1ー2

文字数 2,478文字

 次々に運び込まれる引越の荷物。得意満面の母の笑み。
 誇らしさに反り返った母の背中は、戦いに赴く将軍のように好戦的だ。
(ここはあなたなんかの来るところじゃないわ)
 冷たい瞳が遼一を見据えた。白い肌。赤い唇がそう言い放った。
 蔑まれて嫌われて、幼かった遼一は心を閉ざすしかなかった。
 傷つかないため、自分を守るために、母屋には近づかず、顔を合わせずに済むよう登校時間を少し早めた。意気揚々とした母とは対照的に、息を潜めるように暮らした日々。
 避けているはずなのに。
 長い黒髪を(てのひら)に受けたとき、細い肩が震えていた。なぜかそんなときにばかり居合わせる。おびえる肩の震えを止めてやりたくて、守ってやりたくて。抱きしめた腕に力を入れると、ようやく悲しい震えは止まる。大丈夫だよ。そう安心させたいのに、自分はまだ子供だ。その力はない。遼一の胸で震える小鳥は、遼一のことが嫌いなのだ。嫌いだから、許されないから、遼一の胸に寄りかかる小さな悪魔。自分を省みない父、思い通りに振る舞うことを許さない周囲のすべてを、取り分け我が物顔に侵入してきた遼一の母と、そして遼一を憎んでいた悲しい小鳥。
 遼一より二歳年上で、だから彼女は遼一と同じようにまだ子供だったのだ。
 長い黒髪を撫でていると、突然まぶしい光が視界を切り裂く。
(誰だ、ここで何をしている)
 太い指に二の腕をつかまれ、引きずられ、暗いところに押し込められた。母がすすり泣いている。
(泣いてるの? ごめん、俺のせいだ。彼女は悪くない。全部俺が悪いんだ)
 まぶしいところにまた引きずり出され、張り倒される。遼一の身体は吹っ飛び、勢いよく壁にぶつかった。
(行動には結果が、そして結果には責任がついて回る。お前は責任を取らなければならない。)
 低い声は遼一に苦々しくそう言い渡した。痛みに身をよじりながら、最後に見た彼女の横顔。それが最後だった。張りついたような冷たい、彫像のような美しい姿。
 遼一の恋い焦がれた、たったひとりの女性の姿が、遠く、遼一の記憶の向こうに明滅した。
 もう、思い出すこともなくなって久しい。
 十代半ばの遼一は、年上の少女を愛していた。
 遼一を見据えるあの冷たい瞳。気まぐれにほほえんだ赤い唇。冷たく、熱い白い肌。
 美しかった。


「ありがとう……」
 はっと遼一は我に返った。
 抑揚のないか細い声で少年が礼を言っていた。
「何だ。しゃべれるんじゃないか」
 遼一は笑った。少年は、ガラス玉のような瞳で遼一を見上げていた。少年が自分の足で立てていることを確認して、遼一は少年を支えていた腕を放し、雪の上に散らばる彼の持ちものを集めてやった。少年は黙って遼一のすることを眺めていた。
 遼一はコートの雪を払ってやり、首にマフラーを巻いてやった。少年はおとなしくされるがままになっていた。暴行の恐怖から解放されたばかりで、放心状態なのだろうか。
「送っていこう。さっきの連中がいるといけない。君の家はどっちだい?」
 呆気にとられているでもない、憮然としているでもない、無表情な瞳が遼一を見上げた。黒い瞳に夕陽が赤くきらめいた。何を考えているのだろう。遼一はまたこの目に引き込まれそうになる。少年が片腕を持ち上げた。
「……あっち」
 言葉足らずの幼児のように、少年が夕陽の方角を指した。
「そうか。よし、行こう」
 遼一が促すと、黙って少年はついてきた。


 初めて車を所有した。明るい茶色のセダンだ。ナンバーを覚える気のない遼一は、その辺に停めていてもすぐ分かる色を選んだ。契約の日にキャッシュで全額支払った。物欲のない遼一は買いものをあまりしないが、こちらでは自家用車は必需品だと教えられた。都会と違って、市内の公共交通はバスしかない。取引先はどこも拠点を郊外に定めている。一、二時間に一本のバスでは行って帰るだけで一日が終わり、仕事にならないとのことだった。
 遼一が四月から請け負うのは、主に翻訳業務だ。ロシア貿易のコンサルタント会社から委託を受ける形で動く。取引の交渉や契約書類などは、ニュアンスを正確に読み取る力、書面語を駆使する力が必要だ。時間だけは長くロシア語とつきあってきたオーバードクターには、最適な仕事だと言えなくもない。法律用語はこれから文例を読み込んでマスターする予定だ。報酬は固定部分と歩合部分とを合計して支払われる。東京在住だった遼一の身体を、住居を移転させてチャージするため、固定部分は厚めにしたそうだ。あくまでここらの地域相場と比較しての「厚め」だ。
 届けられた中古車で、さっそく街を流してみた。長年ペーパードライバーだった遼一にはリハビリが必要だった。やはり街にはシャッターが目立った。先日助けた子供を送り届けた界隈を通過する。そういえば、もう少し先に中学校があったような気がする。遼一の通った校ではなかったが。
 どう見ても、あれはいじめだった。
 遼一自身、家庭環境のこともあり、クラスメートからいじめを受けた時期がある。だが、背が伸び体格がよくなって、小学校高学年になる頃には、一方的にいじめられることはなくなっていた。都会へ単身引っ越したあとは、無口で愛想がないため、いじめどころか、強面(こわもて)扱いされ怖れられたほどだ。
 あの子供は。遼一は考えた。
 あの子供は、言動こそ幼げだったが、中学生だった。いじめていたのも同級生か何かだろう。解けかけたザラメ雪にうずくまり、暴力に耐えていた背中。遼一は、彼のガラス玉のような瞳を思い出した。何の表情も宿さないビー玉のような黒い瞳。理不尽な暴力から身を、心を守るには、すべての感情を封じ込めてやり過ごすしかないのだろうか。並んで歩いた数分間、ほとんど口を利かなかった。
(ここでいい)
 小さな声がそう言った。遼一が振り返ると、少年は、親に見つかるといけないからと目を伏せた。いじめられている子供は、その事実を親にも教師にも隠そうとする。
 遼一は家の前まで送ると言ったが、少年は微かに首を振った。意外にも礼儀正しくお辞儀をして、少年はくるりと踵を返して走り去った。


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