第38話

文字数 1,519文字


               38,
 警察医からの検視報告書を受けて県警は、当該管轄署に捜査本部を設置し、青木刑事も、当事件発生時に担当していた因縁から捜査班の一員として加えられた。
 青木は、女が、たかが心不全で口から泡を吹いて死んだぐらいで、事がここ迄重大化するとは想像もしていなかった。
 一回目の捜査会議が開かれて、県警本部から派遣された、凶悪事件専門の捜査員達の、事の顛末を読み上げる自分に向けられる目に青木はすっかり委縮してしまい、何度か、自分が今何処を読んでいるのか分からなくなって詰まってしまう失態まで犯してしまった。
 更に、青木が朗読した後、捜査班長の刑事課長から、遺体を掘り起こすなど、今回県警の恥とも云える大騒動に至った諸悪の根源は、本件発生時に事件性を全く疑わなかった初動捜査に全て起因するといきなり糾弾されて、青木は増々蒼褪めた。
 普段、刑事ものをテレビで見る妻や娘らに、こんな、ひとの顔を見て、足許に転がって来た何かを見て、犯人はこいつだあいつだと名指しするスーパーマンみたいな刑事は現実には存在しない、警察の仕事というものは地道にしかし着実に一つ一つ証拠を拾い集め、それを吟味推理して犯人を捜し、追い詰めていく、もんなんやと、ビールを注ぎながら、講釈垂れる自分の姿を思い出し、呪い殺したい程の己のバカさ加減、能力の無さを知って激しく羞恥した。
 青木はしかし不満もある。諸悪の根源云々を云われるのは筋違いだとも一方では反感する。諸悪の根源、初動の誤りを糾弾するなら、その向けるべき矛先は俺ではなく、あの、ヤブの大ヤブの山代を責めるべきではないのか、と。
 あいつの、死因を「心不全」と一言で括った診断書が、青木の思考を一切停止させたからではないか、医者が「心不全」だと宣言するのに、この俺が、何を以って、いや違う、これは重大殺人事件だと云って反論出来ると云うんだ?
 捜査会議は着々と、青木の羞恥など無視して進行し、今後の捜査方針、指針が、熟練職人の手慣れた作業のように次々と細部にまで亘って決められていく。
 会議室末席で青木は明日の我が身の哀れな姿を慮って深い鬱状態に落ち込んでいく。しかし、その恐ろしい予想を抹消せんと何か我が心を奮起させてくれるものはないかと必死に模索する。
ふと、何やら光明らしきものが浮かんで青木、暫しそのアイデアをどうしたものかと深く掘り下げて考えてみた。
 県土の大部分を山、山、山に占有され、人口も下から数えて、あの雪国で有名な県をさえ越えられず全国数番目に少ない県であり、更に、県下でも、時の流れに捨て置かれたようなほぼ未開のこの町、しかしながら、ここは青木が生まれ育った土地である、こいつらが幾ら凶悪事件捜査のプロだと云っても、この土地のことなら、いや極端な話、道端に転がって乾いた犬の糞でも見れば、それがどこの誰の犬の糞かまで俺には断言出来る。
 そこに何か、今回の事件初動捜査で犯した大失態を、挽回出来る何かが有る筈だと思い巡らせていた青木、ふと見上げた黒板に大書きされた、
「農薬パラチオン剤、有機燐酸パラチオン」
を見て、はっきりと何をすべきか閃いた。
この農薬を、誰が持っていて、もしやそれが盗まれていないか調査すればいいのではないかと思い当った。しかも今、捜査班長から、この農薬は一般には果樹園の害虫駆除に使われるとの説明を聞いた青木の頭の中に、海岸の山沿いに並ぶ果樹園の全景が思い浮かんで見えた。
 あの辺りでは柚子の木ばかりが植えられている筈で、また、その奥に谷川沿いに歩けば、ミカン農園が数軒ある。この辺りの誰かの納屋からこの何とか農薬を盗んだ誰かが居て、盗まれた誰かが居る筈…
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