5-8

文字数 1,594文字

「さあ、それであなたはあの子をどうしたいの」
 純香は平板な口調で繰り返した。
 玄関を出ていったのが悟かどうかは分からなかった。二階の自室にもいなかった。
「分かってたのよ。あの子は誰かに夢中になってる。今日やってくる相手がそう。持たせたはずのない物を持ってるし、見たことのない服を着てる。だから少なくとも相手はあの子より歳上で、生活力のある社会人。そう思ってたわ。その通りだったわね」
 まさか、あなたがやって来るとは夢にも思わなかったけど。
 純香のその言葉に、遼一はセーターを、中のシャツごと握りしめた。
 純香は続けた。
「どんなにインモラルな関係でも、あの子が幸せである限り、あたしは許すつもりでいたわ。どのみち、あたしにとやかくいう資格なんてないんだし」
 自嘲するように純香は薄く笑った。そうして、遼一が口を開くのを待っていた。
(悟が、俺の「息子」……)
 胸を張って父と名乗ることは一生できない。だが。
(叔父と甥だ)
 実の両親とそりの合わない甥を、手許に引き取って、一緒に暮らす。叔父であるなら特別珍しいことではない。遼一はたびたび悟を気遣ってくれる、担任の大塚のことを思い出した。たとえば学校の教員になら、そう説明しておけば充分だ。
 悟には、自分が叔父だという事実だけを伝える。
 悟は、叔父に愛されることを受け入れるだろうか。
 年齢差、性別……悟と遼一はそれらをとうに乗り越えてしまっていた。これにもうひとつ、血縁関係が加わっても、今さら何ほどのことがあろう。
 遼一は悟の肌の温かみを、吐息の甘さを思った。生き返って輝く瞳を思った。手放すことはできない。あの子と離れるなんてできない。幸か不幸か悟は男だ。妊娠することもない。この血を受け継ぐ子供はもう増えない。
 もうひとつの真実は、永遠に、自分と純香の胸の中だ。
「あの子と一緒に暮らしたい」
 遼一はみぞおちから拳を離し、純香の顔を真っ直ぐ見た。
「あいつは、俺が引き取る。来春あいつが高校に受かったら、その結果をもって親御さんを説得しようと計画していた。だがもう待たない」
 俺があいつの叔父ならば、ネグレクトしてきた親から引き離してあの子を守る責任があるはずだ。
 遼一はきっぱりそう言った。
 純香は皮肉にふっと笑った。
「ネグレクトねえ。児童虐待という点では、あたしたち同じことをしてるけど」
 鋭い攻撃だった。遼一の胃は痛んだ。が、遼一はここで負けて引き下がるわけにはいかなかった。目をそらした方が負け。遼一は純香を黙ったまま見据えていた。
 純香の口許がゆるんだ。
「いいわよ。あの子をあなたに返してあげる。勝手にふたりで幸せになるといいわ。あの子を愛してやって」
 純香は最後に「あたしができなかった分も」と早口で付け加えた。
 遼一は立ち上がった。
 窓の外ではオレンジ色に照らされた木々が風に揺れていた。冬至が近づいていた。遼一は目を細めた。
「純香さん、俺とあなたの血がつながってなかったら、俺たちはあのとき一緒に幸せになれたのかな」
 純香もものうげにソファから立ち上がった。
「莫迦ね。そもそも血がつながってなかったら、あそこで出会わなかったでしょ」
 遼一は純香の顔を見た。懐かしい、いつも見ているような顔。自分の昔の顔、悟の顔とよく似た卵型で色白の――。
「でも、その代わりあなたはあの子と会えたわね」
「純香さん……姉さん」
 遼一は懐から携帯電話を取り出し、悟の電話を呼び出した。
(悟。もうお前を親の家へ帰らせたりしない。これからずっと俺と一緒だ。悟――)
 早く報告したかった。悟はカフェかどこかで、遼一からの連絡を、今か今かと待っているはずだ。
 呼び出し音が続いた。いくら待っても悟は応答しなかった。
 電話を握りしめる遼一の手に、じっとり冷たい汗がにじんだ。
 床に転がった食器を拾う純香を振り返り、遼一は言った。
「姉さん、悟が電話に出ない」
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