5-2

文字数 3,854文字

「でも、どうして指輪のサイズが分かったの?」
 悟は不思議そうに遼一に尋ねた。
 先日遼一が揃いの指輪を求めた古い時計店を通り過ぎ、ふたりは繁華街の洋食店の扉を開けた。店に入る前に、コートを叩いて綿毛を払った。昼間から雪虫が飛び交い、街中が白かった。雪虫が飛べばもう雪が降る。悟はこすり合わせた手に息を吹きかけた。
 席に案内されて、開口一番悟は遼一にそう訊いたのだった。
 店のマダムが水とメニューを運んできた。
 悟の腹に合わせて簡略版のコースを選んだが、珍しく遼一はワインを頼んだ。車を置いてきたので気楽だった。
 飲みものが出ると、しばらく店のひとは寄ってこない。遼一はようやく質問に答えた。
「眠ってるときに、紐で測って」
 悟は「えーっ」と目を丸くした。
「全然気づかなかった……。僕、そんなにぐっすり眠ってたのかな」
「ああ。グースカいびきでうるさかった」
「そんな」
 悟は拳を口に当てた。
「嘘だよ。可愛い寝息を立ててたよ」
 遼一がそう言って笑うと、悟は赤くなりながら、「ホントに意地悪なんだからな」と唇をとがらせた。
「でも、想像すると、ちょっと微妙な絵面だね」
「ストーカーか変質者だな」
 受験の準備は加速していた。定期テストにも少し間がある。悟は日々、遼一の部屋で、自宅で、ひたすら問題集を解きまくっていた。英語の点数はかなり伸びた。文法と語彙さえ押さえれば、中学英語はシンプルな世界だった。今日は受験勉強の息抜きと、遼一の自炊の休息に、繁華街まで足を伸ばしたのだった。
「初めて、一緒に街へ来たね」
 悟はウーロン茶のグラスを揺らして、目の前で氷をかちりと鳴らした。
「別に俺はいつ来てもよかったんだけど。誤解、させたなら悪かったな」
 遼一はワインをひと口飲んだ。ハウスワインの白をグラスで頼んだだけだが、爽やかな香りが鼻に抜けた。
「ううん。もういいよ。僕もヘンだったよね」
 悟は服の上から鎖骨の辺りに手を当てた。そこには遼一から贈られた、契約の指輪が銀の鎖に下がっているはずだった。
「魔法は、よく効いたか」
 悟がひとりでいるとき、恐怖から悟を守る結界の魔法。妄想の歯車が回るのを止めるリセットスイッチになる指輪だった。
「もう。恥ずかしいな。いいじゃない、その話は」
 テーブルの下で、悟のすねが遼一を軽く蹴った。
 悟は暴れなくなった。五歳児のワガママがなくなって、悟の情緒は安定した。もともとは穏やかな性格だった。やや内にこもるところはあるが、ひとを思いやる気持ちもある。「お試し行動」が消失した今、精神年齢で数年分を一気に駆け抜けたようだった。歳上の恋人に釣り合うよう、多少は努力しているのかもしれない。
 パテと野菜の前菜、じゃが芋のポタージュと来て、メインは悟の選んだ牛ほほ肉の赤ワイン煮だった。
「遼一さん、この料理覚えてる?」
 料理に合わせ、二杯目に持ってこさせた赤ワインのグラスを傾けて、遼一は目を細めた。
「ああ。夏に行った富良野の店で食べたな。気に入ったのか?」
「うん。おいしかったから」
 悟はほほ肉をフォークとナイフで器用に崩し、ソースをよく絡めて口に入れた。よく味わったあと、ぽつりと小さく呟いた。
「……あれが『とどめ』だったな」
「何の」
「何のって……」
 悟はフォークを持つ手を下ろした。
「遼一さん、僕がデザートをどれにするかで迷ってたら、僕が選ばなかった方を注文して、僕にくれた」
「ああ。そんなこともあったな」
 悟は遼一を軽くにらんだ。
「あんなことされたらさ、落ちるよね、絶対」
「『落ちる』?」
「そうさ。だって……親にもそんなこと、されたことないのに……」
 遼一は夏のドライブを思い起こした。高原の風は涼しくて、緑の香りがした。悟がいたずらにつけたラジオからヴァイオリン曲が流れてきて、昔のことを少し思い出した。タルトに載ったさくらんぼを頬ばる悟の唇から、小さな赤い舌が見えた。そこから目が離せなくて――。
「そうだな。俺も、あれが『とどめ』だったかもな」
「……え……?」
 悟は意外そうに目をみはった。
「客室も居心地よさそうだと思った。酒飲んでこのまま寝ちまえればいいのにって」
 悟は苦笑した。
「……遼一さん、そのどこが『とどめ』」
「分からないか? お前と一緒だったんだぞ」
 オーベルジュにこのまま泊まりたいってことは、お前をひと晩帰したくないってことにならないか。遼一はほほ肉を大きく頬ばりながらそう言った。
「そんなぁ」
 悟は情けない声を出した。
「なら、早く言ってくれればよかったじゃない。僕がどれだけ悩んだと思ってるの」
「何、お前、そんなに悩んでたの」
「当たり前じゃない」
「ならさ、お前が早く言えばよかったんだよ。俺は半ば無自覚だったからさ」
「遼一さん……、無自覚なひとに言って、通じなくて玉砕しちゃったら、もう修復できないよ」
「そうかな。さーは異常に可愛いからな。そのか細い肉弾で来られたら、俺なら抵抗できない」
 現に抵抗できなかった。あの雨の日。ぐしょ濡れになって遼一の部屋の前にうずくまっていた悟。シャワーを使わせようとした遼一のシャツを、必死につかんだ細い指。遼一は目を伏せてふっと笑った。
「何だよ」
 悟が遼一の笑いをとがめた。
「いや。さーちゃんはずっと可愛かったなあと思って」
 酔いの回ってきた遼一の笑みに、悟もふくれっ面は止めてふっと笑った。
「そうだよ。僕の魅力にそうやって降参していればいいよ」
 悟との食事で酒を飲んだのは初めてだった。普段飲まないので、ワイン二杯で遼一はほろ酔いだった。料理が済んでテーブルが片付けられ、デザートが運ばれてきた。悟の頼んだタルトタタンは温めてのサービスで、湯気が立っていた。悟は「わあっ」と歓声を上げた。
「んー。おいしい」
 悟はとろけそうな笑顔になった。遼一は「そんなにうまいか」と呆れた。
「おいしいよー。ひと口食べる?」
 悟は遼一に分けて与えようとしたが、遼一は押しとどめた。冷え込んだ夜で、自分たち以外に客はいなかったが、店のマダムが奥にいた。ひと目があるところで、不用意な行動は慎むべきだ。
「いい。俺は自分のアイスを食べる。今日はやらないからな」
「ふふふ」
 アルコールで気分がふわりと軽くなっていた。たまには飲むのもいいものだ。悟が酒につき合えるようになるには、あと五年待たねばならない。五年後、二十歳になった悟は、どんな青年になっているか。
「何? 何がおかしいの」
 遼一はコーヒーカップを見つめたまま、笑っていたようだった。
「内緒」
「何だよぉ。莫迦にして」
 悟はぷいと横を向いた。遼一は黙ってコーヒーカップをゆっくりと傾けた。窓の外を向いた悟の、首筋がすっと伸びて、首の細さが際立った。遼一の視線に、悟は落ちつかなげに身じろぎした。シャツの合わせ目を指で押さえた。遼一の視線を釘付けにしておくため、悟が覚えた手管だった。頬がうっすら赤味を帯びた。誰もがまだ起きぬ朝まだき、つぼみがふっと音もなく開くように。遼一はコーヒーカップを置き、飲みきるまでに時間をかける。若い悟は焦らされるとより鋭敏になる。
「遼一さん、あのね……」
 悟の瞳がうるみ始めた。
「あの……」
 珍しく悟は言いよどんだ。遼一は促した。
「ん? 何だ」
 悟は喉許に手を当てたまま下を向いた。
「来週の金曜日、何か予定ある?」
 先の予定を訊かれるのは初めてだった。
「別に何も。珍しいな。どうした? 何かあるのか?」
「ウチの母に……会って、くれないかな……」
「悟……」
 遼一が口を開くと、悟は慌てて開いた手のひらを顔の前でブンブン振った。
「そんな、ヘンな意味じゃないんだ。僕、最近いつも家にいないでしょ。母が『一度家へお呼びしなさい』って。多分、お礼を言いたいんだと思うよ。もちろん、気が進まなかったら、無理しないで断って」
 悟の母が、秋の初め、大塚との三者面談をすっぽかした話は聞いていた。だが、自宅に招かれるならすっぽかされることもないだろう。悟が高校に合格したら、遼一の部屋で同居するのだ。彼の母にはいずれどこかのタイミングで、息子の下宿先として合格かどうか判定してもらうことになる。招かれたところで切り出せればベストだ。
 悟の慌てぶりがおかしくて、遼一はわざと言った。
「おー、ついに『息子さんを僕にください!』を言うのか、俺も」
「いや、だから、違うって。そんなんじゃないって」
「ください」って別にモノじゃないし。とか何とか、悟は口の中でもごもご呟いた。恥ずかしいのか、振っていた手のひらで顔を隠したが、指の隙間から真っ赤になった頬が見えた。
「行くよ」
 遼一は言った。指の隙間から、悟が遼一の反応をうかがっていた。
「遼一さん……」
 遼一はコーヒーを飲み干した。
「そんなに気を遣ってくれるなよ。俺の方が恐縮しなきゃならん立場だろう」
「……ありがとう」
 ふたりは立ち上がった。
 外は季節相応に冷え込んでいたが、アルコールのせいもあってか遼一は暖かかった。繁華街を外れると歩くひとの姿もなかった。遼一は悟の手をつかみ、自分のコートのポケットに自分の手と一緒に入れた。
「遼一さん……」
 悟はその身体を遼一にすり寄せた。
「僕ね……」
 ささやくように悟は言った。
「……生まれてきて、遼一さんに会えて……」
 悟はそこで言葉を切った。
 風にほんのりと灯油の燃える匂い、北国の暖房の匂いがした。
「うん」
 遼一は促した。
「…………よかったな」
 悟の言葉に、遼一は冬枯れの街路樹の下でその身体を抱きしめた。
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