確信する。
 このことに時山は未だに不慣れだった。
普通、ひとは、自分の周囲の人の声を聞いたり、ひとの顔を見て、その表情を読んで自分がそのひとにどう映っているか、それにより自分の人生が、自分の運命が決められていくものと、時山は長い間生きて来て、漠然とだがそう思っていた。
 だが、世間並みに忙しく生きて来た時山が、この施設で働くようになり、それまでの習慣で、ひとを見れば反射的に挨拶してしまう時山が、ここの入所者に挨拶しても、全くの無反応で、それは決して意地悪に無視されたのではなく、目の前に誰が居て、その誰かがどんな顔をして挨拶しているのかまったく認識されない、自分一人の世界に入ったきりの人々との毎日の出会いが奇妙に感じられて仕方なかったのだ。もうとっくにこの感覚に慣れてもよいはずなのに、と自分でも不思議だった。
「火男さん」こと上村吉信も、当然に無表情でバスに乗り込み、職員の世話で椅子に座らされ、バスに揺られて病院に行ったり、時にスーパーに買い物に行ったりする、そしてその顔に何の変化も無くスーパーから出て来て、バスに載せられて施設へと帰る、下りる時、時山が、声を掛けてやるのだが、何かひととしての普通の反応が返って来た試しがない。しかし、長年のバス運転手としての習慣で、バスの客、誰もがもそうであったように、時山が何と声をかけようが乗客は誰も知らん顔でバスを乗降する。その習慣が抜け切れないで、時山はここの施設の老人達にもそう一々声を掛けてしまうのだ。

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