第19話

文字数 1,896文字


             19,
 その気になって調べれば、パイプの詰まりが取れたように、難問に出食わし、見出せなかった解決策が、意外と簡単に見つかったりして鹿木を安堵させた。
 毒薬、劇薬の類は、病院か薬局に押し込み強盗でもして盗んで来ない限り入手出来ないのは判っていた。その入手の難しさに鹿木の計画は端緒から躓いて鹿木は実行を決意出来ずにいた。
 
 ふらりと町の外れ、海岸線の磯の岩場に沿って、退屈する娘らを伴れて散歩している時に、上の方から人の声がした。見遣ると、数人の男女が、たわわに実る、小ぶりで濃緑のミカンを収穫していた。普通のミカンに比べて強い香りが先程から鼻にツーンとくるものがあった。
 柚子、だった。この辺り、海岸線に沿う山の斜面に、陽の光をたっぷり浴びて柚子の木が群がっている。この地の、昔からの特産品、であることは知ってはいた。
 娘らに、食べてみる?と聞いたが、その強烈な酸味の効いた匂いに首を振った。一人、石垣の上を、老人が、小さな小屋から、四角い、小さな缶を下げて出て来るのが見えた。
「有機燐酸パラ…」
とだけ、だが読めた。薬剤、農薬には全く無知な鹿木、だが、その缶に貼り付けた赤いラベルが何を意味するかぐらいは見当がつく、
「猛毒注意、厳重保管」
の注意書き、警告が表示されているに違いない。だが、老人は、腐った板で囲っただけの、みすぼらしい小屋から出て来た。その小屋が厳重に何か保管出来る場所には到底見えなかった。
 様子をみていると、老人はその缶を他の何かと混ぜて別のホース付きの、農薬散布用スプレー缶か、そこに移し替え、その缶を背中に背負って柚子の木の群がり植えてある畑に入り、マスクのようなもので顔を覆い、そして噴射した。
 その霧が、鹿木たちの所まで流れて来て、鹿木も、娘たちも、その卵の腐ったような匂いに溜まらず口と鼻を抑えて逃げ出した。
 鹿木は思い出した。定信の死に不審を抱いて、鹿木に打ち明けた看護師はこう云った、
(その湯飲みの底に溜まっていた水の匂い嗅いでみたの、とても嫌な臭い、何て云っていいか、そう、何か、腐った卵のような匂い、吐きそうになった)
正に、たった今、鹿木や娘たちが襲われた悪臭、あの看護師はこの匂いのことを云っていたのだ。
 盲点だった、この種の農薬なら、他所はいざ知らず、ここでは、何時でも、誰でも容易に、何処にでも在る農作業用の物置小屋から持ち出せるのだ。
 毒薬、劇物は厳しくその保管方法が決められている。だが果たして農薬の類は?いま、老人が下げて行った缶のラベルに表示されているように、それは精々が、注意書き、であり、その保管については、この柚子畑の板張りの小屋のように、精々、風が吹けば吹き飛んでしまいそうな入口戸に、塩噴いて錆びた南京錠の一つでも掛ければそれでいいのに違いない。
 由美子はどこかでこの農薬を、多分殺虫剤なのだろうが、どこかで手に入れて、定信の病室に持込み、嫌がる定信の口を無理にこじ開けて、その口に、湯飲みに溶いたこの農薬を喉奥に流し込んだ…

 鹿木の計画を天の神が見守り、援けてくれているように思えて鹿木はこの発見が嬉しくてならなかった。鹿木の人生で、なにかを始めるに、幸先が良かったことなど、ただの一度でもあった試しはない。ふと、思った、何かの事業や開発、研究に成功する人にはこういう吉兆が何度も何度も、いつもついて回っているに違いない。遅れ馳せながらこの俺にもそろそろ、責めて人並みの幸運が巡って来てくれたに違いない…

 山の斜面での、老人達の作業をいつまでも見ている鹿木を、娘らは、早く、帰ろうと、と促した。長女が、
「よしのぶおっちゃん、大阪帰る前に、あそこの、海が一番よく見えるとこ、ドライブしてくれるんやって」
 それを初めて知ったのか、末娘の富子が
「ねえ、いつ連れてってくれるの?」
と長女に何度もしつこく聞いている。
長女は富子に指さして場所を教えている。指さす先に見えるのは岬の先端、足許、崖になっているが、見晴らしは、この辺りでは最高だった、鹿木は子供の頃から知っている。西の山に沈む夕日の、茜色が映えて、太平洋の水平線一帯が鮮やかな朱色に染まる。
 そう云えば、吉信は、この町並みのどこかのガソリンスタンドに車を駐めてあると云っていた。確か、スカイライン、みたいなことを云っていた。
 鹿木は、一瞬にして、或る方法が閃いた。この方法なら、吉信と三人の娘を、一気に葬ることが出来るし、当然それは不慮の事故として処理され、万一事件性を疑われるような事態になっても、その場に居ない鹿木には何の疑いも掛けられることは無い。
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