第2話

文字数 1,443文字

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 その火男さんこと上村吉信が3日前の朝、ベッドで寝たまま死んで発見された。ここに入所する老人達の殆どは、死ぬ直前に、大声も上げず、苦しみもせず、前夜に何の予兆も無く、その為、家族の誰にも職員にさえも見送られず、ひっそりと死んで行く。火男さんも皆と同じく、元からこの世に存在しなかったかのように静かに、ひっそりと死んだ。
 ここでは人の死は何も珍しいことではない、と時山にも最近ようやく理解出来るようになっていた。ここでは人の死は極く当たり前であって、ここの職員はテレビドラマように一々誰も誰かの死に驚きもしないし何も慌てたりすることもない。それが時山には、初めの頃は、職員のそんな態度が冷たく思え、皆な非人情、皆なが何だか人間離れしているように思えて、実際ここの人たちに人間としての感情があるのかと疑った時もあったが、今では時山も、入所者の死を聞いても一々驚くことは無くなっていた。
 ここに入所してくるのは、あの世に行くちょっと手前のご老人達、そんなご老人達にとって、ここは、あの世に旅立つ前に、生きた過去の全てを忘れるため、苦しかったことも栄光の経歴も、恥も外聞も、全て忘れ去ってあの世に行く前にちょっとの時間過ごす仮住まい、なのだ。
 時山は、此処へ来るまでの、我が恥晒しの人生を振り返っては後悔を繰り返していたことを、ここで働き始めてすぐに後悔するようなった。もっと早くこんな世界の存在を知るべきだった、と悔やまれた。何も、ひとと競合したり、人と肩を組んで大声で友情を誓わなくても、恥や外聞を惧れて委縮しなくても、世間を怖れて身を隠さなくたって、所詮、人間、死ぬ前には全てこうして忘れさせてくれる時間があって、死んでも、悠々窯の炎に焼かれて死んで行く至福の時間の中であの世に旅立つことが出来たのだ、と。
 「火男さん」こと上村吉信に対して、時山に別段の印象は無かった。ただ火男さんの場合、引き取ってくれる身内が無く、聞けば実際には誰か身内が居るようだが、引取りや、一切の連絡を拒否されていたようで、従って誰にも知らされず、誰にも見送られず、窯に棺に寝たまま押し込まれたのだった。
 それにしても、もうそろそろ職員から、
「焼けましたよ」
と携帯に通知が届いてもよさそうな頃。

 皆が「火男さん」と呼ぶ、だが実際には時山の耳には「ひょっとこはん」と聞こえた、実際、そう呼んでいた、ように思う。
 奇妙な名前、いつだったか施設の職員にその謂れを聞いたことがある。その職員は、ここに入所して来た経緯は知らないが、元は悪名高い放火魔、だと教えてくれた。今でも時に施設を抜け出して近在の町や村、時にはちょっと離れた見知らぬ土地まで遠出して、ゴミや自転車に火をつけて帰って来る、と云う。そのことから誰もが「火男さん」「ひょっとこさん」と呼ぶようになった、と笑いながら話してくれたことがある。
 冗談でなければかなり物騒な人物である。それにもし事実なら、そんなヤバい人物がこんな施設で暮らしている筈は無い。
 冗談がきつい、と時山は話を疑った。しかし、その職員は、話を信用しないふうな時山に、こう付け足した、
「ひょっとこはんの部屋の窓は鉄格子されてるし、鍵も外から、数字合わせの南京錠でロックされている、そんな部屋、火男さんの部屋だけよ」
と真顔で云った。単にマイクロバスの運転手である時山が入所者の部屋を訪ねることは無い。従って、鉄格子、数字合わせの南京錠云々の真偽は定かではない。
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