5-13

文字数 2,263文字

 冬の淡い青空に煙が昇っていく。
 愛した小鳥が空へ帰っていく。
 今し方告別式で、遼一はついに自制を失った。通夜と違い参列者も少なく、しんとした式だった。手に手に白い花を棺に入れる。もう目を開かない悟が、花に埋めつくされていく。
「悟ーっ!」
 葬儀社員が棺の蓋を手に近づくのが見えた。遼一はそれを振り払い棺に取りついてその名を叫んだ。
 花の香りがむせるように濃く立ちこめていた。
「悟……悟……」
 遼一はその頬を撫でさすった。冷たい頬。細い身体。この頬を、身体を、幾度愛したことだろう。ほんの短い間でしかなかった。もっともっと愛して、大切にしてやりたかった。遼一の腕の中で、この子はあんなにも幸せそうにまどろんでいたというのに。
 遼一の涙でいくつもの花が揺れた。
 数分して、純香が静かに遼一の背をさすった。穏やかに、だがきっぱりとした手の動きが、遼一を棺から引き剥がした。涙で曇った遼一の視界で、棺の蓋が閉じられていく。もう、二度と、あの身体に触れることはないのだ。コツコツと釘を打つ音が遠くに聞こえた。遼一は両手で顔を覆った。
 もう誰に何を思われても構いやしない。守るべきものは天に還った。
 遼一は廊下の大きなガラス窓から空を見ていた。
 ポケットには、銀の鎖と指輪。
 遼一はそれを取り出して手のひらに載せた。
 純香が控え室から出てきた。
「あたしの人生も、これで本当に終わったわ」
 遼一は黙って純香を見た。
「もともと何もない空っぽな人生だったんだもの」
 純香は遼一を見るでもなく、遼一と並んでガラス窓から空を見上げた。
「たったひとつ残ってたあの子も去っていった。もう何も残ってないわ」
 遼一は手のひらから指輪を取り上げ、空へかざした。
「あなたは、今度こそ、あなた自身の人生を歩んだらいかがですか」
 純香は感情のこもらない声で問うた。
「そんなこと言って。あなたはあの子のことを忘れられる?」
 遼一は答える代わりに指輪を握りしめ、鎖と一緒にポケットへ戻した。純香は皮肉に少し笑った。
「……いつか忘れるか。あなたは男のコですもんね」
 確かに自分は十年かかって純香を忘れた。そうしてしばらくして、悟と出会った。悟とは一生を一緒に過ごすと決めていた。多分、遼一はそうするだろう。悟がこの世からいなくなっても。
 だが、遼一はそれを純香に説明しはしなかった。純香を残し、黙って廊下を引き返した。

 華奢な身体の、華奢な骨。悟の肌のように白い陶器にそれを納めていく。本当は指輪と鎖も一緒に焼いてやりたかった。悟は多分そうされた方が嬉しいと思うから。副葬品は制限されていた。だからそれらは形見にする。遼一の視界は繰りかえし涙ににじむ。
 作業の途中で、唐突に純香は言った。
「遼一くん。どれか持っていく?」
「え」
 分骨っていうか、するなら今よ。純香がそう言うと、篠田氏が珍しく口を挟んだ。
「分骨には証明書が要るぞ。出してもらうなら頼んでおかないと」
「あらそう」
 純香は動じない。
「いえ、いいんです」
 遼一は慌てて断った。あのキレイな身体を思い出させる白い骨は、バラバラにしないで、ひとつところで眠らせてやりたい。
 篠田氏は遼一の方をチラと見て、また無言で作業に戻った。
 外へ出ると、青空の下は風もなく穏やかだった。
「結局、あなたとあの子の関係は、一体何だったんですか」
 ここ数日ほとんど会話を交わさなかった篠田氏が、遼一に尋ねた。
「何だったんでしょうね。僕にもよく分からんです」
 遼一はそう答えて空を見上げた。今日は穏やかな天気だが、近々また冷え込むだろう。雪が積もるのも近い。火葬場の太い煙突からは、煙が上り続けている。何人ものひとの大事なひとが、こうして天に還っていく。
 遼一は冷たい空気を胸いっぱい吸い込んで、ゆっくり吐き出した。
「叔父と甥……でしょうかね、やっぱり」
 遼一は篠田氏を振り返った。篠田氏は納得したのかしないのか、うなずきもせず遼一の返事を聞いていた。
 遼一は彼の小鳥の感触を思い出していた。優しい子だった。よく気のつく子だった。
「あの子は、あなたを解放することができたと言って、喜んでいましたよ」
 本当のことだった。遼一は事実を篠田氏に告げた。
「そうですか……。小さな頃から、不思議な子だった。わたしとはまるで別の世界を見ているようで、大人びていてねえ」
 篠田氏は自分の血が入っていない形ばかりの息子のことをそう語った。篠田氏の感じていた悟は、確かにその通りの子供だったのだろう。
 遼一は幾度かうなずいて、微笑んだ。
「よく気のつく、優しい子でした。そこはきっと、あなたの血なんでしょうね」
 篠田氏は面食らったような表情を浮かべ、黙り込んだ。
 篠田氏の抱える遺影には、ぎこちない笑顔を浮かべた悟。
 遼一はポケットに手を入れ、鎖と指輪に指を触れた。
 これを指にはめられ、頚にかけられたときの悟の笑み。うっとりして、頬を染めて。幸せそうに。涙を流して。
 こっちが本物だ。
(悟。そこにいるのか)
 遼一の頬をそよそよと風が撫でていった。
(早く迎えにきてくれよ。俺も連れていってくれ)
 解放なんてされない。される訳がない。
 高台に設けられた火葬場から市街へ戻る葬儀社の車の前で、純香が待っていた。
 遼一は夫妻の後から車に乗り込んだ。
 パルプの廃液の臭いが立ちこめる、市街へ。
(悟――)
 遼一はこの不幸な血の鎖から逃れることはもうしない。
 なぜなら鎖でつながれた向こうには、遼一の愛した悟がいるから。
 車は枯れた木々の間を縫って、市街地を目指した。
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