第52話

文字数 1,283文字

              52,
 病室の天井を見上げたまま、頬の筋肉、寸分も動かせない吉信、しかし頭は醒える、そして一つ一つ、吉信の頭の中に浮かんで見えるものがある、
 雨靴?あの草色の、女ものの雨靴、青木はこの雨靴にお前の指紋がべったりと付いていた、と嬉しそうに云った。あの雨靴は、由美子が鹿木島に住み始めて、畑仕事の真似事でもして、花の一本でも植えたい、と云って買って来たもの、だった。酒と金と男にしか興味の無い由美子が初めて見せた、女らしい一面、それを聞いて吉信は鼻で笑った。
 実際、由美子がそれらしい真似事をしているのを見たことが無い。だが、雨靴は後に役に立った。そうや、町の祭りが近い、辺り住民には旧領主家、鹿木島の神社で祭礼を催すと云って、町の男たち数人がその準備に島に上陸してきた。
 その時、由美子に云われて、あんたも手伝うたったらどないやの、あんたかて、痩せても枯れても、ご領主様の、分家の、分家の、更に妾の子、なんやから、と皮肉られ、面白半分、由美子から、買ったまま置いた雨靴を借りて、男達と汗を流した、ことがある。
 だが、その日以後、あの雨靴に触ったことはなく、確か、砂や泥で汚れたまま、住んでいる部屋の入口の棚か下駄箱に放置したまま、の筈…それ以上にも、それ以下にも、雨靴の記憶は無い。
 その雨靴に、畑の、果樹園の、しかも、その果樹園の倉庫に保管してあった農薬を盗み出した時に、履いていた雨靴の底に、畑の土が付いていた?知らんがな、そんな畑、どこに在るのかも知らんがな。
 で、何やて、この牛乳瓶は、その農薬をお前が盗んできた時に、入れて持って来た牛乳瓶やて?そうや、思い出した、あの牛乳瓶、祭礼の準備に来た男が、喉が渇いた、と氷を詰めた箱で冷やしたビールやジュース、そこから牛乳瓶一本だけ残っている、とその男が吉信にくれた。牛乳は余り好きではなかったが、折角なんで、受け取って飲んだ。そうや、あの牛乳瓶や、青木が見せたんはあの牛乳瓶や。飲んだ後、空き瓶どうした?そんな記憶など全くない。
 だが、青木は、あの牛乳瓶の底に、由美子に飲ませた農薬が残っていた、と鼻を膨らませて云った。この俺が、そんな厄介な物、盗んできた?知らんがな、そんな農薬、何処に在るのかさえも、第一、何回云われても、その農薬の名前、覚えられへん。
 注射器、あれは、間違いなし、オレが使うてた注射器、それだけは間違いない。せやけど、誰が、アホやあるまいし、雨靴や、牛乳瓶と一緒に、しかも、掘り返されたら元も子もない、あんな場所に埋める訳ない…そや、俺は使うた注射器、汚れたら、鹿木の住んでる母屋の台所で洗い流した。古くなったり、汚れたりしたら、そのまま、台所の洗い場の下に棄てていた。由美子が殺されたことが判って調べに来た警官の誰かが見つけて、青木に、こんなもの見つけた、と見せたのか?
      
 醒えた吉信の意識は、更に別の疑問を呼び起こした。俺は、もしかして嵌められているんやないか…?何で?しかし、考えれば考える程、そうとしか思えない。なら、誰が、俺を嵌める?何の為に?
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