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文字数 3,169文字

 純香はうっすらと笑って、立ち上がった。
「遼一くん、少し歩こうか」
 歩きながら、遼一は母と自分の闖入をわびた。お母さんとの大切な思い出の詰まったご自宅に土足で上がり込んで、純香をいたたまれなくさせたなら……。
「別に、そのことじゃないのよ」
「え……?」
 純香は「綿あめの機械がある」と呟いた。純香の視線の先には、公園の売店があった。簡単な軽食と飲みものを出している、古い店だ。その店先に、腰の高さで円盤状になっている、見たことのない機械があった。
「行こう、遼一くん」
 純香は駆けだした。遼一は呆気にとられたが、ワンテンポ遅れて純香に続いた。
 それは純香の言った通り綿あめを作る機械だった。お店のひとにお願いすると、一回分のザラメをくれる。ザラメを機械に入れると、細い飴の糸になって出てきて、円盤状のところにふわふわ溜まっていく。割り箸でそれをくるくる巻き取っていけば、縁日で売られているような綿あめができるという寸法だ。
 飴の綿を巻き取るにはどうやらコツがあるようで、しっかり巻きつけていくとできた綿は固くなりおいしくない。ゆるくふわふわに巻いてしまうと、糸の隙間が多すぎ、大きくなりすぎで、食べるときに頬にべたべたとくっついてしまう。バランスが結構難しい。
 遼一は、ああだこうだと言いながら糸を巻き取る純香の横顔を見た。楽しそうに笑っている。
 このひとは、こんな顔もできるんだ。笑うとやっぱり、キレイじゃないか。
 二人であれこれ言いながら、キャーキャー巻き取って食べていると、お店のひとが出てきて言った。
「あんたたち、きょうだい仲よくて結構だけど、いい歳なんだし、今度来るときは恋人とおいで」
 遼一と純香が揃ってポカンとしていると、お店のひとは子供をあやすように笑って言った。
「そっくり同じ顔じゃないか。誰が見てもきょうだいって分かるよ」

 帰り道は並んで歩いた。
 少しだけ遠回りすると街一番の商店街に出る。遼一はおそるおそる商店街を回っていかないかと言った。純香は早く家に着きたくないのか、文句を言わずついてきた。
 商店街は終日歩行者天国で、真っ直ぐ行くと駅に突きあたる。駅に近づくにつれ人出が増え、賑やかなひとだかりでは大道芸人の卵がパフォーマンスをしていた。純香の足もその前で止まった。遼一は純香に「ちょっと待ってて」と言って走り出した。
 遼一が息を荒げて戻ると、大道芸は休憩に入っていた。純香は振り返った。
「遼一くん、どこ行ってたの?」
「これ」
 遼一は肩で息をしながら、小さな薄い包みを純香に手渡した。
 純香はガラス玉のような瞳で包みを見た。
「何?」
「自分は地球にたったひとりで、行くあてもなくて、何だかなあ……っていう気分のとき、これを聴いて」
「CD?」
 メンデルスゾーンの有名な協奏曲だった。純香がパフォーマンスを見ている間に、そこのレコード店に行って買ってきたのだ。
「遼一くん、クラシックも詳しいの」
 包みを開けながら、呆れたように純香が言った。
「小さい頃、親の趣味でバイオリン習わされてたんだ。早いうちに才能ないのが分かって、解放された」
 とかく金のかかることの好きな母だった。息子にかかる費用は全て父に負担させる。そうして、本妻とその子供にかかる経費を圧迫しようという腹だった。
 純香はCDと遼一の顔を交互に見て、
「あんたも苦労してるわね……」
と呟いた。
 

「遼一、お父さんがね、今日は母屋へご飯食べに来なさいって」
 ある日、遼一が離れの玄関を開けるなり、母はそう遼一に声を掛けた。遼一の戻るのを待ち構えていたようだった。
 遼一はうんざりした。今更家族ゲームなんて、面倒この上ない。
 お屋敷へ来てから、毎週末の夜は、家族揃ってのディナーと決められた。サークル活動か何活動か、忙しい純香はいつも姿を現さなかった。週末だけでも面倒なのに、今日は一体何だろう。
「遼一! 聞こえたの?」
「……聞こえてるよ」
 遼一は母のいる居間には顔も出さず、自分の居室にあてがわれた階上の部屋へ重い鞄を引きずった。背後で「聞こえてるなら、返事くらいしなさいよ」と不満そうな母の声がした。
 離れの二階は遼一が使っている部屋と、広い納戸になっていた。遼一がここの生活で唯一気に入っているのが、居室にトイレとシャワーがあるところ。広い湯船に浸かって手足を伸ばしたいとさえ思わなければ至便だ。食事どき以外母の顔を見なくて済む。遼一は特段母を嫌ってはいなかったが、屋敷に乗り込んでからの母の張り切りぶりには嫌気がさしていた。いつになったら落ち着くのだろう。先妻のいなくなったこの屋敷に我が物顔で居座る限り、あのハイテンションは続くかもしれない。
 先妻さんが亡くなってまだ数ヶ月。今は離れ住まいに甘んじているが、1年もすればあの母のことだ、母屋に乗り込んでいくだろう。先妻さんに同情して何かと冷たいお手伝いさんたちも、ひとり替わりふたり替わりして、何年かすれば母の思うままになる。遼一は身震いした。とっととこの家から脱出しよう。二階の居室の快適さにほだされてはならない。
 遼一はそのときはっとした。もしこの屋敷が母の天下になったら。
 純香はどうなってしまうのだろう。
 父がついている限り、母が純香をいびることはないだろう。だが先妻憎しで多少の意地悪はしかねない。
 そんなことになったら、純香は今以上にこの家にいづらくなる。
 先日公園のベンチで見た純香の姿を思い出した。何を思っていたのか、コートのポケットに手を入れて、ただ無表情に池を眺めていた純香。
 存在感の薄いような、淋しげな姿だった。
 自分がいなくなったあと、彼女と、母がここに残るのか。
 純香も短大を卒業する。遼一は思い直した。ここに残って母と屋敷の覇権争いをするも、就職してここを出ていくも純香の自由だ。そうなったら、あの姉はきっと出ていく方を選ぶだろう。進学を機にこの街から脱出した遼一が、彼女と顔を合わせる機会は、もうずっとなくなるに違いない。
「遼一! 着替えたの? お父さん待ってるわよ」
 遼一の物思いを母の催促が遮った。遼一はうんざりして怒鳴り返した。
「今行くよ!」
 離れから母屋へ向かうだけなのに、その十数メートルのために靴を選ぶ母にイライラしながら、遼一は離れのドアを開けた。離れの玄関から目と鼻の先に母屋の勝手口がある。そこまでならつっかけでだって充分なのに、母は絶対に勝手口からは出入りしない。寒い中遠回りして、お手伝いさんが出迎える正面玄関から出入りする。
「家族なら勝手口から自由に出入りするもんじゃないの?」
 遼一はわざとそう母に聞いてみた。母の返事は、「離れにいるうちは『お客さま』よ」だった。「家族」扱いされていない今、勝手口から出入りするのはご用聞きと同じ。父の世話係として召使いと同列になってしまうという訳だ。聞けばなるほどという気もした。そんなことまで用意周到に考える愛人稼業の怪しさに恐れ入った。
「今晩は純香ちゃんもいるんだって」
 母は遼一に目配せした。ガサツな男の自分には、母が何を伝えんとしているか想像もつかない。理解するのを放棄した。
 そうか。だから週末でもないのに、夕食に呼んでくれたんだ。いつもボイコットする純香が、何の心境の変化だろう。
 父は珍しく上機嫌だった。遼一と母が食堂に入ると、父はすでにワイングラスを空けていて、純香の前には陶器のカップが置かれていた。彼らが席に着くと、お手伝いさんたちが急いで純香のカップを下げ、テーブルに食器を並べ始めた。食事が始まっても純香はいつもながら無表情で、ほとんど言葉を発しなかった。遼一たちをにらみつけたりもしなかった。にらみつけるどころか、食事の間純香はずっと下を向いていた。遼一と目が合うことは一度もなかった。
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