1ー6
文字数 2,224文字
悟は、週に三度くらいやってくるようになった。土曜か日曜のどちらかの午後と、あとは平日学校帰りに立ち寄った。
悟が現れるたび、遼一は見えるところに新たな傷やアザはないか、さりげなく観察した。手の甲に青アザがあったことがあった。こめかみに傷があったことがあった。悟の口から相談されない限り、話題にしないことを自分に課していたが、悟が口の端を腫らして現れた日、さすがに遼一は黙っていられなかった。
「どうした、この傷」
悟を招じ入れに玄関へ立ち、ドアを開けるとすぐ悟の腫れた顔が目に入った。
「ちょっと……」
「あいつらか」
悟は返事をせず目を伏せた。悟を入れる幅にドアを支えた遼一がそう聞くので、悟は進むこともできず、黙って靴脱ぎに立っていた。遼一はドアを支えた手を離した。
すべらかな肌に、赤黒い腫れができている。そのせいか、唇はいつもより紅みを増して見えた。遼一は、悟の腫れた口の端にそっと触れた。痛々しいなどという簡単な言葉では済まない。遼一の指が触れた瞬間、痛みに悟が顔をしかめた。遼一は思い至った。衣服に隠れるところには、どれだけの暴力の痕跡があるのだろうかと。十四にも五にもなったガキなら、悪知恵のひとつも働くものだ。今まで、見える部分だけでもと気にしていた自分の愚かさを呪った。今すぐこのか細い身体を押さえつけ、衣服の全てを剥ぎ取って、悪ガキどもの悪行の証拠を探したい衝動に駆られた。怒りで、こめかみが、胸が、ドクドクと脈打った。
「遼一……さん?」
遼一はそうして何秒震えていただろうか。悟はおそるおそる視線を上げ、遼一の顔をのぞき込んだ。黒い瞳に微かに怖れの色を見て、慌てて遼一は悟から離れた。
自分がこの子供を怯えさせてはいけない。
遼一はあとずさって、悟が通る隙間を空けた。
いつものように湯を沸かしてココアを淹れてやった。熱いものはしみるだろうか。悟は黙って床に座り、テーブルに勉強道具を広げた。遼一がココアのカップを悟の前に押しやると、悟はカップをそっと持ち上げた。口をつけることなく、捧げ持つようにしていたカップが、少しして震えた。
「悟……?」
パタ……パタ……と、大粒の涙がテーブルに落ちた。
火傷しないよう、遼一は悟の手からそっとカップを取り上げた。遼一がカップを握った悟の指を一本一本剥がすのを、パタパタと音を立てて頬を伝った涙がテーブルへ落ちるのを、悟はかわるがわる眺めていた。いつものガラス玉のような瞳。それが。
「う……う……」
悟ののどからうめき声が漏れた。声が漏れるたび、悟の瞳を覆っていた無表情のガラスが一枚、また一枚と剥がれ落ちた。無表情の下には光があった。怒りと悲しみ、悔しさ、生命の輝き。
ガラス玉のような瞳は、ここに来て英語の勉強をしているときは人間の目になっていた。ちゃんと感情はあった。ところが、学校や家庭の話になると途端に何の表情もないガラス玉に戻った。感じないように、辛くないように、自分をそうやって守っているのだと遼一には分かっていた。だから追求しなかった。セイフティスポットは、安心できる場所だからセイフティスポットなのだ。そこが安心できなくなったら、存在意義を失ってしまう。悟はやってこなくなる。遼一は黙って待っていた。
悟はテーブルの上で拳を握りしめ、肩を震わせて泣いた。涙をあふれさせ続ける二つの瞳は、悔しさに黒く輝いていた。
第一ラウンドは、遼一の勝ちだ。
遼一はまず情報収集から手を着けた。
三月に河畔で悟に暴力を振るっていたあの三人。あれ以外に加害者が存在しないことを悟に確認し、三人のフルネームを聞き出した。氏素性を調べるには、個人情報が必要だ。これには悟の学級担任を巻き込むことにした。
「何て言ったら、悟のウチに迷惑をかけずに、俺が担任の先生と話せるかな」
「僕の『従兄』ってことにしたら? 遼一さん」
悟は目を輝かせて提案した。遼一は、こんな生き生きとした悟の目を見られて満足だった。あとはこの子を再び暴力に曝させないこと。これが達成されれば、この街に帰ってきた甲斐があったというものだ。
「従兄? 俺三十二だぞ。無理がないか?」
「従兄だもん、歳が離れてたっておかしくないでしょ」
悟は思案顔の遼一に屈託なく笑った。
悟は遼一の指示で、思い出せる限りのいじめの記憶を思い起こして書き出す作業に取り組んだ。これはひとりで自室にいるときにはやらせなかった。この子ひとりで辛い記憶と対峙させたくなかった。記憶の重積に引き込まれて、戻って来られなくなるといけない。
平日はほとんど毎日、土日も続けて、悟は遼一の部屋へやってきた。悟が語るいじめの記憶を、遼一はPCに打ち込んでいった。この華奢な身体が、そんな暴力に耐えていたなんて。小さなうちからそんな目に遭わされていたなんて。
悲しかった。胸が痛かった。できるものなら、幼児のこの子の前に現れ、連中のからかいから守ってやりたかった。自分が彼らの前に立ちはだかって、「止めろ」と怒鳴ってやりたかった。
感情が大きく揺さぶられていた。悟のガラス玉の瞳と同じく、自分の感情も長らく死んでいたことを遼一は悟った。
辛い、悲しい、悔しい記憶を紐解くうちに、悟は怒りの感情を取り戻したように見えた。不本意な暴力に屈しなくてもよくなる希望が、悟を元気づけたようだ。正当な怒りをその手に取り戻し、悟は三人と対決する勇気を持った。
次は、担任との面談だ。
悟が現れるたび、遼一は見えるところに新たな傷やアザはないか、さりげなく観察した。手の甲に青アザがあったことがあった。こめかみに傷があったことがあった。悟の口から相談されない限り、話題にしないことを自分に課していたが、悟が口の端を腫らして現れた日、さすがに遼一は黙っていられなかった。
「どうした、この傷」
悟を招じ入れに玄関へ立ち、ドアを開けるとすぐ悟の腫れた顔が目に入った。
「ちょっと……」
「あいつらか」
悟は返事をせず目を伏せた。悟を入れる幅にドアを支えた遼一がそう聞くので、悟は進むこともできず、黙って靴脱ぎに立っていた。遼一はドアを支えた手を離した。
すべらかな肌に、赤黒い腫れができている。そのせいか、唇はいつもより紅みを増して見えた。遼一は、悟の腫れた口の端にそっと触れた。痛々しいなどという簡単な言葉では済まない。遼一の指が触れた瞬間、痛みに悟が顔をしかめた。遼一は思い至った。衣服に隠れるところには、どれだけの暴力の痕跡があるのだろうかと。十四にも五にもなったガキなら、悪知恵のひとつも働くものだ。今まで、見える部分だけでもと気にしていた自分の愚かさを呪った。今すぐこのか細い身体を押さえつけ、衣服の全てを剥ぎ取って、悪ガキどもの悪行の証拠を探したい衝動に駆られた。怒りで、こめかみが、胸が、ドクドクと脈打った。
「遼一……さん?」
遼一はそうして何秒震えていただろうか。悟はおそるおそる視線を上げ、遼一の顔をのぞき込んだ。黒い瞳に微かに怖れの色を見て、慌てて遼一は悟から離れた。
自分がこの子供を怯えさせてはいけない。
遼一はあとずさって、悟が通る隙間を空けた。
いつものように湯を沸かしてココアを淹れてやった。熱いものはしみるだろうか。悟は黙って床に座り、テーブルに勉強道具を広げた。遼一がココアのカップを悟の前に押しやると、悟はカップをそっと持ち上げた。口をつけることなく、捧げ持つようにしていたカップが、少しして震えた。
「悟……?」
パタ……パタ……と、大粒の涙がテーブルに落ちた。
火傷しないよう、遼一は悟の手からそっとカップを取り上げた。遼一がカップを握った悟の指を一本一本剥がすのを、パタパタと音を立てて頬を伝った涙がテーブルへ落ちるのを、悟はかわるがわる眺めていた。いつものガラス玉のような瞳。それが。
「う……う……」
悟ののどからうめき声が漏れた。声が漏れるたび、悟の瞳を覆っていた無表情のガラスが一枚、また一枚と剥がれ落ちた。無表情の下には光があった。怒りと悲しみ、悔しさ、生命の輝き。
ガラス玉のような瞳は、ここに来て英語の勉強をしているときは人間の目になっていた。ちゃんと感情はあった。ところが、学校や家庭の話になると途端に何の表情もないガラス玉に戻った。感じないように、辛くないように、自分をそうやって守っているのだと遼一には分かっていた。だから追求しなかった。セイフティスポットは、安心できる場所だからセイフティスポットなのだ。そこが安心できなくなったら、存在意義を失ってしまう。悟はやってこなくなる。遼一は黙って待っていた。
悟はテーブルの上で拳を握りしめ、肩を震わせて泣いた。涙をあふれさせ続ける二つの瞳は、悔しさに黒く輝いていた。
第一ラウンドは、遼一の勝ちだ。
遼一はまず情報収集から手を着けた。
三月に河畔で悟に暴力を振るっていたあの三人。あれ以外に加害者が存在しないことを悟に確認し、三人のフルネームを聞き出した。氏素性を調べるには、個人情報が必要だ。これには悟の学級担任を巻き込むことにした。
「何て言ったら、悟のウチに迷惑をかけずに、俺が担任の先生と話せるかな」
「僕の『従兄』ってことにしたら? 遼一さん」
悟は目を輝かせて提案した。遼一は、こんな生き生きとした悟の目を見られて満足だった。あとはこの子を再び暴力に曝させないこと。これが達成されれば、この街に帰ってきた甲斐があったというものだ。
「従兄? 俺三十二だぞ。無理がないか?」
「従兄だもん、歳が離れてたっておかしくないでしょ」
悟は思案顔の遼一に屈託なく笑った。
悟は遼一の指示で、思い出せる限りのいじめの記憶を思い起こして書き出す作業に取り組んだ。これはひとりで自室にいるときにはやらせなかった。この子ひとりで辛い記憶と対峙させたくなかった。記憶の重積に引き込まれて、戻って来られなくなるといけない。
平日はほとんど毎日、土日も続けて、悟は遼一の部屋へやってきた。悟が語るいじめの記憶を、遼一はPCに打ち込んでいった。この華奢な身体が、そんな暴力に耐えていたなんて。小さなうちからそんな目に遭わされていたなんて。
悲しかった。胸が痛かった。できるものなら、幼児のこの子の前に現れ、連中のからかいから守ってやりたかった。自分が彼らの前に立ちはだかって、「止めろ」と怒鳴ってやりたかった。
感情が大きく揺さぶられていた。悟のガラス玉の瞳と同じく、自分の感情も長らく死んでいたことを遼一は悟った。
辛い、悲しい、悔しい記憶を紐解くうちに、悟は怒りの感情を取り戻したように見えた。不本意な暴力に屈しなくてもよくなる希望が、悟を元気づけたようだ。正当な怒りをその手に取り戻し、悟は三人と対決する勇気を持った。
次は、担任との面談だ。