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文字数 2,965文字

 料理が来るまで、悟は次の間でテレビのリモコンをいじっていた。遼一は悟の隣で、悟のすることを眺めていた。ふたりとも普段テレビは観ないので勝手が分からない。ケーブルに悟が昔好きだったという子供向けのアニメを見つけて、悟はそれにチャンネルを合わせた。その頃遼一は学生で、その番組を知らなかった。懐しがって悟が画面を見ながらわあきゃあ言うのを眺めていると、チャイムが鳴った。
 遼一は悟を寝室に追いやった。
「お前は出てくるなよ」
「どうしてさ」
「いいから」
 遼一は寝室との扉を閉め、急いで部屋のドアを開けた。
 係はしずしずとワゴンを押して入ってきた。料理が応接セットに並べられる。遼一がバスローブ姿でいたのはうまくなかった。ノイローゼ気味の受験生のお目付役なら、まだ夜の早い今時分、ひとっ風呂浴びてくつろいでいるのはおかしかった。当の受験生が遼一と同じ姿で、子供向けアニメを観ているところを見せずに済んでよかった。それに遼一には、部屋のあちこちに、ふたりの甘い時間のカケラが落ちている気がした。接客のプロに、それを嗅ぎつけられでもしたら身の破滅だった。
「……もういい?」
 ホテルのスタッフが出ていったあと、悟は寝室の扉からちょこんと首だけ出してそう尋ねた。
「ああ。早くおいで」
 いただきまーすと合唱して、ふたりは料理に取りかかった。悟は初めは「こんなに食べられるかな」と首をかしげていたが、食べ始めると、思ったより食が進むようだった。しっかり食べて、やつれた顔色が戻るといいと遼一は思った。
「大塚先生から電話もらったよ。『篠田君の様子がおかしい』って」
 悟の取り皿にフライドチキンをいくつも載せながら、遼一は言った。
「え……」
 悟はフォークを持った腕を下ろして遼一を見た。
「お母さまにお電話しても埒が明かないと思ったので」と前置きして、担任の大塚は遼一の渡した名刺に電話したのだ。
「ああ。僕、教室で倒れたからね」
 うなずきながら悟は答えた。
「あれから一睡もできなくて。立ち上がった瞬間に意識を失って、保健室でやっと二時間だけ眠れたよ」
「悟……」
 遼一は、悟のこけた頬を指でなぞった。
「それがおかしいの。倒れた僕を保健室まで運んだの、誰だと思う? あの石川だよ。同じクラスでもないのに」
 あのいじめの首謀者か。悟は底意地の悪い笑みを浮かべて続けた。
「たまたま教室の入り口で誰かと話してたんだとさ。意識がなかったからしょうがないけど、ぞっとしないよね。運んでる途中で僕に意識が戻ったら、どんな顔する積もりだったんだろ」
 遼一は黙って聞いていた。悟はフリッタータをひとかけフォークに刺して、遼一の口許に差し出した。
「遼一さん、これまだ食べてないでしょ。おいしいよ」
 遼一は一瞬戸惑ったが、卵料理をパクリと食べた。
「どう?」
「うん。うまいな」
「ふふふ」
 悟は嬉しそうに笑っていた。遼一は照れくさくて目を伏せた。
「僕が願ったんだ。『その日』が早く来るといいって」
 悟は笑ってそう言った。遼一は顔を上げた。
「悟?」
「でも、その日が来た『後』のことは想像してなかった。莫迦だよね」
 悟は、いつか遼一が自分の許を去ると思っていた。それを待っている時間が苦痛だった。いっそ早くその日が来てしまえばラクになれると信じていた。遼一はそれを知っていた。だが自分は悟を棄てることなどない。悟がそれを納得してくれるのを待つと決めていた。自分が先に音を上げてしまう日が来ようとは夢にも思わず――。
「あんなに空っぽになるなんて」
 悟の声が湿り気を帯びた。
「あんなに苦しいなんて。だって、息ができないんだ。眠れないし。夢に逃げ込むこともできなくて」
 悟はゆっくり皿を置いた。
「でも、一番辛かったのは、あんなあなたの姿を見たときだった」
 悟は両手を遼一の頬に当てた。
「僕のことはいい。辛いのなんてどうせ慣れてる。でも」
 悟の指が遼一のまつげを、鼻筋を、唇をなぞった。
「……多分、僕はもう、自分のことよりもずっとあなたが好きなんだと思う」
 遼一はじっとして、悟の細い指が細かく震えるのを感じていた。
「どうしてあんな風に思えたんだろう。僕がクラゲに戻ればいいだけだなんて」
 悟はソファの上で背を伸ばし、遼一の頭を胸に抱いた。
「僕から離れて歩いていく遼一さんの後ろ姿を見たとき、胸のここが痛くなって。ナイフを突き立てられたように。息もできなくて。あなたがあんな風に苦しむなんて、そんなに僕を思ってくれてたなんて。遼一さんは繰り返しそう言ってくれてたよね。でも、僕はあのときまで、何も分かっていなかった」
「悟」
 遼一は悟の薄い身体に腕を回した。そうしてその背中をポンポンと叩くと、悟の身体を離した。
「もういいよ、悟。分かればいいんだ」
「遼一さん、僕はあなたのことが本当に好き。あなたは僕の大切なひとだから――」
 悟は数回まばたきして、溜まった涙を流しきった。
「誰にもあなたを傷つけさせたりしない。あなたを傷つけるものから、絶対あなたを遠ざける。そう思うよ」
「頼もしいな」
 遼一は目を伏せ、ふっと笑ってそう言った。
 今度こそ、悟は遼一の本心を理解し、納得できただろうか。
 悟はおいしそうに、全ての皿を少しずつ食べた。老舗ホテルの料理だけあって味はよかった。遼一はこんなに味わって食べたのは久しぶりな気がした。大塚に心配された悟のみならず、自分もここ数日はあまり食わず、あまり眠っていなかったことに気がついた。
「コーヒーでも頼もうか。飲むか?」
 果物の皿に手をつける頃、遼一はそう悟に尋ねた。悟は大きくかぶりを振った。
「いいよ。僕、この水で充分」
 悟は、遼一が追加を持ってこさせたペリエの瓶を振った。遼一はにやりと笑った。
「それ、コーヒーとほとんど同じ値段だぜ」 
 悟は「え」と驚いて瓶をしげしげ眺めた。遼一はそれを見てくすくすと笑った。
 世間知らずなところと素直なところが、可愛くてたまらなかった。

 空になった皿は、もう邪魔されないよう廊下に出した。朝食の注文もドアノブにかけた。
 満腹になった悟はうつらうつらと前後に揺れ始めたので、遼一がバスルームまで抱えて連れていき、歯を磨かせた。悟は幼児のように遼一に歯ブラシを手渡され、水の入ったコップを渡されて、何とか歯を磨ききった。うがいをした姿勢のまま洗面台に突っ伏してしまいそうだったので、今度は悟を抱き上げ、ベッドまで運んでやった。手間のかかる子供だ。遼一は苦笑した。
 だが、そんな面倒も疲れも、この寝顔を見れば全てチャラだ。
 遼一に寝室に運び込まれ、そっとベッドに下ろされた悟は、そのまますーすーと安らかな寝息を立てた。一週間まともに眠っていなかったのだ。存分に眠ったらいい。そして遼一も。時計はまだ十時前だったが、思い切って早く寝てしまうことにした。
 かたわらに悟の体温があるとき、遼一は安心して休むことができる。気力が充実して朝を迎えることができる。これまでの数回の経験でそれは明らかだった。そして今日はいつもの遼一の部屋でひとつのふとんにくるまってではなく、ふたりの体格にはゆとりのある大型の寝台だった。悟の規則正しい寝息が遼一を深い眠りに誘い込んだ。
 意識を完全に失う直前、遼一はベッドを置ける部屋に引っ越そうと心に決めた。
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