4-2

文字数 2,472文字

 遼一の手が悟の裸の腹から腰をゆっくり行ったり来たりと撫でていた。かたわらに肘をついて寝そべり、虚脱する悟を慰めるようにそっと。これも穏やかな時間。悟の羞恥や当惑を呑み込んだ満足げな呼吸が、メトロノームのように秋の午後のときを刻む。
「悟……」
「……ん?」
「今日は何と言って家を出てきた?」
「ん……」
 遼一はついに悟が自室に一泊することを許した。今日と明日、この土日は一緒に過ごす。明日、日曜の夜いつものように悟をコンビニの角まで送っていくまでずっと。
 悟は面倒そうにのろのろと答えた。
「いつもと同じだよ。友だちのところで勉強するって。泊まってくることも、ちゃんと言ってきたよ」
 無断で来てはいないようだ。だが確認すべきはもうひとつ。
「それを誰に言ってきた?」
「佐藤さん」
「佐藤さん?」
「うん。早番だったから」
 早番?
 疑問に遼一の手が止まったらしく、悟はその手を取った。
「昔は住み込みのひともいたんだけど、今は二交代かな。朝七時からひとり来て、午後の二時からまたひとり来る。来るのはそれぞれ週に四回か五回だから、誰もいない時間帯もあるけど」
 悟はそう説明しながら、遼一の指を開いたり閉じたり、手のひらのしわをなぞったりして遊んでいた。
「だから、朝家にいたのは、今日早番の佐藤さん」
 そういうシステムだったのか。遼一は恐れ入った。遠い記憶のどこかでうっすら聞いたような話ではある。
「悟ぅ、俺毎回言うけどさ、そういうことは親御さんに直接言えよ」
 小言みたいなことを言いたくはない。が、しかし。
 悟は遼一の指に唇を当てた。
「ウチは遼一さんが思い描くような温かい家庭じゃないから」
 遼一の中指の関節を、白い歯で甘く噛んだ。言葉の端々で遼一の指に舌が触れた。
「土曜の朝に父親が家にいる訳ないし。母親は自分の部屋から出てこないよ。いない相手にどうやってものを言うんだよ」
 お手伝いさんに言っとけばあのひとに伝わるからいいんだよ。そう悟はつけ加えた。
 遼一は自分の手を悟の口許から取り上げ、身体を起こして悟の顔をのぞき込んだ。その瞳は生きていた。遼一は安堵した。以前なら、親の話になると生命のないガラス玉に戻ってしまったものだった。遼一が悟を愛したから、悟は生き返ったのだったら、もしそうだったら嬉しいと遼一は思った。
「じゃあ、誰がお前を育てたんだ」
 悟は少し考えたのち答えた。
「うーん。小学校に上がってしばらくは、母親ももう少しそばにいたかな。あとはお手伝いさんじゃない? 父親は今よりは帰ってきてたけど、構ってもらった記憶はないね」
 ふたりとも、僕に興味ないんだと思うよ。
 遼一は悟の頬を撫でた。
「じゃあ、俺がご両親から悟を奪っても、ご両親は支障なく生きていけるな」
「遼一さん?」
「あと半年して、悟がちゃんと高校に受かったら、俺のところから通うといい」
 いくら悟が反抗期だったり、幼くて両親を取り巻く状況を正しく理解していなかったのだとしても、そんな生物学的な両親より自分の方が、この子を愛しているのは間違いなかった。
「俺の言ってることが分かるか?」
 遼一がそう聞くと、悟は上目づかいに小さく答えた。
「……一緒に住もう……ってこと?」
 遼一は優しく笑った。
「正解。先に言っとくけど、俺、誰とも一緒に暮らしたことはないからな。こんなこと誰かに言うのも初めてだよ」
 だから成績をもう少し上げて、外出するときはきっちり連絡して、品行方正でいるんだ。遼一はそう悟に言い聞かせた。そうすれば、通学や勉強に有利だから下宿するという言い訳が通用する。
「もちろん、俺たちがこんなになってるのは極秘だ。俺のところで、悟がこんな格好で、可愛い声を上げてるのが知られたら、許される訳ないからな」
 最悪接近禁止命令が出ると、会うことすらできなくなってしまう。
 遼一がそう言うと、不服そうに悟は言った。
「そういう風に言わないで」
 骨張った膝をすり合わせて目を伏せた。
「……また、ガマンできなくなっちゃうじゃないか」
 可愛い。とてつもなく可愛い。  
 どうしよう。俺。
 メロメロだ。


 時間の縛りなく過ごす夜は甘やかで、ふたりを離れがたくした。
 悟の規則的な寝息は健やかで、首筋辺りの幼い香りは不思議に甘かった。この温かみを抱いて浅い眠りを漂っていると、身体の隅々まで浄化されるようだ。
 小鳥を胸に抱いて朝が来た。「う……ん」と軽い声とともに遼一の小鳥は目を覚ました。ひとりで深く眠った朝より、遼一の手足には力が充実していた。悟は紅い唇を開いた。
「……朝?」
「ああ」
 どちらからともなく唇を合わせ、身体に回した腕に力を入れた。
 午前の陽が高くなって、悟は台所でコーヒーを淹れた。遼一はその横で、簡単な朝食を用意した。狭い台所で、肘を、脚をぶつけながら作業をする。
 この感覚は何だろう。とてつもなく邪魔なはずなのに。
 トーストと卵とコーヒーの遅い朝食を摂っていると、珍しく遼一の携帯が鳴った。
「はい、村上です」
 遼一は渋々電話に出た。かけてきたのは取引先の担当者だった。日曜なので放置し、翌営業日に折り返すという手もあったが、担当者にしたところで日曜日に遼一の個人携帯に連絡してくるのは異例だった。何かのっぴきならない事情に違いない。
「はい……、はい、分かりました。……いえ、構いませんよ。では一四時に」
 遼一は通話を切り、憮然としてPCの前に電話を放り出した。
「どうしたの? 何かトラブル?」
 悟は気づかわしげに遼一をのぞき込んだ。遼一はムスッとしたまま答えた。
「展示会の準備に来てるロシアの取引先が、子供連れなんだと。午後から商談するので、その間子供を看てて欲しいんだってさ」
 ロシア語の通訳は本職を頼むことになり、遼一はお役御免となっていた。こんな形でお役目が回ってくるとは。しかも子供相手。
「ええ? じゃあ、遼一さん、仕事に行っちゃうの」
 悟は心細そうな顔をした。遼一は良案を思いついた。
「お前もだ、悟」
「え?」
「いくつの子供か知らんが、俺ひとりで相手は無理だ。一緒に来てくれ」
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