5-12

文字数 2,800文字

 翌日の通夜では、意外なことに小さな会場がいっぱいになった。
 周囲の全てに興味のなかった悟は、一方的に「クール」と思われ、女子生徒に人気だったようだ。盛大に泣いている子が数名、泣いている子の周りにはそれを支える子がそれぞれ二、三名。純香と遼一の父が遺した、そして今は篠田氏が経営する江藤建設の取引先からは、大量の花輪。坊主の読経に女生徒のすすり泣きが交差して、若い魂が失われた悲惨さが際立つ。
 遼一は、純香の隣で、ぼんやりと遺影を見上げていた。どこから探してきたのか、写真の中の悟は笑っていた。儀礼的な、遠慮がちな笑みだった。だが、遼一の記憶の悟は違う。もっと愛らしく笑っていた。甘えるように笑ったり、嬉しそうに笑ったり、流し目も意地悪な小悪魔の笑みだったり。
(悟……)
 ふっと頬を赤くして、幸せそうに笑う悟。その姿は、可憐な薔薇の花が咲くようで。
 首筋に立ち昇る甘い香りと相まって、遼一の心を熱した。幸せという感覚を遼一に感じさせた。
 幸せ。喪われた記憶の断片。断片ひとつひとつに悟がいる。
 めまいがした。

 すすり泣く女子中学生が、かわるがかわる焼香に立ち、会場の混雑は続いた。
 突然上から声が降ってきた。
「あんたがあいつを殺したんだろ」
 押し殺した、低い声。
 遼一は声のした方を見上げた。見たことのある制服の子供がひとり。遼一はぼんやりと記憶をたどった。
 石川だった。血走った目を剥いて遼一の前に立ちはだかっていた。
「俺は何年も、あいつを決定的に壊したりはしなかった。けど、あんたは一年も経たずにあいつをこんなにしちまった。あんた、どうする積もりなんだ」
 盗っ人猛々しいにもほどがある。誰のせいで、悟が世界への扉を閉じたと思っている。
「本当に『壊さなかった』と思っているのか」
 歯ぎしりの間からうなるような低音で遼一は言った。
「ああ、そうさ。俺が殴ったくらいでは、あいつは死んだりしなかった」
 石川は反抗的に怒鳴った。
「あんただろ、あいつの首にキザな鎖をかけたのは。そのせいで、あいつは死んだんだ。あんたが殺したんだ」
「止めなさい」
 拳を握る石川の腕を後ろから誰かがつかんだ。
「大塚先生……」
 遼一はその名を呟いた。
「石川、場所をわきまえなさい」
 石川の言っていることは、結果的に合っていた。遼一が悟を愛さなければ、抱きしめたりしなければ。
 三月に、この石川が悟に暴力を振るっているのを止めなければ。
 いや。それだけは、ない。
 あのガラス玉の瞳を生き返らせなかったら、遼一が生きてきた意味はない。
 生きてきた、意味。
 遼一が生きる意味を見つけたのに、悟はそれを見失って――。
 遼一はおもむろに口を開いた。
「あいつはお前を選ばなかった。お前もあいつに選ばれるような行動はしなかった」
「どうする積もり」と石川は言った。遼一は悟と生きていく積もりだ。悟は石川の暴力を棄てて、遼一を選んだのだから。遼一は、自分が出会う前の悟を好きに殴っていたこの石川を許せなかった。遼一の怒りに嫉妬が混じる。悟がそれを喜ばなかったとはいえ、その身体を好きにしていたのは事実だ。
 遼一は座ったまま石川を冷たく睨み返していた。
 大塚は「もう遅いんだから、早く帰りなさい」と石川を促した。石川は渋々去っていった。
 悟が選んだのが遼一であっても。
 悟が本当に好きだったのが遼一であっても。
 悟はもう遼一に笑顔を向けることはない。
 自分の血を呪ってか、産んではいけない自分を産み落として放置した母を怨んでか、遼一のことをどう思ってか。永遠に分からない。だが、いずれにせよ、悟がその体温で遼一を温めてくれることはもうないのだ。
 遼一は祭壇の中心に置かれた棺を見た。棺の中には冷たくなった悟が眠っている。もう目覚めない。明日には冷たい身体もなくなってしまう。
(悟……)
 遼一は手で顔を覆い、深くうなだれた。
 大塚は目を真っ赤に腫らしていた。 
「村上さん、篠田君の叔父さんだったんですね。ひとが悪いな。どうして言ってくれなかったんです?」
 遼一は「すみません」と大塚に謝った。
「わたしは江藤の家では日陰者でしてね。名字も違いますし、胸を張ってそう名乗るのは遠慮してました」
 大塚は詫びるような言葉を口の中で転がして、遺影を振り返りこう言った。
「……可愛い子でしたね」
「ええ」
「そして、賢い子だった」
「ええ」
「わたしは、教え子に死なれるのはこれが初めてではないのですが」
 大塚は膝の上で拳を握った。
「『死ぬ気でやれば何とかなる』なんて、気軽なことは言えないですよ。でも、結論を出してしまう前に、ひと言、何か」
 相談してくれるなり、せめて何かサインを出してくれていれば。
 そう言って大塚はメガネを上げ、拳で涙を拭った。
「篠田君は、明るくなりました。初めは思い詰めたような顔をして、唇をかみしめていることが多かった。でも、二学期頃からずいぶん明るくなって、成績も上がって」
 お兄さんにお電話したときもありましたね。でも、あれからすぐまた回復して。
 大塚はメガネを拭いて元へ戻した。
 純香が湯飲みを乗せた盆を運んできて、大塚の膝の脇に置いていった。大塚は純香に軽く頭を下げ、純香が去るのを待ってこう言った。
「お兄さん。どうしてですか。どうして篠田君は、死んだりしなくちゃいけなかったんです」
「先生……」
 大塚はハッとしたような顔をして拳を握り直した。
「すみません。立場上、こんなこと言っちゃいけないですよね」
 遼一は教え子を喪った教師の悲しみを眺めていた。遼一は静かに口を開いた。
「いじめ、とかでは、ないですよ。もっときっと」
 遼一はそこでいったん唇を閉じた。祭壇に飾られた悟の遺影を、彼の笑顔を見上げて言った。
「人生の……根幹に当たる部分の問題だった」
 そう、思います。遼一はそう言って、遺影を見上げたまま眩しそうに目を細めた。
 大塚は確かによい教師だ。親身にこの子の境遇に寄り添ってくれた。だが。
 悟と自分の秘密を分け与える気にはならない。
 悟の十五年の人生は、丸ごと自分がひとり占めする。
 これからの一生を、遼一は、悟とともに生きていく。
 誰にも邪魔はさせない。俺だけのものだ。
 悟。
 お前ももう、どこにも行かなくていいから。
 ずっと俺の側にいてくれ。
(何なら、取り殺してくれても構わない)
 遼一は目を伏せてふっと笑った。
「お兄さん、くれぐれも、お気落としなく」
 大塚は遼一をそう気遣って帰っていった。
「ほら。今日は少し眠ったら。あと、何か食べて。あなたも倒れちゃうわよ」
 弔問客がみな帰り、身内だけになって、純香がゆっくりとそう言った。
 倒れて、そのまま死ねるなら、そうする。
「……ありがとう、姉さん」
 篠田氏の手前、遼一は常識の範囲の行動を機械的にこなした。
 篠田氏は、遼一のグラスに酒を注いだ。遼一は無言でグラスを掲げ、口をつけた。
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