5-7

文字数 3,867文字

 純香はふと立ったままの遼一に視線を合わせた。
「で? あなたはあの子をどうしたいの? 引き取りたい? どうして分かったの?」
「分かった?」
 純香はくつくつと咽の奥で笑った。
「くく……、そりゃ分かるわよね。これだけ同じ顔をしていれば」
「姉さん、何を言っている? 俺が何を分かったと」
 その瞬間、遼一の心臓が冷たいかぎ爪につかまれた。
「まさか、そういうことなのか。悟は」
 遼一はそこで言葉を切った。
 純香は無表情のまま遼一を見上げていた。無表情の瞳の奥に微かな憎しみがよぎるのが見えた。
「あなた、それでここへ来たんじゃないの?」

「そうか……」
 遼一は片手でがばと顔を覆った。
「三十二引く十七で十五。簡単な計算だ」

 俺はどうしてひとに言われるまで気づけないんだろう。
 あのときも、公園の売店のひとに言われるまで気づかなかった。
 春にあの子に出会ったときも、あの子の顔を見た瞬間、あなたのことを思い出したというのに。

 そうしてどのくらいの時間が経ったのか。純香は宙を見たまま何も言わなかった。
 遼一はそろそろと手を離した。
「あなたの人生への復讐は、完成したんだね、純香さん」
 女は、純香は皮肉に唇を曲げた。
「だからあのとき急いだのよ。篠田との話を」
「どうして……」
 遼一はよろよろと窓際の椅子へへたり込んだ。
「どうしてそんなことを……」
「『どうして』ですって? だから、あたしにできた精一杯だったのよ」
「愛せない子を産み落とすことがか!?
 遼一は歯を食いしばった。
「あの子がどんな思いで十五年間生きてきたと思う? たったひとりで、親にも顧みられず」
 純香は薄く笑った。
「初めはね。それなりに、普通の母と子でいたのよ」
 純香はゆっくりと脚を組んだ。細くて華奢な骨格だった。昔遼一が見とれたままに。遼一はこのしなやかな細さとそっくり同じものをを愛おしみ、抱きしめている。悟の身体だ。
「村上のお義母さんは、……あなたのお母さんは、あの子にとてもよくしてくれたわ。父が亡くなったあとは、この篠田の家に入ってくれて。あの子の面倒をよく看てくれた。あのひと、あなたを溺愛してたから。どんな形であれ、あなたの血を引いたあの子が、そりゃもう可愛かったみたい」
 自分だけが知らなかった。血の絆は振り切ったと思っていた。それが、こんな形で――。
「お義母さんも亡くなって、あたしはこの家に取り残された。あの子とふたり」
 純香はソファの背もたれに深く身体を預けて息をついた。
「あの子、あなたにどんどん似てくるのよ」
 遼一の肩がぴくりと震えた。
「見た目のことはいいの。誰が見てもあたしに似てるんだとしか思わないわ。あなたとあたしは、もともとそっくりですもんね。でも、大きくなるにつれ」
 純香はそこで言葉を切った。昏い目を薄くすがめて口を開いた。
「……とにかくできがよかったわ。本ばかり読んでたせいかもしれないけど、何を聞かれても大人のようによく答えた。学校の成績もよくてね。そこはあたしの血じゃない。どんどんあなたに似てきて……。さすがのあたしも怖くなったわ」
 あのとき。
 遼一は愛してはいけないこの姉を愛した。不幸の満ちたあの屋敷で、不幸に溺れながらつかんだ希望だった。希望は当然の帰結によって打ち砕かれ、遼一はこの街から追放された。追放という名の脱出を遂げたのだ。では、この街に残された純香は。
 残る以外の選択肢がないからこそ、自分の人生をメチャクチャに壊すことで、自分をそうした全てのものへ純香は復讐を遂げた。忌まわしい近親姦の墓標は純香の手許に残された。そうして、あれから十五年。
 純香は思う通りにならない自分の人生のシンボルを、青春時代の最後に精一杯抵抗した証を、毎日目の前にして生きたのだ。犯してはならない罪の証拠を毎日見せつけられて。誰にも打ち明けられず、誰にも知られてはならない若き日の罪を。
 母の死にずかずかと乗り込んできた父の愛人を、純香がそれなりに受け入れることができたのは、自分の罪を知る唯一の理解者だったからかもしれない。ある意味共犯関係だったのか。
 そして、遼一だけが知らなかった。十五年、故郷を離れて自由を謳歌していた遼一だけが――。
「あなたの血よね。遼一くん」
 あの子は間違いなく、あのときの、あなたの子供よ。あたし、あなたの子供を産んだの。
 純香の声が呪いのように遼一の耳にこだました。
「そんな……そんなひどいこと」
「そうね。ひどいわ確かに。それだけのことをわたしはした。言い訳はしないわ」
 遼一を見据えたまま、純香は細い脚を組み替えた。
「それで? あなたはあの子にどんなひどいことをしたのかしら」
 自分の血を分けた子だって、知らないでここへやってきたんでしょ?
 なら、何をもって、あなたはここへやってきたの?
 純香の追求は冷酷で、そして的確だった。

 遼一は、自分がひどいことをしていると知っていた。確かによくないことだった。
 窮地から救い出そうとしただけ、せがまれるままに相手をしてやっただけ。そう思い込むことはできたかもしれない。自分の褥に入れてやるには、まだ年若すぎた。罪だった。だが。
 悟は言った。「はじめからあなたが好きだった」と。だから近づいたのだと。
 泣きながらそう告白した悟が、遼一の胸で泣いたあの子が。
 愛おしかったのだ。
 泣いて遼一のシャツを握りしめた指。
「助けて」と訴えた小さな声。
 遼一にほかの選択肢はなかった。
 あの子を抱きしめて、欠落を充たし、笑顔にしてやりたかった。引き返すことはできなかった。なぜなら。
 遼一こそが、どうしようもないほど、悟を愛してしまっていたからだ。
 機械的に時間で線を引くことにどんな意味があるだろう。遼一は思ったのだ。自分が十五年分を愛してやろうと。瞳に命を灯してやりたかった。自分を受け入れ、愛してくれる世界を、あの子に与えたかった。
 遼一が認識していた「ひどいこと」は、年齢的なことだけだった。
 まさか「息子」とは――。 
「そうだ。俺は確かに、ひどいことをした」
「抱いたの」
 純香は特段の興味もないように、聞くともなしにそう聞いた。
「あなたは優しいひとだから。淋しくて泣いてる子にすがりつかれたら、拒めないでしょうね」
 そうして、あの子を愛してしまったのね。
 歌うように純香は言った。感情のこもらない透き通った単調な声で。 
「俺の……子か、悟は」
「篠田も、自分の種でないことは、うすうす気づいているみたい。誰の子かは分からないし、証拠もないからあえて言い出さないけれど。まあ、あのひとも、あのタイミングであたしを引き受けたことに、いろいろメリットはあった訳だから」
 でも、家には寄りつかなくなったわねえ。
 純香は妙に間延びした一本調子で、呪いの言葉を紡ぎ続けた。
 淋しくて泣いているだけなら、遼一は心を動かされない。眉ひとつ動かさず通り過ぎることができる。
 遼一が弱いのは、何の表情も宿さず、ただただ世界を映している、ガラス玉の瞳。
 自分の感情も見失って、固く閉ざしている、冷たい心。
 全てを諦めた、透明な佇まい。
 これらに出会うと、遼一は平常心でいられない。
 何とかして感情を、表情を、命を、取り戻して欲しいと願ってしまう。
 世界が針のむしろでも、自分が胸に守るから、自分が背で針を受け止めるから、笑って欲しい。悲しいでもいい、恨みでもいい、心の底に凍らせた感情を、自分に見せて欲しい。そして。
 この世に希望を取り戻して欲しい。そのためなら自分は何だってする。
 そうして、遼一は悟を胸に抱きしめた。ガラス玉の瞳に、命の光が宿るのを待った。悟の瞳は、遼一の許で生き返ったのだ。純香のときとは異なって――。
 純香。あのとき純香は、確かに遼一を愛していただろう。遼一は最後のあの居間で、純香が一瞬見せた激情を思い出す。「弟であるあなたなんて要らない」、そう純香は叫んだ。遼一が弟でさえなかったら。だが純香はこの街に留まることを選んだ。結局全てを振り切って、父の重力から逃れることを選ばなかった。そうして思うようにならない自分の人生に、精一杯の復讐を果たした。存在させてはいけない、血のつながった遼一を愛した証をこの世に産み出した。たとえ親らしく世話を焼き、愛情を注ぐことができなくても。
「何だ、この、繰り返しは……。何かの呪いなのか」
 そうして十五年が経ち、帰るまいと誓っていたこの街に、偶然職を紹介されて、戻ってきた数日後。
 悟に出会った。
 純香が、自分と同じくまだ十代だった純香が、守り通した小さな命。
 この世界に、無数の人間がいる中で、ほんの一握り、触れてはならない特別の間柄にあるひとがいる。異母とは言え姉の純香と、その姉と自分の血を分けた息子。越えてはならない壁を越えてしまうことでしか、自分はひとを愛せないのか――。
「どうして俺は、いつも」
 吐き気がした。握りしめた拳でみぞおちを強く押さえた。
 バタンと表玄関の扉が閉まった。
 遼一はその音に顔を上げた。
「やだ。あの子、まだいたのかしら」
 部屋のドアを開き、廊下をうかがった純香が言った。
「いや。悟は『外で勉強して待つ』と、俺に確かにそう言った」
「台所の誰かかもしれないわね」と、呟くように純香が言った。
 女主人がひと払いした表側を、お手伝いさんが今通るだろうか。外へ出るなら勝手口を使うだろう。だがしかし、可能性がないではない。
 遼一のみぞおちは鈍い痛みに震えた。
「ちょっと見てくるわ」と、純香は居間を出ていった。
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