第29話

文字数 1,950文字

             29,

 吉信と由美子は、自分達二人に分与された定信の遺産の内8分の1は、伴野から鹿木に資金を融通する過程で、遺言状の条項通り、鹿木に捺印させて取り合えずは8分の1は確保した。次に鹿木が事業失敗を重ねて僅かでも残った定信からの遺産も、伴野に担保として提出させ、借金返済出来なかった時点で、担保を処分して金に換えさせた。
 定信を毒殺し、3人の娘の内2人を偽装事故まで図って命を奪った吉信と由美子の二人が狙うのは、生き残った富子の持つ、定信の遺産の半分であることは間違いない。
 鹿木の脳裏に、鬼のような形相の由美子の顔が浮かび上がる。その由美子が、吉信に次の手立てを教え込む、吉信は横に逸れた唇を閉じて、由美子の話に聞き入る姿が目に見える…
 鹿木は、由美子に恐ろしい執念を感じる。何故にこれ程に執念を燃やすのか、定信への憎悪か、恨みか、いや違う、銭への強い執着心?
 鹿木は、では自分はどうなんだ、と問うてみる。学生時代、だったか、友が鹿木を評して云った言葉を思い出した、
「所詮はお殿様、なんだよ、お前は」
正にその通り、だった。人を見る目も、商売する才も、政治家としての能力も、すること成すこと、俺は全てが殿様商売、自分がやっていることが損なのか得しているのかも分からない、甘ちゃん、だった、のだ。
 鹿木は、思う。俺だって、あの二人と同じ穴の貉、子鼠追う、泥に塗れた狸に成り下がっている。だが、自分には、あの二人に比べれば、少しは知恵も有る。
 鹿木は今更に思う、何をするにも、大して考えもせず、しかも自分の手で、自分の力を過信していたことが、失敗の原因ではなかったか。
 鹿木は、由美子が、次に何んな手を企んでいるか分析した。由美子の究極の目標は娘三人に一括に付与され、未だに手付かずのまま残されている遺産を奪い取ること、その為には、一人生き残り、三人分の権利をもつ末娘の富子を殺して、その遺産を奪うこと。
 決して先の話ではない。定信殺害の件も、今回の偽装事故のことも、警察は何一つ疑いもしなかった。二人の娘には死亡保険が掛けられていた、受取人である由美子と吉信に、保険会社から依頼を受けて、警察は形だけ動いただけに過ぎない。あの青木刑事との質疑応答で、吉信はその辺りを確信しただろうし、その底の浅さを見抜いたに違いない。これなら次の一手も、警察に見破られる心配はしなくてよい、と思っているに違いない。
 鹿木は、待つことにした。二人は間もなく動き出す。自分の手を汚す必要はない。あの二人は無い知恵を絞って必ず富子の命を狙ってくる。
 富子の死を待って、その時点で、鹿木は、警察にかくかくしかじか、と二人の犯行を、定信が毒殺されたこと、幼い女の子二人の死は偽装事故によるものだと訴えて出ればいいだけのこと。自分が何かする必要は全くない。待つだけでいい。
 鹿木はふと思った、何かを待つ、待って何かが動けばそれに合わせて、など、と考えたこと、人生初めてのことだった。
 鹿木は、何だか体中に雁字搦めに張り詰めた緊張の糸が緩やかに解れていく心地よさを味わった。
 富子も、吉信も、ついでに由美子も地上から消えていなくなれば、定信の遺産は遠縁ながら、唯一の親族となる鹿木が満額受け取ることになる。
 由美子の強い執着心に恐ろしささえも覚える鹿木、その由美子の金への執念に比して俺はどうかと鹿木は改めて我が身を振り返る。
 鹿木は子供の頃から金を欲しいと思ったことがない。金はいつでも不自由なく有った、父親が破産しても、定信の援助もあって、左程にひもじい思いをした実感もない。また、何かをどうしても欲しい、何としてでも手に入れたいと思ったことも、自分で何かやってみたいと思ったこともない。流れのままに生きてきたし、与えられるもので十分だった。
 しかし定信の事業を破綻させた頃から鹿木は金が欲しいと思うようなった。欲しい、のではなく必要に迫られた。今無ければ明日の命は無い、と喉から手が出る程に追い込まれた。
だが、今は、金が手に入れば、先ずは残った借金を清算し、この毎日の、誰かに追い詰められているような強迫観念に圧し潰されそうな心臓を、心を解放してやりたい。
 そして残った金をどう使うのか、何に使いたいのか、と漸くそんなことものびのびと考えることも出来て、自然と、何だか楽しい気分にもなってくる。
 そうだ、もう一度、議員になってもいい、別にいきなり県会議員にならなくてもいい、町会議員から始めればいい、町会議員になら、組織と関わらなくても自分一人の力で成れる。まだまだ若い、焦ることはない、早まることもない、行く末、思い切って、県会議員を飛び越えて、国会議員選挙に打って出てもいい…まだ老け込む齢でもない…
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