4-4
文字数 2,962文字
カーチャを送り届けた帰り道。
「さっきはびっくりしたね」
助手席の悟は、そう言って遼一を見上げた。
「ああ。母親のことがあるにせよ、大した観察眼だったな」
「まさか、僕たちって、外から見たらバレバレなのかな」
悟はこの街が地元だし、高校卒業までここで暮らす。余計な噂はない方がいいだろう。それに。
「通報されると、俺はお前に近づけなくなる」
「うん。そうだよね」
気をつけなきゃね。悟は小さな声でそう言った。
次は悟を送り届ける番だった。自宅での夕食に間に合うように。誰もいない食卓テーブルで、悟は今夜はひとりで食事を摂るのだ。
遼一は昨夜の食卓を思い出した。夕べはカセットコンロを出して鍋をした。悟は珍しいのか、きゃあきゃあ言って喜んで食べた。大した材料は使っていないが、普段の食事なら充分だ。
材料や調味料より、一緒に食べる誰かに意味がある。
今夜の悟の淋しい食卓風景は、そのまま十数年暮らした遼一自身のものだった。遼一は、家族の不幸にまみれるくらいなら、ひとりの方がいいと思って暮らしていた。その考えに偽りはない。
だが、遼一は知らなかったのだ。幸福な食卓がこの世に存在することを。一緒に食べると幸せな気持ちになれる誰かがいる感じを。
いつもの角で別れるのが苦しかった。
しばらくすると雪が降る。
一瞬の夏のあとの秋は長いようで短い。
十月の悟の誕生日には、携帯電話を買ってやることにした。これでやっと悟は本当に十五になる。
このご時世に中学三年生の息子に携帯電話のひとつも持たせてやらないとは、ネグレクトもいいところだと遼一は思った。学校からの連絡はどうしていたのかと悟に聞くと、「お手伝いさんが電話を取るから」と興味なさそうに答えていた。
友人らしい友人もない悟には、別段不便はなかったのだろう。確かに遼一自身も仕事でPCは使うが、リアルタイムでやり取りできるデバイスはほとんど必要なかった。悟も同じことかもしれない。
「携帯を持ったら、いつでも遼一さんに連絡できるね」
そう言って、悟は楽しみにしていたようだ。
いくら何でも息子の誕生日くらいは祝うだろうから、遼一はその前日に予定を入れた。中学校の前に車を停めて悟の出てくるのを待っていた。
いつも悟は課業が終わると、俯きがちに、しかし足早に校門を出てくる。遼一も慣れたもので、時間を見計らって車を出すので、最近ではあまり待つことはない。それが、今日に限って悟はなかなか出てこなかった。陽が傾くのも早いこの頃では、運転席で資料を読むのも楽ではない。
それでもしち面倒くさいロシア語の特許書類を何度か読み返した頃、ようやく悟がやってきた。
「お待たせ」
「おお、遅かったな」
悟は助手席に乗り込むと、慣れた手順で肩のかばんを足下に下ろしシートベルトを締めた。
「うん、何か呼び出されてさ」
遼一はエンジンをかけようとした手を止めた。
「呼び出された?」
いじめが再発したのだったら、すぐさま対応が必要だ。
悟は遼一の顔つきに気づき、慌てて言った。
「あ、別にあいつらじゃないよ。何か、女子」
悟を呼び出したのはあの悪ガキたちではなかった。遼一はエンジンをかけた。
「女子?」
「うん。僕のこと『好き』だって」
なんか最近続いてるんだよね、何なんだろ。
悟は投げやりにそう言って、伸びかけた前髪をいじっていた。
「……そういうとき、お前なんて返事すんの」
「返事のしようがないよ。知らないひとにいきなりそんなこと言われても」
「知らないひとって……」
いつもながら悟の愛想のないことは横綱クラスだ。遼一自身も他人に興味ない方なので、分からないではない。が、自分がこのくらいの歳の頃、こんなに極端だったろうかと記憶を振り返ってみた。悟の返事はさらに愛想がない。
「知らないよ、見たことないもの」
まあ、自分も似たり寄ったりだったかもしれないが、クラスメートの女子に告白されるなんて僥倖があれば、もう少し柔軟な対応をしたような気もする。
「見たことないのか。同じ学校に通ってるコたちなんだろ」
「うーん、興味ない」
悟はそう言い捨てて、暗くなってきた窓の外に目をやった。
遼一は自分の声に混じる不機嫌さを隠すことができなかった。
「ふーん。よかったな、モテて」
悟は運転席を振り返った。
「よかった? よかったって今言ったの?」
悟の口の端がにゅっと上がった。
「遼一さんは僕がモテて、誰か知らない女子のものになったら嬉しいんだ」
遼一は、部屋のカギを渡したときの、悟の妙に暗い笑みを思い出した。
「誰もそんなこと言ってないだろ」
あのときは力業に持ち込むことができたが、今は運転中だ。その手は使えない。悟は遼一の言葉になど耳を貸さず、さらに言いつのった。
「そうしたらもう遼一さんの部屋には来なくなるし、うるさいのがいなくなってせいせいするだろ。嬉しい?」
「悟、ちょっと待て」
「僕のこと要らなくなったなら、ハッキリそう言って!」
悟は足下のかばんを持ち上げ、それをハンドルを握る遼一の肩にぶつけた。
「悟!」
遼一の茶色のセダンが大きく対向車線にはみ出した。対向車がいなかったのは幸運だった。悟は今の危険運転も目に入っていないのか、興奮が止まらない。
「ハッキリ言えよ! まとわりつかれて迷惑だって。頻繁にやってこられて邪魔だって」
悟が繰り返しかばんを振り回すので、中に入っていた教科書やペンケースが車内に散らばった。その中のいくつかは遼一の顔に、腕に当たり、そのたびハンドルが揺らされた。非常に危ない。
「思い込み激しいガキの相手するのが疲れたって。正直にそう言えよ」
遼一は高速でシミュレーションを回した。今すぐ脇道に入って車を停めると走行の危険はないが、ひと目がある。またもし悟の気が収まらず、車を降りてどこかへ走り出したら、住宅街のただ中で見失ってしまうかもしれない。目的地のショッピングモールまで、最後の橋を渡ったところだ。なら、このままショッピングモールの駐車場まで、なるべく早く行き着こう。遼一はそう判断して慎重にアクセルを踏んだ。
「どうせあなたは昔のひとが忘れられないんだ……」
悟の声が湿った。遼一は横目で悟の表情を見た。悟は泣いていた。悟はかばんからこぼれ落ちた教科書を一冊拾い、それを遼一に投げつけた。
「そこのぽっかり空いた穴を、僕で埋めようとしたんでしょ。でも、どうせ僕じゃ駄目なんだ」
悟はもう一冊教科書を拾って振り上げた。遼一は運転中の自分の視界を庇おうと左腕を挙げた。本は飛んでこなかった。悟の声が震えた。
「ハッキリ言ってよぉ」
悟の咽から泣き声が漏れた。この声。遼一の胸の深いところをえぐる。悲しい、心細い、冬の雪原にこだまする孤独な獣の遠吠えのような、悟の泣き声。
こんなになって泣き声を上げるこの子供を、抱き上げてあやしたものはいたのだろうか。遼一は初めて会った頃の悟の瞳を思い出した。感情という感情をひとつも映さないガラス玉のようなあの瞳。物心ついてから、この子は、きっと、泣くこともなかったのだろうと遼一は思った。周囲の全てに絶望しきって、何を表現することも諦めていたのに違いにない。何の感情も表さず、何にも期待せず。ただ黙ってガラス玉に世界を映して生き延びてきたのだ。
「さっきはびっくりしたね」
助手席の悟は、そう言って遼一を見上げた。
「ああ。母親のことがあるにせよ、大した観察眼だったな」
「まさか、僕たちって、外から見たらバレバレなのかな」
悟はこの街が地元だし、高校卒業までここで暮らす。余計な噂はない方がいいだろう。それに。
「通報されると、俺はお前に近づけなくなる」
「うん。そうだよね」
気をつけなきゃね。悟は小さな声でそう言った。
次は悟を送り届ける番だった。自宅での夕食に間に合うように。誰もいない食卓テーブルで、悟は今夜はひとりで食事を摂るのだ。
遼一は昨夜の食卓を思い出した。夕べはカセットコンロを出して鍋をした。悟は珍しいのか、きゃあきゃあ言って喜んで食べた。大した材料は使っていないが、普段の食事なら充分だ。
材料や調味料より、一緒に食べる誰かに意味がある。
今夜の悟の淋しい食卓風景は、そのまま十数年暮らした遼一自身のものだった。遼一は、家族の不幸にまみれるくらいなら、ひとりの方がいいと思って暮らしていた。その考えに偽りはない。
だが、遼一は知らなかったのだ。幸福な食卓がこの世に存在することを。一緒に食べると幸せな気持ちになれる誰かがいる感じを。
いつもの角で別れるのが苦しかった。
しばらくすると雪が降る。
一瞬の夏のあとの秋は長いようで短い。
十月の悟の誕生日には、携帯電話を買ってやることにした。これでやっと悟は本当に十五になる。
このご時世に中学三年生の息子に携帯電話のひとつも持たせてやらないとは、ネグレクトもいいところだと遼一は思った。学校からの連絡はどうしていたのかと悟に聞くと、「お手伝いさんが電話を取るから」と興味なさそうに答えていた。
友人らしい友人もない悟には、別段不便はなかったのだろう。確かに遼一自身も仕事でPCは使うが、リアルタイムでやり取りできるデバイスはほとんど必要なかった。悟も同じことかもしれない。
「携帯を持ったら、いつでも遼一さんに連絡できるね」
そう言って、悟は楽しみにしていたようだ。
いくら何でも息子の誕生日くらいは祝うだろうから、遼一はその前日に予定を入れた。中学校の前に車を停めて悟の出てくるのを待っていた。
いつも悟は課業が終わると、俯きがちに、しかし足早に校門を出てくる。遼一も慣れたもので、時間を見計らって車を出すので、最近ではあまり待つことはない。それが、今日に限って悟はなかなか出てこなかった。陽が傾くのも早いこの頃では、運転席で資料を読むのも楽ではない。
それでもしち面倒くさいロシア語の特許書類を何度か読み返した頃、ようやく悟がやってきた。
「お待たせ」
「おお、遅かったな」
悟は助手席に乗り込むと、慣れた手順で肩のかばんを足下に下ろしシートベルトを締めた。
「うん、何か呼び出されてさ」
遼一はエンジンをかけようとした手を止めた。
「呼び出された?」
いじめが再発したのだったら、すぐさま対応が必要だ。
悟は遼一の顔つきに気づき、慌てて言った。
「あ、別にあいつらじゃないよ。何か、女子」
悟を呼び出したのはあの悪ガキたちではなかった。遼一はエンジンをかけた。
「女子?」
「うん。僕のこと『好き』だって」
なんか最近続いてるんだよね、何なんだろ。
悟は投げやりにそう言って、伸びかけた前髪をいじっていた。
「……そういうとき、お前なんて返事すんの」
「返事のしようがないよ。知らないひとにいきなりそんなこと言われても」
「知らないひとって……」
いつもながら悟の愛想のないことは横綱クラスだ。遼一自身も他人に興味ない方なので、分からないではない。が、自分がこのくらいの歳の頃、こんなに極端だったろうかと記憶を振り返ってみた。悟の返事はさらに愛想がない。
「知らないよ、見たことないもの」
まあ、自分も似たり寄ったりだったかもしれないが、クラスメートの女子に告白されるなんて僥倖があれば、もう少し柔軟な対応をしたような気もする。
「見たことないのか。同じ学校に通ってるコたちなんだろ」
「うーん、興味ない」
悟はそう言い捨てて、暗くなってきた窓の外に目をやった。
遼一は自分の声に混じる不機嫌さを隠すことができなかった。
「ふーん。よかったな、モテて」
悟は運転席を振り返った。
「よかった? よかったって今言ったの?」
悟の口の端がにゅっと上がった。
「遼一さんは僕がモテて、誰か知らない女子のものになったら嬉しいんだ」
遼一は、部屋のカギを渡したときの、悟の妙に暗い笑みを思い出した。
「誰もそんなこと言ってないだろ」
あのときは力業に持ち込むことができたが、今は運転中だ。その手は使えない。悟は遼一の言葉になど耳を貸さず、さらに言いつのった。
「そうしたらもう遼一さんの部屋には来なくなるし、うるさいのがいなくなってせいせいするだろ。嬉しい?」
「悟、ちょっと待て」
「僕のこと要らなくなったなら、ハッキリそう言って!」
悟は足下のかばんを持ち上げ、それをハンドルを握る遼一の肩にぶつけた。
「悟!」
遼一の茶色のセダンが大きく対向車線にはみ出した。対向車がいなかったのは幸運だった。悟は今の危険運転も目に入っていないのか、興奮が止まらない。
「ハッキリ言えよ! まとわりつかれて迷惑だって。頻繁にやってこられて邪魔だって」
悟が繰り返しかばんを振り回すので、中に入っていた教科書やペンケースが車内に散らばった。その中のいくつかは遼一の顔に、腕に当たり、そのたびハンドルが揺らされた。非常に危ない。
「思い込み激しいガキの相手するのが疲れたって。正直にそう言えよ」
遼一は高速でシミュレーションを回した。今すぐ脇道に入って車を停めると走行の危険はないが、ひと目がある。またもし悟の気が収まらず、車を降りてどこかへ走り出したら、住宅街のただ中で見失ってしまうかもしれない。目的地のショッピングモールまで、最後の橋を渡ったところだ。なら、このままショッピングモールの駐車場まで、なるべく早く行き着こう。遼一はそう判断して慎重にアクセルを踏んだ。
「どうせあなたは昔のひとが忘れられないんだ……」
悟の声が湿った。遼一は横目で悟の表情を見た。悟は泣いていた。悟はかばんからこぼれ落ちた教科書を一冊拾い、それを遼一に投げつけた。
「そこのぽっかり空いた穴を、僕で埋めようとしたんでしょ。でも、どうせ僕じゃ駄目なんだ」
悟はもう一冊教科書を拾って振り上げた。遼一は運転中の自分の視界を庇おうと左腕を挙げた。本は飛んでこなかった。悟の声が震えた。
「ハッキリ言ってよぉ」
悟の咽から泣き声が漏れた。この声。遼一の胸の深いところをえぐる。悲しい、心細い、冬の雪原にこだまする孤独な獣の遠吠えのような、悟の泣き声。
こんなになって泣き声を上げるこの子供を、抱き上げてあやしたものはいたのだろうか。遼一は初めて会った頃の悟の瞳を思い出した。感情という感情をひとつも映さないガラス玉のようなあの瞳。物心ついてから、この子は、きっと、泣くこともなかったのだろうと遼一は思った。周囲の全てに絶望しきって、何を表現することも諦めていたのに違いにない。何の感情も表さず、何にも期待せず。ただ黙ってガラス玉に世界を映して生き延びてきたのだ。