4-10
文字数 2,268文字
その手にぶら下がって甘える子供を、とろけるような笑顔で見下ろす父親っぷりに、遼一は軽い憎悪を覚えた。その愛情の何割かでも、悟に分け与えていてくれたら。悟はあんな風に死んだ目をして、この世の全てから隔たった暗い世界を生きては来なかったのだ。
遼一は少しの距離を開けて後を続いた。
「父さん、こんにちは」
悟がそう声をかける前に、父親の方は近づいてくる息子の姿に気づいていた。驚いたようなうろたえたような表情を浮かべ、家族を庇うように仁王立ちになった。
悟は優しげに微笑んだ。
「隠さなくていいよ、僕知ってたよ」
父親は、観念したようにうなだれて、そして再び顔を上げた。家族に何か告げて、「妻」の背を軽く押しやった。「妻」は悟にわずかに会釈をして、小さな子供の手を引いた。遼一は、悟がこの往来で暴れ出しても、すぐ止めに入れる距離に控えた。
「悟……」
父親は、息子の名を呼んだ。呼ばれた息子は、うなずいて言った。
「父さんにだって、幸せになる権利あるもんね。だって、母さん。……あのひとじゃさ。分かるよ僕だって男だし」
訳知り顔でうなづく中学生。確かに嫌な存在だろう。父親は居心地悪そうに身じろぎした。
悟は母親が子供を遊ばせている休憩テーブルに目をやった。
「可愛い子だね。あの子が大きくなる頃には、いつも一緒にいてあげられるようになってたいよね。僕、父さんを応援してあげるよ」
「悟?」
父親は、息子が何を言わんとしているのか、警戒の色を浮かべた。悟はまた数度うなずいて言った。
「分かってる。事業はプライベートとは別だ。でもね、細かいことを気にするひとたちも、いるんじゃない?」
悟は数歩歩いて立ち止まり、父親を横目で振り返った。
「僕は大人になっても、お祖父さんや父さんの事業に関わろうとは思ってないよ。でも、いざってとき、直系の僕が賛成してるって、それなりの意味があると思うんだよね」
頭の固い古株のひとたちが、まだまだいるんでしょ? 番頭さんや、家老みたいなひとたちが。そのひとたちの世界観では、僕はまだまだ「若君」だ。悟は笑いながら、歌うようにそう言った。
「どういう意味だ。……交換条件は何だ」
うなるように父親はそう言った。
「ふーん。さすが経営者。読みが鋭いね」
悟はまたおかしそうにクスクスと笑った。遼一は先ほどの悟の豹変ぶりを思い出した。悟は小悪魔モード全開だった。
悟は振り返り、父親を正面に見据えた。
「そう、いざってとき、僕は父さんの味方をする。その代わり、父さんも僕の味方をして欲しいんだ」
悟は遼一の方へ目をやった。
「僕ね、中学を出たら、彼と暮らしたいの」
今だって僕、あまり家にはいないんだよ、あなたは知らないだろうけど。そう、彼の部屋でご飯食べたり、勉強したり、本を読んだり、いろいろね。
彼はね、十年続いたいじめを解決してくれたし、教員の当たりが悪くてサッパリ理解できなかった英語を一から鍛え直してくれた。知らなかったでしょ? 僕がそんな問題を抱えていたなんて。
そうだよ、病院へ行くほどのケガだってした。いつも体中アザだらけだった。英語だって、高校は進学校ムリそうだった。進学校へ入っておかないとさ、遠くのそれなりの大学に入らないと、家から出られないと思ってたから。本当に困ってたんだ。
細かいことは言いっこなし。道徳的に多少アレなのはお互いさまなんだしさ。少なくとも僕たちは純愛だから。引き替えにする財産や地位なんて何もないし、妊娠だってしない。
どうかな、取引は成立する?
観念した父親は、黙って悟の話を聞いていた。悟がところどころクスクスと笑いをもらすたび、居心地の悪そうな表情を浮かべていたが、悟が話の終わりにそう彼に尋ねると、彼は悟に向かって右手を差し出した。
「ああ、分かった。取引だ」
「握手? 紳士だね」
悟は差し出されたその手を握った。初めて味わった父親の皮膚の感触が取引の握手だったら、グレない方がどうかしている。悟はすぐにその手を離した。ビクリとした父親に、悟はまた笑顔を向けた。
「安心して。もうムリに僕を可愛いと思わなくていいんだからね。本当に愛してる家族を大事にしてあげて」
僕にだって、僕を愛してくれてるひとがちゃんといるから。最後に悟はそうつけ加えた。会話の終了の合図に、少し離れたところでふたりの様子を心配そうにうかがっていた父の「妻」に、悟は笑顔で手を振った。
そう。悟は今幸せなのだった。自分には一切構わなかった父が、外で子煩悩ぶりを発揮するのを目にしても、もはや痛くも痒くも感じないほどに。
再び合流する親子を背に、悟は小走りに遼一のそばへ戻ってきた。
「お待たせ!」
遼一の手をつかんで、勢いよく歩き出す。
「悟……」
遼一は何と声をかけたらよいか決めかねていた。悟は上機嫌でつかんだ遼一の手を振った。
「ふふふ。あの男を家から解放してやったぜ。いいことをすると気分がいいなあ」
遼一は黙って悟に手を振られていた。握った手から悟の開放感が伝わってきた。今、悟は、自分を省みなかった空中分解家族の一角から自由になったのだ。自分を愛さない父を、愛する義務はなくなったのだ。
「ふふ……」
悟は遼一の手を握ったまま、遼一の腕にもたれかかった。
「ねえ遼一さん、ごほうびに、遼一さんにメチャクチャに可愛がられたい。早く帰って」
悟はそこで口をつぐみ下を向いた。遼一の手を握ったまま黙って足下を見て歩いていたが、悟は遼一の指に自分の指を一本ずつ滑り込ませた。
「……僕を愛して」
耳まで赤くなっていた。
遼一は少しの距離を開けて後を続いた。
「父さん、こんにちは」
悟がそう声をかける前に、父親の方は近づいてくる息子の姿に気づいていた。驚いたようなうろたえたような表情を浮かべ、家族を庇うように仁王立ちになった。
悟は優しげに微笑んだ。
「隠さなくていいよ、僕知ってたよ」
父親は、観念したようにうなだれて、そして再び顔を上げた。家族に何か告げて、「妻」の背を軽く押しやった。「妻」は悟にわずかに会釈をして、小さな子供の手を引いた。遼一は、悟がこの往来で暴れ出しても、すぐ止めに入れる距離に控えた。
「悟……」
父親は、息子の名を呼んだ。呼ばれた息子は、うなずいて言った。
「父さんにだって、幸せになる権利あるもんね。だって、母さん。……あのひとじゃさ。分かるよ僕だって男だし」
訳知り顔でうなづく中学生。確かに嫌な存在だろう。父親は居心地悪そうに身じろぎした。
悟は母親が子供を遊ばせている休憩テーブルに目をやった。
「可愛い子だね。あの子が大きくなる頃には、いつも一緒にいてあげられるようになってたいよね。僕、父さんを応援してあげるよ」
「悟?」
父親は、息子が何を言わんとしているのか、警戒の色を浮かべた。悟はまた数度うなずいて言った。
「分かってる。事業はプライベートとは別だ。でもね、細かいことを気にするひとたちも、いるんじゃない?」
悟は数歩歩いて立ち止まり、父親を横目で振り返った。
「僕は大人になっても、お祖父さんや父さんの事業に関わろうとは思ってないよ。でも、いざってとき、直系の僕が賛成してるって、それなりの意味があると思うんだよね」
頭の固い古株のひとたちが、まだまだいるんでしょ? 番頭さんや、家老みたいなひとたちが。そのひとたちの世界観では、僕はまだまだ「若君」だ。悟は笑いながら、歌うようにそう言った。
「どういう意味だ。……交換条件は何だ」
うなるように父親はそう言った。
「ふーん。さすが経営者。読みが鋭いね」
悟はまたおかしそうにクスクスと笑った。遼一は先ほどの悟の豹変ぶりを思い出した。悟は小悪魔モード全開だった。
悟は振り返り、父親を正面に見据えた。
「そう、いざってとき、僕は父さんの味方をする。その代わり、父さんも僕の味方をして欲しいんだ」
悟は遼一の方へ目をやった。
「僕ね、中学を出たら、彼と暮らしたいの」
今だって僕、あまり家にはいないんだよ、あなたは知らないだろうけど。そう、彼の部屋でご飯食べたり、勉強したり、本を読んだり、いろいろね。
彼はね、十年続いたいじめを解決してくれたし、教員の当たりが悪くてサッパリ理解できなかった英語を一から鍛え直してくれた。知らなかったでしょ? 僕がそんな問題を抱えていたなんて。
そうだよ、病院へ行くほどのケガだってした。いつも体中アザだらけだった。英語だって、高校は進学校ムリそうだった。進学校へ入っておかないとさ、遠くのそれなりの大学に入らないと、家から出られないと思ってたから。本当に困ってたんだ。
細かいことは言いっこなし。道徳的に多少アレなのはお互いさまなんだしさ。少なくとも僕たちは純愛だから。引き替えにする財産や地位なんて何もないし、妊娠だってしない。
どうかな、取引は成立する?
観念した父親は、黙って悟の話を聞いていた。悟がところどころクスクスと笑いをもらすたび、居心地の悪そうな表情を浮かべていたが、悟が話の終わりにそう彼に尋ねると、彼は悟に向かって右手を差し出した。
「ああ、分かった。取引だ」
「握手? 紳士だね」
悟は差し出されたその手を握った。初めて味わった父親の皮膚の感触が取引の握手だったら、グレない方がどうかしている。悟はすぐにその手を離した。ビクリとした父親に、悟はまた笑顔を向けた。
「安心して。もうムリに僕を可愛いと思わなくていいんだからね。本当に愛してる家族を大事にしてあげて」
僕にだって、僕を愛してくれてるひとがちゃんといるから。最後に悟はそうつけ加えた。会話の終了の合図に、少し離れたところでふたりの様子を心配そうにうかがっていた父の「妻」に、悟は笑顔で手を振った。
そう。悟は今幸せなのだった。自分には一切構わなかった父が、外で子煩悩ぶりを発揮するのを目にしても、もはや痛くも痒くも感じないほどに。
再び合流する親子を背に、悟は小走りに遼一のそばへ戻ってきた。
「お待たせ!」
遼一の手をつかんで、勢いよく歩き出す。
「悟……」
遼一は何と声をかけたらよいか決めかねていた。悟は上機嫌でつかんだ遼一の手を振った。
「ふふふ。あの男を家から解放してやったぜ。いいことをすると気分がいいなあ」
遼一は黙って悟に手を振られていた。握った手から悟の開放感が伝わってきた。今、悟は、自分を省みなかった空中分解家族の一角から自由になったのだ。自分を愛さない父を、愛する義務はなくなったのだ。
「ふふ……」
悟は遼一の手を握ったまま、遼一の腕にもたれかかった。
「ねえ遼一さん、ごほうびに、遼一さんにメチャクチャに可愛がられたい。早く帰って」
悟はそこで口をつぐみ下を向いた。遼一の手を握ったまま黙って足下を見て歩いていたが、悟は遼一の指に自分の指を一本ずつ滑り込ませた。
「……僕を愛して」
耳まで赤くなっていた。