第5話

文字数 2,848文字

             5、
 勤務先の介護施設の駐車場に着き、車を降りて、時山は後部座席のドアを開けた。
「無い…?」
そこに在るべきものが無い?上村吉信の遺骨と遺灰を納めた、白布で包んだ骨壺が無い。シートの下にも頭を突っ込んで覗いて探したが無かった。時山は骨壺を失くしたことで、予想される我が身に降りかかる難儀の数々とその重さを想うと体が一気に震え始めた。
 時山は、自らを励まして落ち着かせた、事の顛末を、順を追って思い出してみた。
火葬場職員は、
「済みません、長い時間、お待たせして」
と恐縮しながら、白布に包んだ骨壺を、落とさぬよう両手で大事そうに抱えて渡してくれた。その骨壺を受け取って時山は車に戻り、骨壺を脇に抱えて落とさぬよう注意しながら後部座席のドアを開け、座席シートの上に置いた。その不安定な状態を見て、
(こんなところに置いて、途中、山間の曲がりくねった道、転がり落ちて割れでもしたら大変)
そう思い直して後ろのドアをもう一度開けた時、反対側から杉下がドアを開け、手に下げていた黒皮の鞄と、腕に掛けていたコートを、その骨壺の上に無造作に、被せるように置いてドアを閉めた。何で骨壺の上に、とその無神経さにいらっとしたが、よく見ると、杉下のコートと鞄に覆われて、骨壺は却って安定したようにみえ、これなら繰り返す曲り道でも大丈夫だと判断して、運転席に座った。
 山道を走り降りて来る間、骨壺が転がったり、シートから落ちて割れる音は聞かなかった。
 ふと、時山は考える。杉下が駅前で車から降りた時、何かの間違い、何かの勘違いで、杉下が骨壺をコートや鞄と一緒に持って出た…?
 時山は駅舎に向かって歩く杉下の後ろ姿を思い出してみる。手に提げていた鞄に骨壺は入り切らない、腕に掛けたコートに包んで持ち去るには、明らかにコートは膨らんで、一目でその異変に気付く筈、それに結構重くなった筈。
 だが何か異変に気付いて立ち停まったりするようなそんな素振りは杉下の後ろ姿にはなかった。  
 杉下が、身内でもない他人の骨壺をわざわざ持って行くなど考えられない。もし間違って骨壺をコートに挟んで持ったとすれば、その重みや膨らみですぐ気付き、時山を呼び返した筈。
 ふと時山は思った、自分が骨壺を受け取ったこと自体が、それに受け取ったつもりの骨壺を後ろの座席に積み込んだことも、全て錯覚、自分が勝手にそう思い込んでいるだけ、ではないか、と。
 時山は携帯電話で火葬場職員を呼び出すが、忙しいのか、電話に出ない。愈々焦って時山は、杉下の名刺に書いてある会社の電話番号にダイヤルした。誰か電話に出てくれれば杉下の携帯番号教えて貰えばいいし、もし携帯持っていなければ、骨壺の事で電話が有った、折り返し電話して欲しいと伝言して貰えばいい。そして何よりも、まだ杉下が駅の待合で次の電車を待って居ることを期待した。
 ようやく目先に明かりが見えて来たような気がして、それでも時山、震えの治まらぬ手に持つ携帯を耳に当てた、直ぐに女の声が聞こえた、事務員か、用件を云い出そうとした時山の耳に聞こえたのは、
「お架けの番号は現在使われておりません、お確かめの上…」

             
 秋の夕、朱い太陽が沖の水平線に沈んでいく、その陽の残光が、小舟の舵を握り、舳先を向いの小さな島、鹿木島へと向ける老人の白髪と頬を赤く染めていた。
 老人の名は、鹿木公男、老人介護施設職員時山に訊ねられて杉下と名乗り、偽造した名刺を渡しておいたが、元から杉下と云う名には縁もゆかりもなく、鹿木公男のこれまでの人生の何処にも、また今生きる身の回りにもそんな名の男は一人も居なかった。
 鹿木公男は、介護施設に戻った時山が、骨壺が消えて無くなったことに気付いて、慌てふためく姿を思い浮べた。

 鹿木島には港は無く、砂浜からコンクリート製の突堤が波打ち際に突き出しただけの、それも長年の放置と、幾度もの嵐の大波にコンクリートは打ち砕かれていた。島の反対側に夕日が沈み、島影に覆われてすっかり暗くなった中、突堤に横付けして、ともづなで舟を結わい、鹿木は舟から降りた。
 砂浜を革靴履いたまま横切り、島の山裾から獣道のような狭い道に入るとすぐ右手に鳥居が在る。柱の塗装は無残に剥げ落ちて元の木肌が現れ、砂地に埋まった柱の根元は汐風に朽ちて腐ってしまっている。
 山を少し登ると正面に小さな祠。今は誰も住む者はいないが、その昔は、こんなちっぽけな島でも秋には近在の漁師達が集まって例祭が行われ、祠から小さな神輿が担ぎ出されて島内に点在する集落を巡って賑わった。
 祠の横に、小さな木板づくりの、島の由緒を書いた立て札がある。今は塗装が剥げて一文字も読めないが、鹿木は今でもその由緒書きを暗誦することが出来る。
「わが髮のゆきといそべのしら浪といづれまされりおきつ島もり」
「わたつみのちぶりの神にたむけするぬさのおひ風やまずふかなむ」
平安の昔、土佐國府赴任を終えて帰京する紀貫之とその一行が、海路の悪天候と海賊に襲われる恐怖に苛まれ、この祠を見つけて幣を納めて早々の出航と航海の無事を祈って詠んだ歌だと教えられた。
 当時通った分校の先生はその後、決まって必ずこう付け加えた、
「お前らは海賊の子やけん、誰にも負けんよう勉強して偉うならないかんけんな」
幼い鹿木はそう云われても、海賊の子なら他と何がどう違うのか、偉うなるとはどう成れば偉うなったと云えるのか、何も目標となる未来、想像する未来の形がなかったことを今も覚えている。
 長じて一応は県会議員となり、偶にこの島に墓参りか趣味の魚釣りに訪れて、この祠の前を通る度、偉うなる、とはこうして大金に恵まれずとも中途半端に暮らす身分を云うのか、と自嘲気味に自らを査定して納得していた当時の事を苦々しく思い出した。

 地中から剥き出して絡み合う木の根を踏みながら鹿木は更に登った。笹竹で囲われた狭い墓地の前を通り掛かる。久しぶりにこの島の山道を登る鹿木、やはり息が切れた。墓地を覗くと、磯の岩を持って来て積み上げたような粗末な墓が苔むして数個、まばらに並んでいる。
 鹿木は足を止め、笹竹を跨いで墓地に入り、その内の一つの墓石の前に立った。汐風に腐った卒塔婆が斜めに傾いて、今にも倒れそうだった。
 鹿木は長い時間、墓石を睨むように見下ろしていた、が、脱いだコートに、隠すように包んでいた骨壺を取り出すと、不意に頭上高く振り上げ、癇癪でも起こしたように、その墓石の角に投げつけた。
 骨壺は破裂し、破片が一帯に飛び散り、数個の骨片が辺りに撒き散り、遺灰が墓石の上や辺りの地面を白く覆った。
 撥ね散った一個の骨片が鹿木の靴の前に落ちて転がってきた。鹿木は、暫しその骨片を憎々し気に睨んでいたが、その骨片を靴で踏みつけ、たばこの吸い殻を消すように踏みにじった。
 骨片は、煎餅菓子でも踏むような音を立てて粉々になる。その音が、鹿木の古い記憶を刺激し、蘇らせた…
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