1ー5

文字数 2,602文字

 台所の陽気が流れてくるよう、天気の好い日は間仕切りを開け放っている。冬はきっとかなり寒い。三月終わりに入居した遼一は、灯油の使用量に軽く驚いた。北国特有の出費がある。
 悟はすでに、遼一の書棚から数冊を取り出し、テーブルの上に積んでいた。さっそくその中の一冊をパラパラめくり始めた。
「俺ちょっとメールチェックするから、好きなだけいて。さっき買ってきたお菓子もあるし」
「いいんですか?」
「うん。いいよ」
 俺は嫌だったらそう言うから。いいって言ったら、ホントにいいから。そう付け加えて、遼一はPCに向かった。
 悟は、書棚とテーブルを行ったり来たりしながら、しばらく何冊もの本をパラ見していた。遼一は悟の存在を背中に感じながら、それが不快でないことに驚いた。他人が側にいるのに、それを苦痛に感じないとは。
 そしてそれは、悟にとってもそうだったかもしれない。家庭にも学校にも、くつろげる場所はないのだとしたら。寒々としたぼろアパートを「暖かい」と表現した悟にとって、毎日暮らす自宅はどれだけ冷たいものなのだろうか。暖かい。確かに、背に自分以外の人間の存在があるというのは、こんなにも暖かいものか。
「遼一さんって、専門はロシア語ですよね」
「うん」
「ロシア語科のひとって、英語も得意ですか?」
「ああ、まあ文の構造とか、語源とかは、他のひとよりもちょっとは詳しいかもね」
「じゃあ、たまにでいいんで、僕に英語教えてくれませんか」
 中学二年間で習った英語はあまり理解できなかったが、多分教師の説明との相性がよくなかっただけだと思う。新たに勉強し直したら、受験に間に合うのではないか。悟はそう自己分析して見せた。
「もちろん、遼一さんのお仕事のお邪魔にならない範囲で、お休みの日とか、空いている時間だけでいいんです。お願いできませんか」
 悟はそう頼んだ。多分、「英語」は方便だろうと遼一は踏んだ。自分のできる範囲で、この子供の役に立つ。遼一の希望通りになりそうだ。遼一は引き受けた。遼一の快諾に、悟が小躍りしそうに喜んでいるのが不憫だった。
 気の毒な、不幸な子供。
 遼一は悟をそう定義した。自分の心に湧いた不穏な何かにそうした定義を被せなくてはならないほど、背中に感じた悟の気配は暖かく優しかった。

 
 見覚えのある茶色のセダンを見つけ、悟は兎のように駆けてきた。
「こんにちは!」
 遼一が開けた助手席の窓から、笑顔で悟は挨拶をした。遼一は悟を助手席に載せた。
「お仕事ですか?」
「さっき取引先との打ち合わせが終わってね。ちょうど通りかかったから」
 学校はそろそろ退ける時間かと思った。路肩に車を停め、渡された資料に目を通しながら、遼一は悟が出てくるのを待っていた。
 遼一は悟の都合を聞いた。習い事や塾に通わず友達もいない悟には、何の予定もなかった。
「じゃあ、ちょっとつき合えよ」
 環状通りの大きめの本屋で買いものをし、この間入ったチェーン店のコーヒーショップの、この間と同じ席に二人は座った。手にした飲みものだけが異なった。遼一は同じコーヒーだが、悟はホイップクリームたっぷりのココアだった。
「わあ……」
 悟はさっそく真新しい絵本をめくった。
 遼一は悟に、五歳くらいの子供が読む英語の絵本を買ってやった。英語を学ぶならとにかく読むこと。教科書を一冊、一年かけて読んでいるようでは習得できない。
「本当は好きに読むのがベストなんだけど、受験は来年だからちょっとネジを巻かないとな。ノートに本文を書き出し、知らない単語を書き出し、辞書を引いて、日本語に訳していくこと」
 勉強の手順を遼一が教えてやると、悟は素直にうなずいた。外国語の学習に、悟は最適な教師を見つけたものだ。
「本屋に英語の絵本の在庫があってよかったよ」
 遼一はテーブルに肘をついた。街で一番の品揃えを誇り、雑誌からマニアックな専門書のたぐいまで大概手に入った、老舗の書店はなくなっていた。今日立ち寄ったのは、手広く数件経営していたその書店の、郊外型店舗の一軒だ。売り場は書籍半分文具半分。書籍のラインナップは実用書と話題の本が中心で貧相だった。これも時代だ。
「昔はさあ、街なかの本店に行けば大抵の本は手に入ってさ。そこかしこに古本屋も多くて、先立つものが足りないことはあっても、読みたい本が手に入らないなんてこと、なかったんだけどなあ……」
 そう言ってから、遼一は苦笑した。子供の頃の自分の前には未知なる世界が拡がっていて、見るもの触れるもの全てが興味の対象だったのだ。ロシア語研究を十年続けた自分の読みたい本は、果たして当時の本屋で手に入ったかどうか。
 コーヒーショップの前の道はカーブして、新式の橋へと続いている。その向こうにはオレンジとライラックの夕灼け。
「……遼一さん、昔、この街に住んでたんですよね」
「ん? ああ、高校の途中までね」
「高校の途中?」
 悟は不思議そうに首をかしげた。来年受験を控えた悟にとって、せっかく入った高校を途中で替わるなんて、想像の外に違いない。
「編入したんだ、東京の学校に」
「どうしてですか?」
 悟の髪は直毛で、小首をかしげると前髪が額で揺れる。遼一は素直な悟の疑問に、いたずらっぽく笑って答えた。
「やんちゃがバレて、家を叩き出されたんだ。『もう二度と帰ってくるな』って」
「えーっ」
 悟は目を丸くした。
「本当ですか?」
「ああ、ホントホント。だから俺、親の葬式にも帰ってこなかったもん」
 悟はどんな顔をしたらよいのか分からないでいるようだった。困った顔で黙っていたが、しばらくして小さな声でこう尋ねた。
「そんな『やんちゃ』って……。一体何をしたんですか」
 遼一は笑って答えなかった。
(失敗続きの俺の人生でも、あれは一番の失敗だったよなあ)
 遼一は自分の人生を、取り返しのつかない失敗からスタートした。触れてはいけない、大切な、大切な宝物をこなごなに壊してしまった。だがその割には、食うに困ることもなく、犯罪に手を染めることもなく、この歳まで生きてきた。ひとづき合いをしない分余計なトラブルに巻き込まれることもなかったし、不満のない悪くない人生だ。
 ただ一点、何のために生きているか分からないことを除いては。
「さあ、そろそろ帰ろうか。送るよ」
 中学生をあまり遅くまで連れ回してはいけない。悟がココアを飲み干すのを待って、遼一は立ち上がった。 
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