1ー9

文字数 2,885文字

 どうだろう、この提案を呑む気があるかい?
 遼一にそう聞かれ、子分たちはカクカクとうなずいた。リーダー格の石川は、悔しそうに渋々「分かった」と呟いた。これでICレコーダーには、三人全員がいじめの事実を認めた音声が録音された。ここまで来れば、再発が見られてもすべてを公表すればいいだけだ。頭の回転の速い子なら、自分たちにどれだけの損失があるか計算できるだろう。一方、遼一に失うものは何もない。仮に恐喝の疑いで今の職を失っても、食うに困ることはない。悟だって、理不尽な暴力から解放されれば、その方がいいはずだ。遼一はその背に庇っていた悟を振り返った。
「そうそう。大事なことを後回しにしてた。君の気持ちははどうだろう? 何か彼らにして欲しいことはあるかい? どうすれば君の気は済むかな」
 遼一は悪ガキどもから確約を取りつけたあとで、当事者である悟の意見を求めた。悟は拳を握りしめ、真っ直ぐ彼らを見て言った。
「今後は、僕に指一本触れないで欲しい。学校の正式な用事以外で、僕に話しかけるのも止めてくれ。これ以上いじめをしなければ、僕からも反撃はしない。でも、今後何かあれば警察に告訴するし、民事裁判に訴えるし、法に反しない全ての対応を取る積もりだから」
 泣き寝入りは、もうしない。
 悟が歯を食いしばってそう言うと、石川はフンと鼻を鳴らした。
「謝ってもらったり、しなくていいの?」
 遼一はわざと悟にそう聞いた。
「要らない」
 悟は即答した。
「今この場で謝らせても、それは絶対本心じゃない。僕もどうせ許さない。あんたたちが今後の行動を変えればそれでいい」
 悟はぷいと横を向いた。
「なるほど」
 遼一は数度うなずいて、いじめっこたちの方へ向き直った。
「よかったねえ、君たち。でもこれは無罪放免って意味じゃないからね。君たちもこの子も、この先安心して学校生活を送り、つつがなく高校受験できるよう合意したってだけのことだから。双方のどちらかが合意を破れば、引き替えに失うものがいろいろあるよ」
 石川は悔しそうに首を振った。
「分かったよ。合意だな。そっちも約束は守れよ」
 おう、行くぞ。子分を顎で促し、石川は去っていった。三人が堤防に上がり、見えなくなってから、遼一はICレコーダーの電源を切った。遼一の横で、悟がフラフラとその場にへたり込んだ。膝から力が抜けたのだ。
「おいおい、大丈夫か」
 遼一は慌てて悟の腕を取り、ベンチに腰掛けさせた。雪解け水で湿った地面に触れたズボンの汚れをハンカチで拭ってやった。遼一の目の前で細い脚が震えていた。
 ひくっと悟ののどが鳴った。
 遼一は悟の膝の前に屈んだまま、悟の顔を見上げた。頬を涙が伝っていた。柔らかな頬に流れる涙を、腕を伸ばして指の腹で拭ってやった。悟の唇から白い歯がのぞいた。
「遼一さん……」
「ん?」
「僕……」
 はにかんだように少し笑って悟が呟いた言葉に、遼一はその細い肩を抱きしめてねぎらいたくなるのを、すんでのところで何とかこらえた。
 これで僕、ようやく人間になれたね。


 ゆめゆめ油断はしないこと。そう誓って悟は学校に通い続けた。第三者の目のないところで、いじめっこたちと一緒にならないように。持ちものは常に確認して、なくなったものがあればすぐに分かるように。周囲の人間の言動に注意して、連中があらぬ噂を流していないように。
 公園での直談判から二週間を過ぎる頃、悟は授業で使う機材を取りにやらされた理科室で、石川と鉢合わせした。石川が理科室を出ていくのを廊下で待っていた悟に、すれ違いざま石川はこう言ったそうだ。
(お前にあんなデカイ兄貴がいたかよ)
 僕たち、身内を紹介し合う仲だったことがあった?
 悟はそう言い返したらしい。
 痛快だ。それを聞いて遼一は笑った。
 三人組にいじめを止めると約束させたとき、悟は「ようやく人間になれた」と言った。それまでの悟は、連中にとってのサンドバッグであり金づるだったのだ。だが、十年もそんな状態に黙って耐えているのもおかしい。なぜそんなに無気力に、されるがままになっていたのだろう。瞳がガラス玉になるほどに。遼一は訝しんだ。
 長く経過を見る必要があるとは言え、ひとまずいじめは止んだ。遼一はセイフティスポットとしての自分の役割は終えたと思った。今週、悟は一度も遼一の部屋に来なかった。土曜日、遼一は真昼の光が差し込む眩しい台所で、やかんに湯を沸かした。食器棚からま新しい揃いのカップの片方を出して、ココアを淹れてみた。悟がここへ英語を勉強しに来るようになっていく度目かの週末に、ホームセンターで買ったものだ。
 ひとづき合いをしない遼一は、客用の食器を持たなかった。卒業する先輩から譲り受ける、通りすがりの陶器市で投げ売りを拾う、そんな経緯で遼一のところへやってきた最小限の食器は、大きさも用途もバラバラだった。特段不便を感じたことはなかった。そこへ、悟がやってきた。凸凹のあり合わせのカップに初めて不便を感じ、食料品や細々とした買いものにつき合わせた悟と、揃いのカップを買ったのだった。
 ココアは甘かった。遼一は自分から甘いものは摂らない。悟が好むので、ココアと、たまに菓子を買うようになった。
 悟がやってくるとき、まずトントン軽い足音がする。外の階段を上がってくる音だ。部屋の前で必ずひと呼吸入れてから、悟は部屋のブザーを押す。カギはかけていないのに、遼一が出ていって、ドアを開けてやるまで行儀よく待っている。遼一がドアを開けると、悟は細い隙間からスルリと靴脱ぎに入ってくるので、それまで遼一は外開きのドアを開けたまま押さえておいてやる。まるで小鳥が遼一の懐に飛び込んでくるのを待つように。
 台所で窓越しの光に灼かれながら、ぼんやりと遼一はドアを眺めた。開くことのないドア。この街へ来て二ヶ月ちょっとが過ぎていた。東京で過ごした十五年より、他人と接した気のする二ヶ月だった。遼一には今気怠い達成感がある。二ヶ月で、悟というひとりの中学生は、目に感情が戻り、いじめが止まり、人間になったのだ。自分という人間が、誰かほかのひとの役に立てたのだ。
 カップを手に流し台にもたれ、遼一は居間兼仕事場に目をやった。悟はよい生徒だった。物覚えもよかったし、語彙も増えた。語順と時制に慣れてしまいさえすれば、英語の点数は順調に伸びるだろう。あれだけの読書家なのだ、言語に親和性は高いはずだ。悟はいつも部屋に入ってテーブルの向こう側に座った。少しずつ笑うようになった。悟の笑顔に遼一は安心した。ここでだけは、心を解いて悟は笑っていられると。
 子供は成長するものだ。
 傷ついて庭に下りてきた小鳥の世話をしたのだ。傷が治って、小鳥は巣立った。
 遼一は遼一ひとりの生活に戻る。
 甘いココアをもてあまし、残っていた三分の一を流しに捨てた。遼一はコーヒーを淹れ直そうと再びやかんを火にかけた。
 窓の外でトントンと軽い音がした。
 すりガラス越しに人影が見えた。
 ブザーが鳴る前に、遼一はドアを開けていた。
 悟が、笑って遼一を見上げていた。

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