5-9

文字数 2,988文字

 ドアの向こうから、母の皮肉な口調が続く。
「で? あなたはあの子をどうしたいの? 引き取りたい? どうして分かったの?……そりゃ分かるわよね。これだけ同じ顔をしていれば」
(「分かった」?)
(何を? 遼一さんは、何を分かったの?)
(母さん……、あなたはいったい何を……?)
 悟は壁から背中を離し、耳を澄ませた。
「姉さん、何を言っている? 俺が何を分かったと」
 緊迫した遼一の声がそう尋ねた。母からの答えはない。
「まさか、そういうことなのか。悟は」
 遼一の声のトーンが変わった。
(遼一さん?)
「そうか……三十二引く十七で十五。簡単な計算だ」
(どういうこと)
 三十二は遼一の年齢。十五は、悟。
 遼一がこの街を出ていったのが高校生のときなら。
 悟の膝が震えた。
「俺はどうしてひとに言われるまで気づけないんだろう。春にあの子に出会ったときも、あの子の顔を見た瞬間、あなたのことを思い出したというのに」
 三月、川辺で初めて出会ったとき。
 遼一は、三人組に小突かれ、蹴られていた自分を救ってくれた。持ちものを拾って「大丈夫か」と自分をのぞき込んだ。
 あのとき。
 遼一は数秒絶句して自分を見ていた。
 あの数秒。
 悟の心に遼一が焼きついたあの数秒で、遼一の脳内で再生されていたのは、母の、純香の姿だったなら、遼一が故郷を出される原因となったのは。
 遼一は言っていた。「やんちゃがばれて追い出された」と。
 高校生が何百キロも離れた都会へ追い出されるほどのできごととは。
 十七だった遼一が、故郷と自分の出自にまつわるすべてを忘れて生きていこうと決心した理由は――。 
「あなたの人生への復讐は、完成したんだね、純香さん」
(「叔父さん」じゃ、ないの? 遼一さん。だって、あなたが母さんの弟なら)
 悟は全てを理解した。
 自分は、いてはいけない存在なのだということを。
 たった今、自分を絶対的な安堵へ導いた血の絆が。
 これこそが、遼一を深く傷つけ、純香をおかしくさせた鎖だった。
(あなたが、僕の本当の、「父さん」……)
 悟は壁に寄りかかったまま、廊下の暗い天井を見上げた。
 遠い昔、遼一は母と、彼の姉と愛し合ったのだ。 
 悟が生涯初めて恋に落ちたあの瞬間。初めて人間に出会ったあの刻。
 悟の顔を見た遼一は、その顔とそっくりの、かつて愛した女の幻影を見ていたのだ。
 ふとした折に遼一が、自分を通り越して遠くに視点を合わせていたのも、悟の思い過ごしではなかった。遼一は、母を、純香を見ていたのだ。姉の純香を。
 確かによく似ていると思う。どこへ行っても必ず「お母さんにそっくりね」と言われて育った。それが当たり前なのだと今なら分かる。どちらの遺伝子が発現しても、この顔になるはずなのだから。
(そうか……。僕は、あなたと母さんの……)
 あまりのことに、悟はふたりの会話を盗み聞くのも忘れて呆然としていた。
 自分の身体に流れているのは、いとわしく呪われた血。父が自分を愛さないのも道理だった。篠田の血など自分の身体には一滴も入っていなかった。江藤の祖父から流れ出た、母親の異なるふたりの血が、再び自分という器でひとの形を成したのだ。そして、母が自分を見ない理由も納得がいった。自分は、篠田悟という人間は、仮に「篠田」姓を名乗っている間だけ存在できる亡霊のようなものだった。母は、純香は、どんな思いで十五年、自分の姿を見ていたのだろう。悟はかばんのひもを握り直した。かたかたと震えるのを、音を出す前に止めるために。
「そんな……そんなひどいこと」
 遼一の声が、悟をこの世界に呼び戻した。
(遼一さん……)
 遼一が、母の悟への仕打ちを非難していた。遼一だけは、悟の味方だ。当然だ。
(だって遼一さんは、僕を愛しているんだから)
 遼一が、自分を愛してくれたのは、どうしてだろう。
 自分が先に遼一に夢中になり、つきまとった成果だろうか。
 それとも、母さんにそっくりだから?
「俺の……子か、悟は」
 昔、自分が愛した女性に?
 僕がいつも張り合って、負け続けていたゴーストに?
「何だ、この、繰り返しは……。何かの呪いなのか」
 食いしばった歯のすき間から漏れ出るような、苦しげな遼一の声。
(呪い)
 かつて愛したのは血のつながった姉で、今愛しているのはその姉との間にできた子供で。いてはいけない子供。自分は、それだ。
「どうして俺は、いつも」
 遼一の声を背に、悟は家を後にした。

  
 遼一は悟の立ち寄りそうな場所を思いつく限りに探し回った。悟が問題集を開いていそうなカフェとファストフード店、歩いて行ける範囲の書店、いつかカーチャを案内した公園も回ってみた。学校に戻っているかと大塚の携帯にかけてもみた。悟はいなかった。
「駄目だ。どこにもいない」
 遼一は息を切らしたまま、運転席から純香に報告した。純香はお手伝いさんたちと屋敷の中と近辺ををくまなく探していた。
(そう。あなたたち、今日はこの後どうする予定だったの?)
「え……」
 遼一は呼吸を整えながら考えた。
「はっきり約束してた訳じゃないけど」
 カフェで待つ悟を拾い、途中夕食と明日の朝食の材料を調達して、一緒に遼一の部屋へ帰る。部屋へ戻ったら台所に荷物を下ろして悟を抱きしめ、あの甘い香りを楽しみながらキスをする。幼い唇と舌を堪能したら悟を解放してやり、悟は瞳をうっとり濡らしてコーヒーを淹れ、自分は夕食の時間まで軽く仕事の続きをするだろう。いつもの恋人同士のルーティン。
(あの子、あなたの部屋のカギは持ってるのね?)
「ああ」
(じゃあ、あなたはあなたの部屋で、あの子が来るのを待って頂戴)
 悟が現れたら、互いに連絡することにして通話を切った。
「さーよ。お前いったい今どこにいるんだ」
 篠田の家の扉がバタンと閉まった音が蘇った。
(あれは悟だったのか……)
 母親と、歳上で同性の恋人との交渉がどうなるか。気が気ではなかったろう。もしかして、廊下で純香との会話を聞いていたのではあるまいか。
 扉の閉まる音がしたとき、遼一と純香はどこまで話していたろうか。
 まさか――。
「お前の耳にだけは入れたくなかった」
 遼一はハンドルを握りしめ、唇をかんだ。
 ねっとりと不幸の絡みつく、自身の血脈。まさか、悟もそこから産まれ出た子供だったなんて。若き日の自分の犯した過ちが、あの子供を産み出していたなんて。
 不幸の連鎖。
 自分は大人の計算で、それを胸にしまって生きていこうと決めた。
 自分はそれを知らなかったこと、なかったこととして、叔父甥の関係であの子を養育していると、世間的につじつまを合わせて。そして、悟の欲しがるものは何でも与える。参考書でも、指輪でも、セックスでも、何でもだ。
 悟は知ってしまっただろうか。自らの血がどこから来たか。姉と知りながら交わり、自分を産み出したまま何も知らずにのうのうと生きてきた遼一を、憎んだろうか。侮蔑したろうか。怨んだろうか。
 ずるい大人の計算を、あの若い魂は受け容れることができるだろうか。
 遼一は車のエンジンをかけた。
(悟。お前はそれでも、俺を愛してくれるか)
 虫のよすぎる話かもしれない。だが。
(俺はもう、お前なしでは――)
 遼一は自分の部屋へ向かった。部屋の窓に明かりが灯っていることを願いながら。
 不幸の鎖は、銀色に輝いて彼らをつなぎ、絶望に縛りつけていた。
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